アルデバランでマタドール
労働は尊い。
そういった人は誰なんだろう。
病院の駐車場で車から降りると、冷たさを増す風が背中を押すように吹いている。
自己嫌悪にどっぷりはまったまま、重い足で職場に向かう。
白衣に着替えると、身体がほんの少しすっきりする。制服のある仕事でよかった。気持ちの切り替えがしやすい。
三人で準夜勤務だ。こちらがフォローする必要のないメンバーは、黙々と淡々と仕事をこなしていく。いつもの慌ただしさは変わらないいけれども、緊急入院もない、急変もない。消灯後の詰め所は静かだ。
ふらりと現れた外科医師の西口は、大きな背中を丸めて詰め所に入ってきた。
パソコンの前に座り、キーボードを叩き始める。
「どうしたんですか?今日、当直でしたか?」
「いや、ちょっと学会のことで話してたら、遅くなった」
「先生も大変ですね。病棟の患者さんに、外来に、学会に」
「まあね」西口は詰め所を見回して、パソコンに目を戻すと、こちらを見ないまま、早口に言う。
「明日、22時。アルデバランで待ってる」
「え?」アルデバランは駅前のビルの地下にあるショットバーだ。ここ最近は行っていないけれど、一時、足繁く通った。
西口は立ち上がり、こちらを見て、ニヤリと口元を歪ませた。
「じゃ、お疲れ様」足早に立ち去った。
思い当たることがありすぎる。
西口は彼の同期だ。西口の話はよく聞かされる。しばらく、落ち込んでいたらしいが、最近は明るくなってきたと。
そして、指定された待ち合わせ場所は『アルデバラン』
彼と付き合い始めたころ、いや、出会って間もないころ、通ったバーだ。
西口がするだろう話は、大方見当がつく。行かなくてもいいだろうか?
小さな看板が出ているだけのバーの入口、薄暗い階段を下りていく。
木製のドアを開ける。たくさんの酒瓶の並んだカウンター席があるだけの小さなバー。真ん中の当たりに、存在感のある背中がすぐに目につく。すっと横に並んで座る。
「マタドールを」バーテンダーは小さく頷いて、酒瓶を手にとる。
「マタドールか……」
「何?」
「いや……、モスコミュールって、言ってほしいところだろ?こっちはわざわざ、シングルモルトを飲んでるのに」西口は氷の浮かぶの琥珀色の液体を揺らして、嘲笑う。
「……」
「沈黙は心の強いやつにしか、できないもんだよ」
「そんなことを言うために、わざわざ呼びだしたわけ?」彼は西口に包み隠さず、話して聞かせたというわけだ。当時、私がよく飲んだカクテルはモスコミュール、彼はいつもモルトウイスキーだったから。
誰にも話さずに過ごしたのは、私だけだ。
「俺は、人の恋愛を話して回る趣味はないから、あいつも安心してたんだと思うよ。誰彼構わずって訳じゃない」
「……何?何が言いたいわけ?」
「そう、カリカリしなくてもいいだろ?」カウンターにマタドールが据えられる。手にとり、口に含むとパイナップルの甘さとライムジュースの酸味が広がる。
口のなかは爽やかなのに、心のなかは一向に晴れない。
「ただの老婆心さ。全く必要のないこと。」
なら言うな。そう思うなら、言葉にしなくていい。その思いを込めて、西口を思い切り睨み付ける。西口はニヤリと嘲笑う。愉快でならないといった様子で笑いを堪えるように頬を手でなでている。
「平原さんがあいつと別れようが、ズルズル付き合おうが、俺には関係ない。だから、そんなようなことを言うつもりはないから、怖い顔して睨み付けなくてもいい。……あいつの車は目立つ。何処かに停まっていれば、あれは?と疑問に思う程度に目につく、その車が停まってるマンションに誰が住んでいるかを知っているやつがいた。病院の関係者は多い。噂になるのも、もう時間の問題だ。俺が話して回るまでもない。……わかってたことだろう?」西口は一気に言葉を重ねて、琥珀色の液体を煽る。
そう、わかっていたことだ。
いつかは、こうなってしまう。
誰かに見られて、病院中の噂になる。たいして珍しい話ではないかもしれないが、好奇の目にさらされる。病院の更衣室で、廊下で、エレベーターで、見知らぬ誰かが私の後ろを指す。
「それで、平原さんが傷つこうが、笑われようが、俺の知ったこっちゃない。自業自得だからな。それで傷つくのはお前らだけじゃない。そこをちゃんと覚えておけ」
西口は、誰のことを言っているのか、咄嗟には解らなかった。
「奥さん……、先生の知ってる人なのね」
「……ちょっとな。どう言い訳しても、誰かを傷つけてることは間違いないんだ。……なんであいつなんだ。お前に甘えてるだけだ、離婚する根性もない、お前を背負う気合いもない。悪いやつじゃないのは知ってる。だけど、お前にありきたりな幸せをくれるのは、あいつじゃない。お前に百害あって一利なしだろ?」
「ボロクソ……」
「こんな話も、こんな酒も、性に合わないな」
「ビールに、焼酎って感じだもんね」
「芋、梅割りな」
「しっくりくるね」
すっかり水滴をまとったグラスを傾ける。氷が溶けて、薄くなったカクテルはスルスルと喉を通る。
すべてを吐き出したのか、西口はなにも言わず、グラスを傾ける。
カウンターの奥に座っていた客が出ていくと、二人きりになる。
店内に流れるジャズが少し大きく聞こえ、バーテンダーのグラスを磨く音が気持ちよく響く。
「後、3杯か、4杯くらいマタドール、飲んで帰れよ」西口は立ち上がり、バーテンダーにごちそうさん、と出ていく。
「……。会計、私?」閉じられたドアに向かって呟いてしまった。
「お代、いただいてますから」心配いりませんよとカウンター越しに笑う。
「あぁ、そうですか」
「ご無沙汰でしたね。お元気そうでなによりです」
「元気じゃないし」
「そうなんですか?」
「全然、元気じゃないし」
「マタドール、飲みますか?後、4杯分くらいのお代をいただいてますから」
「え?そうなの?」
「はい、一杯は私からのサービスです」
「……いただきます」
ゆったりと、無駄のない動きでマタドールを仕上げ、スッと前に据えられる。
「アルデバランでマタドール……」バーテンダーは頬を緩ませている。
「?」
「アルデバランは牡牛座の一等星の名で、牛の心臓を意味します。マタドールは闘牛士です。牛のとどめをさす。先ほどのお連れの方はこの二つをご存知だったようですね」
「アルデバランで始まった恋を終わらせろってことね、何も知らないで、マタドール、頼んじゃったし」
「偶然か?必然か?どちらですかね?」
「どっちかなぁ」どうでもよくなってきた。
もう、考えることすら嫌だ。
私が彼を拒めないことで、傷つけてる人がいる。
はぁ、大きなため息をこぼしてしまう。
「ねぇ、どうしたらいいと思う?頭と心がバラバラで、困ってるんだけど」
「そうですね。では、環境を変えてみるのは、いかがですか?」
「環境?」
「先日、アルコール依存症の友人が似たようなことを話していまして、頭では飲んではいけないと、十分わかっているけど、我慢できない。飲んでしまうと。来週から、施設に入るそうです。酒のない環境です」
「アルコール依存症……、若干、傷付くわ。けど、一緒ね。私って、病気なんだよ」なんだかしっくりくる。
中毒、依存性、まさしくその通りだ。
この病を治すことは出来る気がしない。