出れない穴の中
ピンポーン
夜に鳴るインターフォン。
ドキリと胸が鳴る。そして、ため息がこぼれる。
携帯を見てみても、連絡はない。
もしかしたら、彼じゃないのかもしれない。
「はい……」
「……綾音、会いたい」
「……もう、会わない」
「……綾音、ごめん。辛い思いをさせてしまうね。連絡もうしない。いるかどうかわからなくても、ここに来たかった。部屋の灯りがついているのを見たら、会いたくて……。会いたい。綾音、会いたい」
「……」
「……綾音」
もう、会わない。帰って。そう言って、インターフォンを切ってしまえばいい。わかっているのに、どうしてできないのだろう。どうして、ドアを開けてしまうのだろう。
「会いたかった」弱りきった顔で見つめないでほしい。きつく抱きしめないでほしい。
どうして、安堵してしまうのだろう。
彼の唇がゆっくりと重なる。
どうして、拒めないのだろう。
そっと入ってくる舌に答えてしまう。
そっと触れられる手に熱を感じてしまう。
身体の芯に火が灯され、頭が痺れて、何も考えたくなくなる。
押し寄せる快楽の波にすっぽりと包まれていたい。
ただ、目の前の彼だけを感じていたい。
「綾音……、綾音」
彼の声が、身体の隅々に染み込んでくる。
この声が聞きたかった。
彼の熱が、身体の隅々に染み込んでくる。
この熱を受け止めたかった。
はじめから、わかっていたことだ。
今さら、何を思っているのか。
彼を好きになったとき、思いが通じたとき、すべて覚悟をしたはずだ。
彼と出かけることはない。
彼の話を誰かにすることはない。
彼と朝を迎えることはない。
彼の一番になることはない。
妻と娘より、大切なものなどない。
それでもいいと、それでもいいから、
一緒にいてほしい、触れてほしい。
そう、言ったのは、私自身なのだから。
身体を少し起こして、むき出しの肩を抱えるように回された彼の手を取り、唇を当てる。
眠る彼の短い髪をそっとすく。黒い短い髪は硬い。眉をなぞり、鼻梁、唇に触れる。うっすら開かれた瞳は、宙をさ迷う。
「……綾音、ごめん……」
唇から、こぼれた言葉は欲している言葉とはかけ離れていた。
謝ってほしいわけではない。
ただ、一緒に歩きたい。
落ち葉を踏みながら、秋の抜けるような空や薄く掃いたような雲を眺めたかった。
わかっていたことだ。
叶わないことなのだ。
「愛してる」そう言って、ほしい。
偽りでいい。
優しい彼は決して言葉にはしない。
これもわかっていたことだ。
叶わないことなのだ。
ここにいては、ダメだ。
わかっているのに、どうしてできないのだろう。
どうすれば、いいのだろう。
前に進みたい。
けれども、前はどっちなんだろう。
わからない。
可哀想という穴に落ちているのだ。
聞き分けよくすがり付かない自分を憐れみ、
誰かを不幸にして幸せを感じられるほど逞しくはない自分を憐れみ、
愛されない自分を憐れみ、
叶えられない望みを抱く自分を憐れむ。
深く暗い穴は、温かく静かだから。
ここにいれば、すべての怠惰を赦される。
新しい恋を探すこと、
新しい恋に傷付くこと、
一人きりの夜に耐えること、
これらすべてに赦される。
この穴から、
出ていかなくてはならない。
彼を拒まなくてはならない。
どんな恋にも、終わりがある。
わかっていたことだ。
すべて、わかっていたことだ。
それなのに、
彼の短い髪をすく手を離すことができない。
真夜中に、彼は部屋を出ていく。
その姿を今までに何度も見送ってきた。
走り去る車のエンジンの音さえも耳に馴染んでいる。
ベッドに残る彼の香りに包まれて一人眠る。その香りに癒され頬を緩ませていたけれど、今では頬を濡らすことしかない。