おわりはのどを鳴らして
はじまりは手洗いから。
あとはなんやかんやで歯磨きを。
それが食事におけるAとZ。
グルメ番組では放送されない部分だ。
リポーターの目の前に美味しそうな料理が運ばれ、それに舌鼓を打つ。
感想を言う。
そんな流れで終わる。
しかしあえて言おう。
本来、番組が映すべきはAとZだ。
いやむしろAより前も重点的に映すべきなんだ。
想像しなさい……想像しなさい……妄想しなさい……あなたは今、仕事のために普段降りない駅にいる。
駅舎を出た。
肌を切るようなするどい風があなたの顔にぶつかった。
せっかくセットした髪がちょっと崩れてしまった。
しかも鼻の穴に一本髪が引っかかってしまってくすぐったい。
くすぐったくてふがふがしてそれを取ろうとした。
鏡がないので携帯のカメラ機能を使った。
間違えてシャッターを押してしまった。
ピヨヨオオン、と高い電子音が響いた。
通りすがりの人がえ? と言ったようにあなたをチラ見した。
あなたは別に何でもない風に駅舎の壁にもたれて、ちょっとあごをしゃくれさせて携帯の画面を見つめている。
すまし顔だが内心穏やかではないはずだ。
さて、外面を保つことに成功したと思っているあなたは仕事の約束の時間までまだ時間があることに気付いた。
時刻は一時。
約束は二時。
ちょうどよいのでオシャレな喫茶店に入ってサンドウィッチとコーヒーを頼もう。
そうあなたは考えて頭の中で美味しい羅列を並べ始める。
――サンドウィッチはもちろんトマトとレタスのフレッシュネスな新鮮さとスパイシーさを求めよう。
フライしたチキンをサンドしたやつもいい。
フルーツと生クリームというサンドな組み合わせもいいかもしれない。
社会人になって早五年、自分はなんてダンディーでハードボイルドなキャリアウーマンになったのだろう。
ナウイな。
イケイケだな。
キテルな。
それにしても、最近はまた新しい言葉が増えたな。
チョベリバだとかチョベリグとかイン・フエルノ・オオとか。まあ最低限使いこなせればそれで万事グッドラックだ――
あなたはさまよう、さまよう。
暖かな食事を求めてさまよう。
駅舎に飲食店はなかった。
冷たい風がむけてしまった唇に吹き付けられる。
走っていく車が埃とガスを撒き散らす。
前を歩く歩きタバコ野郎の吐いた煙が風下の自分の顔にぶつかる。
グキュィ、と胃からの音がする。
最近忙しくてゼリー飲料やら小さなパックの野菜ジュースばかり。
うらめしく思い出すのは昨日のこと。昨日のこと。
会社に自宅の鍵が入ったホルダーを忘れてしまったこと。そのこと。
会社に戻るには一時間ほどかかるから、あなたは残業しているであろう同僚に電話した。
同僚のろれつはひどかった。
同僚は残業を終えて焼鳥屋にいた。
あなたは即座に電話を切り、仕方なく会社へ戻った。
ビルの警備員さんは嫌そうな顔をした。
事情を聞くとしぶしぶ会社の中へ通してくれた。
自分の机を漁った。あった。
すぐに会社の外へ出た。
さっさと帰ろうとした。
終電はもう無かった。あなたの中で凄まじい怒りが沸き上がった。
どこにぶつけたらいいのか分からない理不尽な怒りだった。
右手の袖口からほつれた糸が一本ふにゃりと手首をくすぐった。
これはもう絶対に許せなかった。
あなたはコンビニへ向かった。
もう何もかもどうでもいいと考えていた。
糸を切るためのハサミを探した。あった。
それから軽食を探した。
ゼリー飲料しかなかった。
絶望は憤怒にしか変わらなかった。
あなたはついにキレてしまって、持てるだけゼリー飲料をレジへ持っていった。
買ったあとで、ハサミを買い忘れたことに気がついてあなたはもうやるせなかった。
ネカフェで一夜を過ごした。
あなたのお腹は、何かをあなたに訴えたまま今日を迎えてしまっていた。
今日はそんな今日だった。
さあ、猶予はあと一時間。一時間。
あなたは早くちゃんとした優雅な食事をとるべきだ。
優雅にカップを傾けてサンドウィッチをかじり、一時間前のあなたのように顔色の悪いさまよえる社会人たちを鼻で笑って侮蔑するのだ。
それこそが許された至高なのだから。
喫茶店が見えてきた。
茶色が多いレトロな外観。
これは味に期待ができるに違いないと思わせる外観。
しかもチラッと見えたウエイトレスの外観もシックで上品で素晴らしい。
磨かれてやんわりと反射する黄色の丸いドアノブをひねれば、すぐさまコーヒーの芳しい香りがあなたを迎えてくれた。
どうだろう?
もしかしてツバがあふれてきたかな?
