五境目。
「何処に行くのですか?」
急に背後から声。と共に,背の柔らかい衝撃。
彼女だった。
「え、あ………」
そして背中から前に、まるで逃がさない様に回す腕。
「……なぁ、あっちの方に何が「あちらに行ってはいけません」え……?」
訪ねようとするが覆いかぶさる声。
「行く必要なんて無いのですよ…。」
この言葉を、理解出来なかった。
だが疑問を口から出す事が出来なかった。
「痛っ!!」
彼女が着物越しに腕を引っ掻いてきたからだ。
「さぁ、帰りましょう」
何処か意義を許さないその言葉に黙る事しか出来なかった。
そして気付いた。
彼女の体温が冷たかった事に。
夜となった。
行灯の灯りさえも今では頼りなく、暗闇が部屋を飲み込もうとしている。
「(………やっぱり、あっちの方に何かあるのか…)」
あの橋…の向こう側が気がかりだった。
でもあの橋は、あの橋に行ってはいけないと彼女は言っていた。
頭では納得しようとしていたが、それでも自分の中の感覚がじわじわと湧き上がる。
「(明日、もう一度あの橋へ向かおう。)」
もしかしたら何か思い出すきっかけになるのかもしれない。
そう納得させて寝床に就こうとした時だった。
部屋の襖が開いた。
「あ……。」
そこに立っていたのは見覚えのある人影。
白い襦袢を纏った彼女だった。襦袢のみで羽織りは無い。
目のやり場にもかなり危ないにも関わらず彼女は近付く。
俯きで表情は見えないが、彼女を纏う気配が一層部屋の暗さを濃くした気がした。
「あ、な…何だ?」
訪ねるが、一歩一歩近付くだけで何も答えない。
「お、おい……」
「私は、ずっと一人でした………」
突然に呟かれた声。
「え………?」
「貴方が現れるまで、私はずっと一人でした…」
「な、何を……」
「本当は、貴方とこのままでいればと思っていましたが……」
「何を言って……」
噛み合ってる様で噛み合わぬ様な会話。
しゅるり。と、布と布が擦れる音。
穏やかな微笑みから一転、妖艶で耽美な笑みを浮かべていた。
「あ、あ…」
混濁する思考のまま、ぞくりと背筋が震える。
逃げなければ。逃げなければ。後ずさろうとしたが、体が動かない。
「ずっと私と此処にいましょう?」
絶叫をあげようとしたその瞬間、艶やかな彼女の唇が近付いて……。
吐息のような甘い囁きによって、淀んだ欲望が湧き上がり心を染めていく。
肌への温もりは、全く無い。
まるで、まるで―――――死人の様に。
貴方を捕まえない限り、この鬼事は終わらない。
【異形のモノに捕まえられたがもう最後。】
振り返らずに逃げろや逃げろ。
形振り構わず逃げろや逃げろ。
鬼事は終わらない。
貴方を捕まえない限り、終わらない。
捕まえられたら、もう最後。
そうなる前に早く、逃げろや逃げろ。
貴方の心が絡め取られる前に。