焼酎梅割りによる心神喪失
病気の治療のために。
夜、部屋にいないようにすることにした。
彼が来たら開けてしまうから。
開けてしまえぼば、拒むことはできない。
それでは、いつまでたっても、病気は治らない。
病棟で朝を迎える勤務を数えられないくらいこなしてきた。
闇が濃紺に変わり、空が白み、東側の窓から、真っ赤な光が差し込む。
七階にある南病棟から見る朝焼けは、ひどく眩しく、疲れきった体にも頭にも滲みる。
目覚め動き始めた病棟、日勤者に申し送りを済ませ、パソコンの前に座ると、ほっとするせいか、瞼が落ちてくる。
帰ってシャワーを済ませたら、きっとそのままねむってしまう。
そして、きっと夜、眠れない。
詰所で大きな分厚い手で器用にキーボードを叩く西口が目についた。
「西口先生?今日飲みに行きませんか?この前、結構ごちそうになっちゃったし」
「あ?あぁ、いいぞ。平原さんはもう、俺とは飲まないかと思った」
「いや、別に。ほんとのことだし。他にいないんですよ」
「そんな理由かよ」
「なかのいい同期は退職してるし、結婚してたり、子供がいたりするから、なかなか急には誘えなくて。私付き合い悪くなってたから、院内に、気軽に飲みに誘える友達いないんですよね」
「平原さんと飲みに行きたい、男はたくさんいるだろ?」
「いませんよ。男の友達っていないし……。女の友達も少ないけどね」
「そんなわけないだろ〜」
「いませんよ」ちらりと茶色の柔らかそうな髪の優しい目をした顔が浮かぶ。
「……まぁ、いいぞ。どこにする?アルデバランか?」
「……先生、性格悪いですね」
「そうか?じゃあ、沖の太夫って居酒屋知ってるか?」
「はい、わかりますよ」
「じゃ、9時でいいか?」
「ちょっと遅くないですか?」
「終わらねぇんだよ。9時でもギリギリだよ」
「了解」
沖の太夫は、四階建てのマンションの一階部分のテナント。
色の褪せた暖簾をくぐり、ガタガタとならして戸を開けると、「いらっしゃい」と明るい声がかかる。こじんまりとした店内を見回す、カウンターが五席、テーブルが四つならび、テーブル席に二組の先客がいる。まだ、西口は来ていないようだ。
カウンターに座ると、にこやかな女の人がお通しを持って、やってくる。生ビールと湯豆腐を注文する。
お通しは、レンコンのきんぴらだ。しゃきしゃきとした歯応えと、ピリッとした辛味。ビールが進む。もう少しで約束の時間だけれど、西口はきっと遅れてくるだろう。湯豆腐をつまみながら、焼酎の梅割りを注文する。梅がさっぱりとして飲みやすい、するすると喉を通る。
グラスを何杯かからにした頃、大きな体を小さくして、戸をくぐって西口はやってきた。
「どんなけ飲んでんだよ。すっかり出来上がってるじゃないか」
「先生が遅いからですよ」
「人のせいにするなよ」笑いながら、焼酎の梅割りと手羽先の唐揚げを注文する。
「この間はごちそうさまでした。たらふくマタドール飲みましたから」きっとこれで、西口に私の意志が伝わる。ふっと息を吐くように笑い、テーブルにおかれたレンコンのきんぴらを口に運ぶ。
「そうか」とだけ言う。
西口は私が部屋にいたくないだけで、ここにいることをわかっている。
だから、私はあえて話題を探さない。西口もグラスを傾け、手羽先の唐揚げを平らげるだけで、何も言わない。
飲み過ぎかもしれない、そう思ったときには、体が言うことを効かなくなっていた。
「飲み過ぎだろ。なにやってんだ」西口に腕を取られ、抱えられるように店を後にした。
「また、ごちそうになっちゃた……」
「おい、しっかり歩けよ。タクシー呼ぶから」
西口に寄りかかっていると、タクシーに乗せられた、一人で大丈夫と声をかけたが、西口も乗った。
運転手が渋ったようだ。
こんな女の酔っぱらいは迷惑でしかないよね。耳も意識もはっきりしているけれど、体は言うことを効かない。
マンションのエレベーターに乗るときには、足に力が入らず、立てなくなってしまった。西口の背中に乗せられた。温かく広い背中は、ひどく心地いい。歩みに合わせてゆっくりと揺れる。
熊の背中ってこんな感じなのだろうか?乗ったことはないけれど。
西口はカバンから鍵をあさり、マンションの戸を開ける。
「おい、大丈夫か?しっかり、水を飲めよ」
玄関で背中から、ゆっくりと下ろされる。
温かい広い背中から離れたくない。もう少しだけ。ぎゅうと腕に力を入れた。
「……平原」
「……離したくない、もう少しだけ」
けれども、腕は簡単にほどかれて、寝かされたフローリングの床は冷たくて硬い。
細く目を開けると、じっと見つめられる。その真っ直ぐな瞳を見つめ返すことができずに目を閉じると、唇に柔らかいものが触れる。それはゆっくりと深くなる。
唇が離れて、大きく息をする。
「はぁっ……」自分の声とは思えないほどの甘い声に耳を疑う。
膝裏と背中に腕をいれられ、ふわりと体が浮き、とっさに、首に腕を回してしまう。
胸に頬を寄せると温かく広い。
下ろされたのは、ふんわりと柔らかい体に馴染んだベッド。いつになく大きな軋む音が響く。体に重みを感じ、首筋をチクリと痛いくらいに吸われる。
西口は耳元でささやく。
「バカ、そんなに物欲しそうな顔しても、抱いてやらねぇよ」
バシッ!
音と共におでこに激痛が走る。
「イタっ!」
「……お前、なにやってんのか、わかってるのか?」おでこを押さえ、まぶたを開けると、目にはいったのは、西口の嘲笑う口元と冷えた目。
「……わかってる」
「わかってない。お前は全然、わかってない」
「……」
「お前は……、最低だな」
「それもわかってる」言われるまでもない。でも改めて、他人の口から出る言葉は思いの外、胸に刺さる。
「俺と寝たって言えば、あいつはもう絶対にここに来ない。でも、俺のところにもこない。……誰でもいいんだろう?そう言われても仕方ないことしてるんだぞ。あいつも俺も、自分も不幸になる選択してどうするんだ?!自分だけが寂しいと思うな、自分だけが苦しいと思うな、誰だってそんな思いを抱えて生活してんだよ」
「……」西口は正しい。正しい言葉、間違いない。私は何も言えない。
「泥酔状態による心神喪失。無罪ってことでなかったことにする、俺は忘れる。でもお前は忘れるな、骨に刻め」西口は冷たくいい放ち、部屋を出ていった。
私を捕らえて離さない、彼との恋は麻薬だ。ダメだとわかっていてもやめられず、禁断症状は苦しく、辛い。誘惑に勝ち、絶たなくてはならない。
逃げることなんてできない。 一人で戦わなくては、周り人も傷つけてしまう。