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書店員の恋  作者: 三波都子
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りんご飴

 僕が、「麗しの君」と再会したのは、楠書店でアルバイトを始めたその日のことだった。

 

 店長に言われた通り、引っ越しした翌日の9時に僕は楠書店に行き、午前中は品出しの方法と掃除の仕方、また、書棚の配置について教わっていた。午後からは、レジ打ちの仕方とブックカバーのかけ方を教わり、自分の手先の不器用さに愕然としていた。


 「麗しの君」が店にやってきたのは、夕方の5時頃だった。

 その時僕は、店長に言われて平台に積まれた本の整理整頓をしている最中だった。


 がたがた、と立て付けの悪い楠書店の入口のガラスの引き戸が開けられる音がしたので、「いらっしゃいませ」というために(これは午前中に南さんに教わった)後ろを振り返ると彼女がいたのだ。


 その日の「麗しの君」は、白いシャツに黒いロングスカートをはいて、髪はゆったりとべっこうのバレッタで後ろに一つにまとめていた。

 シンプルな装いだが、なんだかすごく僕にはおしゃれで洗練されて見えた。

 そして、「いらっしゃいませ」に「い」を言おうとしてそのまま固まっていた僕を見ると、上品な微笑みを僕に向けて書棚のジャングルの中へと消えていった。


 その時の僕は、きっとものすごく間抜けな顔をしていたと思う。

 初めて楠書店に来た時に、「ここは宝物」と微笑みかけてくれたお姉さんだとすぐに気づいた。あの時は、楠書店の魅力に憑りつかれてしまっていたが、今思えば、あんなにも可憐な人に話しかけられたことは僕の人生の中で一度もない。

 そんなにも素敵な人に、二度も微笑みかけられて、僕は最高にドキドキしていた。


 慌てて、間抜けなタイミングで

「いらっしゃいませ」というと、平台の整理整頓をしているふりをしながら、全神経は彼女に向けて彼女のことを観察していた。


 この前会ったときは、恋愛小説のコーナーを物色していた彼女は、今日は時代物の文庫本がある棚を丹念に見ていた。

 一冊ずつ棚から出しては、表紙と裏表紙を確認し、数ページめくって棚に戻す、ということをずっと続けているうちに、面白い一冊に出会ったのか、にっこり、ということばぴったりな笑顔をするとその一冊を左手に持った。

 そして、次に、現代小説の文庫本の棚に行くと今度は何の迷いもなく、一冊抜き取ってレジに持って行った。

 店長とひとことふたことかわすと、また、上品な微笑みを店長に向けてゆっくりと楠書店を後にした。


 あれから1年。

 彼女が楠書店にやってくる日を、僕は指折り数えてきた。

 そして、気づいたことは、彼女が楠書店にやってくるのは、毎週金曜日であること。毎回、文庫本を2冊買っていくこと。ただし月に1度だけファッション雑誌も買っていくこと。

 どうやら店長や南さんとは旧知の仲のようであること。

 まだ、名前も年齢も知らないが、とにかく、彼女が店にやってきて本を選んでいる顔を見ることが毎週の僕の楽しみになっているのだ。

 なにも知らなくていい。ただ、あの薄くて形のいい唇の口角を微かに上げ、眼尻は少し下げるだけの上品な微笑みをたたえて店に入ってくる姿と、お気に入りの一冊を見つけた時の、にっこり笑顔を見ることができればそれでいいのだ。


 僕はいつの間にか、すっかり「麗しの君」の虜になってしまっていたのだ。


 最初は、彼女のことを「麗しの君」とは呼んでいなかった。


 あれは、バイトを始めて2か月ほどたったころだ。

 僕はそのころ、南さんとタッグを組んでレジに立っていた。

 しかし、あの金曜日は、南さんが翌日お子さんの結婚式があるとかで、休みの日だった。

 店長は、何やらバックヤードでぎこぎこと作っていて、僕は一人でレジ台にいた。


 そこへ、彼女がいつものようにやってきて、本を選び始めた。

 それまで、彼女が来たときはだいたい平台の整理整頓をしていた僕は、初めて彼女に商品を受け渡す日が来たと思うと、ドキドキが止まらなくなって、彼女がまだ本をゆっくりと選んでいるというのに、手汗がじんわりとにじんできた。

 生きた心地のしないまま、スツールに座っていることにも耐えられず、立ったり座ったりしているうちに、彼女はその日の2冊を決めたようで、ゆっくりと僕のほうへ近づいてきた。