だけど抑えて抑えて。まだ席にもついていないのだから。
ウエイトレスさんに人数を聞かれたよ。
あなたは指で数を示した。
ちょっと照れくさいから、声は出さなかった。
案内されるがまま席に着いた。
やっと着いた。やっと。
腕時計で時刻を確認してみよう。あと五十分も残っている。余裕だよ。
ボリュームのあるカツサンドと玉子サンドのセットを頼んだんだね。
そしてコーヒーは大人ぶってエスプレッソ。
濃くて苦いのは大人の味だからだ。
だけどもそれだけ風味もある。
あなたは待った。待った。待った。
口の端からこぼれ出しそうなツバをなんとか抑えて待ったんだ。
新聞を広げている隣の客がちらりとあなたを見た。
目が合ったのであなたもその客も慌てて目をそらした。
気まずくなったあなたは出されたおしぼりで必要以上に手を拭いた。
それからテーブル上に出された一杯の水を呑んだ。
冷たい水がのどを刺激して胃のその奥へと落ちていく。
キンキンに冷えていたのだろう。
あなたのお腹は痛くなってきた。
胃、十二指腸、小腸、大腸、大体そのあたりが、今気がついてぐるぐると動き出した。
癒着したモノを引きはがし、ちぎり、したたらせてはうごめいた。
額に脂汗がにじみ出していた。
片手で腹を抱えて、もう片方の手で作った拳をテーブルの上で握りしめた。
内臓がねじ切れる感じがする?
そんなのいつものことだろう。気にしてはいけない。
サンドウィッチが目の前に置かれた。
ウエイトレスさんがそっとテーブルに置いてくれた。
いい匂いだ。
カツのとってもジューシィな匂いは触れていなくたって分かるし、一緒に持ってきて貰ったエスプレッソの黒い液体は自分の顔を映してくれている。
玉子サンドを手にとった。
口に入れてあごを動かし歯と舌を使って咀嚼を始めた。
舌は美味しいと感じたか否か。
そうかそうか。良かったね。
食物は嚥下できたか否か。
そうかそうか。良かったね。
きちんと玉子サンドも食べることができた。
次はカツサンドだ。
そうだ、そう。うん、噛んで。噛みちぎって。
ジューシィな肉を味わって。脂の味とソースの味を楽しんで。
舌でそれらを転がして、唾液としっかり絡めて、呑み込んで。
全て平らげたらお代を払って、店を出て。
それからあなたは近くのビルに駆け込んだ。
トイレに行って、胃を痙攣させて全部吐いた。
当たり前だろう。
それはあなたにとっての食事ではなかったのだから。
胃液がのどを刺激する? ならば水道の水でうがいをするべきだ。
手もきちんと洗うし、ついでに顔も洗ってしまいなさい。
バシャバシャと冷たい水を肌にぶつけて余計なものを全て洗い落としてしまうんだ。
あなたは目の前の鏡を見る。
それを本物かどうか疑って濡れた手で鏡の表面を触った。
濡れた場所が光をおかしな具合に反射した。
こけた頬にくぼんだ眼窩。
虚ろなのにぎょろりとして異様な光を持った眼。ガサガサになった唇。
体格だって以前よりずっと小柄になって、スーツはもうダボダボだ。
クリーニングだけはきちんとしているからパリッとしていて綺麗だけど、着ている君はまるでスーツをかけるためのハンガーだ。
今は何時? そう、あと二十分しかないんだね。
体が軋んでいるし、胃がまた空腹を訴えている。
何かを入れなくちゃ。
お客さんの前でお腹が鳴ったら失礼だ。
商談中に倒れたら怒られちゃう。
そしたら今日も眠れずにまた残業だ。
タイムカードについては心配しなくてもいい。同僚が切ってくれる。
トイレを出たら、食べ物を探しに行こう。
短い時間でできて、効率よく栄養を吸収できる。
起きざまのすきっ腹にだって対応できる魔法の食事を。
ビルを出たらあのお店に行こう。
平たくてチカチカしているあのライフラインは自分を待ってくれている。
小さなカゴにそれを一つ二つ入れて、一応そのドリンクも二つ三つ入れて、会計をして、店の外に出て。
ゼリー状のそれをチューブから摂取して味わう。味わう。二つとも。
ほっとする。今自分の体が受け入れられるもの。
これを買うためのお金が必要で、だから働いている。
そして最後にドリンクを一本だけ飲む。あとは夜のために置いておこう。
カバンに入れっぱなしのお菓子を口に入れて息も綺麗に、
――終わってしまったね。もう思い出してしまった。現実に戻ってしまった。
あなたは保育実習中の学生だ。
もう戻れない。
直面するその時は来てしまった。
そしてあふれてしまうのはどうしようもなく綺麗な記憶なんだ。
実習中に食べたご飯の味。
可愛らしさと穏やかさがそろったあの閉鎖空間。
全ては自分のもの。
あなたが体験したこと。
見たもの聞いたもの。
残念ながらそれがあなたの今で、だからそれそっくりの未来予想図を簡単に浮かべられたんだ。
自分は社会人じゃない。子どもで大人で学生で先生で一人前の未熟者だ。
よかった。
自分はこれからも全く変わらない。
甲乙つけられない生活だ。
変わらないことこそ最高の嗜好であるはずなのだ。
ならこのまま進んだって、もうかまわないだろう?
全てがすめば次はAが待っている。
それが始まればあとはZへ向かうだけだと、そう教えられてきただろう?
どうして時間を気にしている?
それはもう意味のないものだ。
ゴミを捨てて、身だしなみを整えて、さあ行こう。
書ききれなかった実習記録と作文を持って、唾液代わりの酸っぱさを呑み込んで。