四境目。
朝からかなり薄暗く、鈍色の空から雨が降っていた。
雨の匂いと緑の匂いが入り混じり、心地良ささえ感じる雨音は眠気さえ誘う。
激しくは無いが、一時の緩みも無く止めどなく降り注いでいく。
もう数日の間ずっとだ。
「…雨か………」
「お茶が入りました」
彼女が盆とお茶を持ってこちらに近付いてくる。
昨夜彼女に貰った灰色の着流しを着て、縁側に腰掛けてもう何度目か分からない程に呟いていた。
平和な程に退屈で、そして記憶も全然思い出せない。
朝の雨を見て何度目かの落胆していた自分に、
「雨の山道を歩くのは危険過ぎます。今日も此処でのんびりとしましょう」
そう彼女は嬉しそうに微笑みながらそう言った。
「あのさ、」
「はい。何でしょうか?」
「もう何日も泊めてもらってる身で今更なんだが…、あんた困らないのか?」
「良いんですよ、私は貴方の事が嫌いでは無いのですから。もう一緒に暮らしても良い位に」
そう言ってくれた事に『嬉しい』と言えなかった。
共に暮らす事は望んでいなくて、自分は一刻も記憶を取り戻したかったから。
「…記憶が思い出せない事に不安を抱いているのですか?」
図星だった。
確かに不安では無いのかと言えば嘘になる。
「そう無理に思い出そうとしても、返って思い出せないものですよ?」
確かにそうなのかもしれない。
記憶を失った理由が何であれ、今の自分は前の自分を思い出したかった。
「それに………、このまま記憶が戻らなくても別に良いのでは無いでしょうか…」
午後には雨が止んでいた。
彼女は山菜を採りに行くと言って、山へと出てしまった。
本当は手伝いとして一緒に出たかったけれど、あの後のいたたまれない空気で行けれなかった。
彼女の言葉に絶句して、その様子に彼女は怯えた顔をして謝ってきた。
『あ…………、気分を害されたなら、申し訳……ありません…』
そんな彼女に対して申し訳無いと思ったが、彼女の言葉を肯定する訳にはいかなかった。
いつまでも記憶を喪失したままではいられない。
このまま自分が誰なのか、どんな人間なのかを知らないのは不安だった。
とてつもなく。ゆっくりと底なし沼に沈んでいく恐怖の様な。
天井を眺めながら、そんな事を振り返る。
「…誰もいないって……、こんなにも静か過ぎるんだな…」
そんな呟きは耳に残らずに掻き消えていった。
もうすぐ夕暮れの時刻。まだ彼女は帰って来なかった。
彼女に何かあったのかという思いが満ちてくる。
「……………。」
家の外へ足を踏み入れる。
外に出るなんて、危ない事だと分かってた。
「(ほんの少しだけ…、少しだけ外を捜すだけだ。)」
少しだけ暗くなったら振り返って元来た道を辿ればいい。
「(それにしても、この山…何か変だな)」
何かは知らないが何かが何処かが違う。そう思いながらも前の道へと進む。
出会う前に進んだ方向とは正反対の方向、森の外へと。
「こんな所に橋………?」
そして先に進んで、森の外に出て木々が開けた。
底の見えない深い谷にかかった古びた大橋が先にあった。
古びた…といった生易しいものじゃない、今にも崩れ落ちそうな大橋だった。
橋の踏板はあちこち苔が生えて縄も真っ黒になっている。
橋の向こう側は一本の細い糸の様に一直線へ伸びて、途中で見えない。
まるで常世と現世を繋ぐ【三途の橋】だ。
「(あそこに一体何が………、)」
もしかしたら記憶を取り戻す手がかりがあるのかもしれないという確証か。
あの橋向こうには何があるのかという好奇心か。
恐る恐る橋を渡ろうとした、その時。
異形は異形で人は人。互いは決して相容れぬ存在。
【異形のモノと心を通わせてはならない。】
人と異形は、同じ様で違う。
まるで左右の道の様に。
とおりゃんせ。一本の細道は渡ってはならない。
越えぬべき黒の一線を越え、異形は貴方が堕ちるのを待っている。
異形に魅入られ、常闇へと取り込まれ引きずり込まれるぞ。
とおりゃんせ。一本の細道は渡らなければならない。
正しき道は其処であり、貴方は一刻も早くその道へと前に進め。
異形に魅入られ、常闇に取り込まれ引きずり込まれる前に。