カフェマグノリアの調べ
流れる街の灯りをぼんやりと眺めていた。
住宅街に入り、少し小高い見晴らしのよさそうなところで車は停まった。
外に出ると、風がひんやりと冷たく、頬をなでる。街灯の光かと思うくらい、明るく月光が辺りを照らして、足元には薄い影が落ちている。空には、満月を少し過ぎたと思われるわずかに欠けた月が出ていた。
「行きましょうか」
降りてみると、アイアンの門扉がランタンの灯りに照らされていて、
【open】
と小さな木の板がかかっている。門扉の奥には、バランスよく置かれたプランター、飛び石の枕木、形の整えられたコニファー。
白い壁に木桟の窓。
門灯を受けて、飴色に光るドア。
【cafe-magnolia】
「カフェ、マグノリア。すごく素敵なところだね」おしゃれなカフェ、かわいい女の子が好きそうだ。きっと彼にもそんな子がいるんだろう。
ドアを開けると、白い壁、レンガの腰壁、飴色の梁、少ない照明に置かれたグリーンが艶々と光っている。店内はこじんまりとしたキッチンの前にカウンターに四席、テーブルが四つ並んでいる。奥の一角が不自然に空いている。
「まだ、少し早かったかな」
キッチンからエプロンを付けた人が出てくる。
「いらっしゃい、……あら、久しぶり」
「大丈夫ですか?」
「いいですよ。そこの箱にお金を入れてね。一人二千円。楽しんでいって」わかっているよねと、店の人はキッチンに戻っていった。
「この店、普段は夜、営業してないんです。不定期にオープンして、一定料金を払って、
後は勝手にどうぞって感じで。あそこのカウンターにおつまみと、飲み物があります」
「ざっくりした感じね」
「チャリティーなんですよ。今夜はワンコですね」
「ワンコ?」彼の視線の先には、一枚のポスターが貼られており、何頭かの犬の写真が並んでいる。里親募集と書いてある。
「夜はチャリティー営業で、売上は全額寄付だそうです」
最低な私でも、少しは役に立つことができるらしい。
カウンター近くのテーブル席に二人で座る。奥の空いたスペースはよく見ると、そこを取り囲むようにして、イスが並べられていた。
「あそこは何?」
「あぁ、演奏があるんです。今日はどんな人かな?楽しみですね。飲み物取ってきますね。ちょっと待っててくださいね」
彼は立ち上がり、カウンター越しに何か話しかけている。メキシコの瓶のビールと瓶の炭酸のミネラルウォーターとおつまみを持って戻ってきた。
「私、お酒やめておくわ。先に言えばよかったね、ごめん」焼酎とはアルコール度数が違うから、酔い潰れるとは思えないが、もうアルコールを口にする気になれない。
「あっ、あぁ、お疲れですもんね」彼は微笑み、カウンターに戻っていく。
嫌な顔ひとつしない、本当にいい人だ。デートで眠りこけても、起こさない。怒らない。最低な私にはもったいない。
テーブルに置かれたお皿には、いくつかの料理が彩りよく並んでいる。
「お疲れ様、乾杯」彼は瓶を持ち上げ、私の手にある瓶と、カチリと合わせる。
「ここね。お客さんに教えてもらったんですよ」
「お客さん?」
「マグノリアみたいな家にしたいって言われたんですよ」
そういえば、以前に渡された名刺に住宅メーカーの名前があった。
「平原さん、僕の仕事、今思い出したでしょう?」
「……うん」
「安全性と自由な空間作りのお手伝いをしてるんですよ」
「なるほど」
「よく言われるんですよ、あのお店みたいにとか、あのお宅みたいにとか。それでお伺いして、外構の業者さんを教えてもらいました。それから、居心地よくてお邪魔するようになりまして、こうして、チャリティーの時に声をかけてもらうようになりました。さっ、食べましょう」
お皿のおつまみを手に取る。
パウンドケーキのような見た目だけれど、ハーブの香り。よく見ると中にはサーモン。白いのはクリームチーズのようだ。
「美味しい!」しっとりと柔らかく、ほどよい塩加減。
「よかった、こちらもどうぞ。生ハムと大根のマリネと、鶏肉の甘辛煮です」
どちらも、美味しい。何かを口にして美味しいと思ったことが、ひどく久しぶりだ。毎日、何を食べていたのだろう。
カウンターから、声がかかり、彼は立ち上がる。戻ってきた彼の手にはホカホカのパスタ。
「無理言って、作ってもらいました。美味しいですよ」
皿に取り分けて目の前に置かれたパスタは、賽の目に切ったトマトと白いチーズがからんでいる。チーズの濃厚の香りが食欲をそそる。
「ん〜、美味しい!」
「こんなことを言ったら、叱られますけど、すごく簡単なんですよ」彼は少し顔を寄せて、小声で言う。説明された作り方は確かに簡単に出来そうだ。
パラパラと席が埋まり、アコースティックギターを持ったおじさんが準備を始める頃には、満席だ。
店内はしんと静まり、ギターの奏でる音だけが響く。少し掠れた声が切ない歌詞によく合う。
その声は深く染み込んできて、胸の奥が締め付けられるように痛い。
ギターの響きが消え、溢れる拍手。
何もなかったように飲み食いを始めた客のざわめきが聞こえ始めても、あのギターとあの声が耳にこだまする。
「……平原さん、何をそんなに頑張ってるんですか?僕では助けになりませんか?」
「伊達くん……」
「何も出来ないかもしれません。でも、僕は平原さんのそばにいたいです」
「……ありがとう。でも、一人で大丈夫」
なんて優しい、温かい言葉だろう。最低な私にはもったいない。もっと、素敵な女の子に向けられるべき言葉だ。
「……平原さん、僕、平原さんのこと好きです」
「……ありがとう。でも、ダメだよ」私は病気だ。最低の最悪な女だ。
「付き合ってる人がいるんですか?」
「そんなんじゃないの、でも、ダメ」
「じゃあ、好きでいさせてください。お願いします」
どうして、彼はここで笑えるんだろう。