 僕は、口の中が乾いてしまっていたが、なんとか、

「いらっしゃいませ」

というと、彼女から商品を受け取り、

「ブックカバーはいかがされますか?」

とガラガラとしゃがれた声で尋ねた。


 彼女は、穏やかなそれでいてよく通る声で

「お願いします」

 と答えたので、僕は、商品のバーコードを読み取らせ、値段を彼女に告げると、レジ台の下の棚から文庫本用のカバーの紙を二枚取ると、ブックカバーをかける作業を始めた。


 この時の僕のブックカバーをかけるスキルは今以上にひどいものだった。

 しかも、あの美しい彼女が、今までにないほどの至近距離で僕の手元を見ているのだ。

 心臓はものすごいスピードでビートを刻んでいるし、手汗はじんわりどころがべたべたしてきたし、背中にも汗をかいてきたし、口はどんどん水分をなくしていくので、ブックカバーをかけることに全注意を向けることが難しい。

 しかし、早くブックカバーをかけて渡さなければ、彼女にもこの後予定があるかもしれない。


 焦るあまり、僕は、一枚目のブックカバーを破いてしまった。


 もう、恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら入りたい気持ちというのを人生で初めて味わっていた。

 額にまで汗が出てきたし、手も少し震えていたかもしれない。


 慌てて、もう一枚、レジ台の下の棚からブックカバーを取り出した僕の耳に少し高めの心地よい声が聞こえた。


 「焦らなくていいですよ。私、もう家に帰るだけなので。」


 驚いて顔を上げると、彼女がいつものあの上品な微笑みをたたえて僕のことを見つめていたのだ。


 その瞬間、「麗しの君」という言葉が僕の脳内に振ってきた。

 これが、「麗しの君」という呼び名の誕生秘話である。


 この時から僕は、以前以上に「麗しの君」が来店することを心待ちにするようになったどころか、「麗しの君」と会話して、親しくなって、デートをするシチュエーションを何度も頭の中で再生するようになった。


 ちょうど、今南さんに頼まれたような、品出しするための商品を店のほうへ運びだすだけ、という頭をつかわない単純作業の時は、つい物思いにふけってしまう。



 お堀の近くで夜桜を眺めた後、君は先ほどのようなセンチメンタルな気分は吹き飛ばして、

「屋台をみにいこうよ!」

と元気よく僕の袖を引っ張る。

 僕も笑いながら、その願いにこたえて、さっきは通り過ぎた公園のほうへ歩き出す。

 露店は、大繁盛していてどこもかしこもにぎやかな笑い声で満たされている。

 君は、どの露店で買い物をするかずっと迷っているようだ。

 「郁夫くんは、露店ではこれを買う!ていうの、決めてたりしないの?」

 かわいらしい上目遣いで僕に尋ねてくるので、すぐさま抱きしめたい気持ちにかられるが、その衝動をぐっと抑えて僕は答える。

 「りんご飴とかすきだけど、いつも甘すぎて最後まで食べきれないんだよなあ」

 「あー!それわかる!あとりんご飴のりんごって普通のりんごより小さいのに、なぜかすごく多く感じて食べるの大変なんだよね!よし、じゃあ半分こしようよ!」

 

 君は早口で言うと、走ってりんご飴の屋台のほうへ行ってしまう。

 僕も慌ててその小柄な後ろ姿を追いかける。

 

 やっと君に追いついたときには、君はもうすでにりんご飴を手にもってにこにこと僕のことを待っている。

 僕たちは、近くのベンチに腰掛けて、交代でりんご飴にかじりつく。


 「こうやって二人でりんご飴食べるってなんか新鮮だね。」

 君はふふふと笑って言う。

 しかし、突然、はっとした顔をして、恐る恐るといった感じで僕を見つめる。

 「もしかして、二人で半分こするの、いやだった?」

 そんなことあるはずないので、僕は慌てて首を振って君に伝えるのだ。


 「そんなことあるわけないよ!むしろ君と半分こしたほうがずっとおいしいよ!」

 すると君は、ものすごくうれしそうな顔をして僕を見上げ、僕に抱き着いてくる。

 僕は君をしっかりと抱きとめ、そのまま、そのかわいらしい唇に自分の唇を・・・・・



 寄せようとしたところで、南さんの大きな声が聞こえて現実に引き戻された。


 「あら!イカリちゃんじゃない!」


 声のする方に目をやると、そこには今僕が妄想の中でキスしようとしていた相手が実際に立っていた。


 あの素敵な上品な微笑みをたたえて。


 「南さん、こんにちは。」


 今日も彼女は麗しい。

 本物を見ることができただけで僕は幸せ者だ。

 


 

 


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