49・栞と颯太のゴールデンウィーク⑩
新釈ピュグマリオン・49
『栞と颯太のゴールデンウィーク⑩』
ピュグマリオンは、ギリシア神話に登場するキプロス島の王。現実の女性に失望していたピュグマリオンは、あるとき自ら理想の女性を彫刻。そうして彼は自分の彫刻に恋をするようになった。そして彼は食事を共にしたり話しかけたりするようになり、それが人間になることを願う。その像から離れないようになり、次第に衰弱していく姿を見かねたアプロディーテがその想いを容れ、像に命を与え、ピュグマリオンはそれを妻に迎えた。
旅行三日目。
今日は有馬温泉に行くのだが、颯太の提案で、寄り道をしていくことになった。
「こんな下町になにかあるの?」
「オレの小さなころの……ま、行ってみれば分かるさ」
梅田からタクシーに乗り、都島の赤川という下町で降りて、五分ほど歩いた。すると、路地を曲がった彼方に緑の壁が見えてきた。
「ああ、堤防だ……」
その緑の壁は近づくと大川の堤防であることが分かった。
「わあ、まるで荒川みたいだ」
今日は上天気の子供の日である。河川敷は、ボール遊びをする子どもたちや、ジョギングの大人たちが目立った。西の方を見ると河を跨いだ大きな鉄橋が見えてきた。
「あれは赤川鉄橋って言ってな、日本で一つしか見られない貴重な秘密の鉄橋なんだ」
颯太は、子どもが宝物を見せるように楽しげに言った。
「秘密と聞いちゃ、じっとしてられないわね!」
セラさんがハイテンションになって堤防上の道を鉄橋目がけて駆け出し、栞があとに続いた。
「ああ……」
残念そうな二人の声が聞こえ、颯太は、何事かと駆けだした。
「あ、閉鎖されてる……」
赤川鉄橋は、全国でも珍しい人道併設の貨物列車用の鉄橋だった。城東貨物線の鉄橋として戦前からあり、将来の複線化を見込んで、この鉄橋は複線になっているが、城東貨物線そのものが単線のままだったので、複線の片方に板と手すりを付け、半分を人道橋として使っていた。わずか数十センチのところを貨物列車が通るので、地元の子どもたちの冒険スポットであり、少年の頃の颯太も、よくここで遊んだ。
それが、フェンスで塞がれて、鉄橋の上に出ることができない。むろん、もう貨物列車も通ってはいない。
「そうか、おおさか東線に変わったからな……」
颯太は、やっと思い出した。
「ここに来るまでに思い出さなかったの?」
栞が半分むくれたように言った。
人の記憶は場所によって時間が止まっている。通いなれた道でもしばらく通らないうちに家が建て替えられ、久々に通って驚くことがある。セラさんなどは、彼女と別れて女に身体改造してからは、それ以前の記憶はセピア色の彼方に行ってしまっている。颯太にとって、この鉄橋は十数年間時間が止まったままだったのである。
「あれ、霧かな……」
それまで五月晴れの空だったのが、一瞬で暗くなり、河川敷の大人や子どもたちのさんざめきも聞こえなくなった。
「あ、この音……」
栞の声で振り返ると、鉄橋のフェンスが無くなり、列車が接近してくる鉄橋の響きがして、やがて霧の向こうから、列車が黒い影となって近づいてきた。すぐそばまでやってくると大きな汽笛がした。
「デゴイチだ……!」
それは、颯太でさえ見たことが無い、蒸気機関車のD51だった。それが、なぜか貨物では無く客車を引いている。
気づくと、颯太は客車の中にいた。窓の外は乳白色の霧に覆われ何も見えなかった。
正面の向こうの扉が開いて、詰襟の少年が現れた。
「やあ、世話を掛けてるね颯太くん」
少年は、少しはにかんだように言った。
「世話……?」
「栞のことさ。あれのことは高校二年をダブった時に親父から聞かされた。だから、いつまでたっても、栞は女子高生だ」
「君は……」
「うん、立風颯太というのは、職員録から見つけたきみの名前を頂いた。だから名前から詮索しても僕のことは分からない。僕ももうこの世にはいないから、詮索は勘弁しておくれ」
「でも、なんで城東貨物線に……」
「きみと同じ共通体験。ぼくのはディーゼルじゃなくて蒸気機関車のデゴイチだけどね」
「じゃ、このあたりの?」
「詮索はなし。栞、高校二年になったんだね……少しずつ成長している。颯太くん、きみのお蔭だ。栞のこと、その時はよろしく頼むよ」
そう言って、少年は手を伸ばしてきた。
握手しようと思ったら目の前が白くなった。
でも手は握られていた……気づくと栞の手だった。
「大丈夫、フウ兄ちゃん?」
颯太は唖然とした、栞の顔は人形のそれではなく、人間だった。
「栞、おまえ……」
そう言ったとたんに、人形の顔にもどってしまった。でも、今まで一番長い時間だった。その時は、意外に近いのかもしれない……。
新釈ピュグマリオン・第一部 完




