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6食目 対等な取引

 天根蓮という少年は、徹底して真面目だった。

 交換した連絡先に、その日から届き始めた「食事報告」のメッセージ。管理栄養士を目指す橘椿にとって、それは理想的な「被検体」からのデータ提供になるはずだった。しかし、スマートフォンの画面越しに送られてくる写真は、椿の専門家としてのプライドを逆なでするには十分すぎる、あまりに色彩を欠いた惨状だった。


『今日の夕食。鶏肉を茹でた。あとバナナとプロテイン』

『朝食。トースト二枚と、ゆで卵三体。野菜はジュースで補完した』


 送られてくる写真は、どれもこれも「白」と「緑色」しか存在しなかった。

 栄養素の数値だけを機械的になぞり、彩りや食感、そして何より「食べる喜び」を完全に削ぎ落とした、無機質な燃料補給。皿の上にあるのは、ただの栄養素の塊だ。そこには、明日を生きるための活力も、ピッチで躍動するための彩りも、ひとかけらすら感じられなかった。


(……なに?これ。これじゃただの餌じゃない)


 一週間が経とうとしたある夜。ついに、椿の堪忍袋の緒が切れた。

 時計の針は午後八時を回っている。本来ならそろそろ就寝に向けて準備をする時間帯なのだが、昨日届いた「ゴムのように硬そうな茹で鶏」の写真が脳裏に焼き付いて離れない。網膜にこびりついたその不味そうな光景が、彼女のプロ意識を激しく揺さぶる。


「……流石にこのままの状態は見過ごせないわ。あんなもの食べてて、最高のパフォーマンスなんて出せるわけないじゃない」


 彼女は独り言を漏らすと、脱ぎ捨てていたジャージをひったくるようにして着直した。髪を雑にゴムで束ね、最低限の身なりを整える。

 行き先は隣の401号室。椿はインターホンを、叩きつけるような勢いで連打した。静まり返ったマンションの廊下に、電子音が鋭く響き渡る。


「天根君、開けなさい! 起きてるでしょ!」


 数秒の後、ガチャリと重い金属音がして、怪訝な顔をした蓮がドアを開けた。


「……橘さん? どうした、こんな時間に。」


 蓮はまだ練習の疲れが残っているのか、少し眠たげな目をしている。その無防備な様子に構うことなく、椿は彼を片手で押し退けるようにして中へ踏み込んだ。


「まだ今日のご飯食べてないでしょ? 写真送られてないし。

 ……今日なに食べるつもりだったか見せて」


「いや、それならこれから作るからもう少し待ってくれたら......」


「いいから。みせて」


 椿の気圧されるような剣幕に、蓮は一瞬言葉を失った。だが、彼女の視線に抗うことはできず、キッチンカウンターに置かれた「準備中」の食材を指差した。


「……まだ調理前だけど。鶏の胸肉二百グラム、ブロッコリーを四房。それにオートミール。計量は終わっている」


 そこにあったのは、無機質なタッパーに放り込まれた、ただの「素材」だった。血の気のない鶏肉と、冷凍のまま霜がついたブロッコリー。それを見た瞬間、椿の顔は怒りと呆れで引き攣った。


「……ありえない。これのどこが食事なのよ。ただの栄養素の塊じゃない。……いい? これは餌よ。

 人間が、ましてやトップアスリートを目指す人が口にするものじゃないわ」


「餌って……。必要な栄養バランスは完璧に計算しているよ」


 蓮は至って真面目な顔で、心底心外だと言いたげに眉を寄せた。その無自覚が、椿の火に油を注ぐ。


「数値だけ合ってればいいってもんじゃないのよ。 視覚も味覚も死んでる食事で、どうやって最高のコンディションを維持するつもり? 消化吸収効率っていうのはね、美味しさを感じて、副交感神経が優位になって初めて最大化されるのよ?

 あんたがやってるのは、ただエンジンに質の悪いガソリンを流し込んでるだけ。効率が最悪なのよ」


 それでも蓮は不服そうだった。小さく「そんな事言ったって...調味料とか塩分過多になりそうだし...」と言い訳を続けている。


 それを見た椿は乱暴に袖をまくり上げると、蓮の静止を振り切ってキッチンへ向かった。

「~~~っもういいわ、私が作る。

 理屈を並べるより、目の前で『正解』を叩き込んであげたほうが早いそうだわ」


 そこからの椿は、まさに嵐だった。

 蓮のキッチンは、独り暮らし用にしては整っていたが、道具は最低限だった。しかし、彼女は迷うことなく冷蔵庫を開け放ち、中にあった僅かな食材――卵、タマネギ、そしてあの「ゴムのような鶏肉」をまな板の上に並べた。


 トントントン、とリズミカルな包丁の音が狭い部屋に響き渡る。

 蓮は、自分の聖域であるはずのキッチンが、鮮やかな手際で占拠されていく様子を、ただ呆然と眺めるしかなかった。彼は、自分のやり方が否定されたことへの反発よりも、目の前の少女が放つ「圧倒的な専門性」に気圧されていた。


 タマネギの甘い香りが立ち込め、フライパンの上で肉が躍る。椿は、蓮がただ茹でるつもりだった肉を細かく刻み、溶き卵と合わせて、即席の親子煮のようなものを作り上げた。味付けは、キッチンの隅に追いやられていた醤油と、ほんの少しの砂糖。それだけなのに、立ち上る湯気は、蓮が今まで知っていた「食べ物の匂い」とは明らかに違っていた。


 十分後。

 テーブルの上には、香ばしい香りを漂わせる、彩り豊かな一皿が並んでいた。


「……ほらできたわよ。食べなさい」


 蓮は促されるままに椅子に座り、箸を取った。一口、口に運んだ瞬間、彼の動きが止まった。

 鶏肉は驚くほど柔らかく、タマネギの甘みが肉の旨味を何倍にも引き立てている。何より、温かい。その温度が、練習で冷え切った身体の奥底にじんわりと染み渡っていく。


「……美味い」


 小さく、だが確かな熱を込めて漏らされた言葉。

 椿はフンと鼻を鳴らし、いつの間にかジャージのポケットから取り出して着けていたエプロンを外すと、さっさと出口へ向かおうとした。


「頼みがある」


 蓮の声が、椿の背中を止めた。


「なに? 片付けは自分でやりなさいよ。それくらいは……」


「そうじゃなくて」

 蓮は、椅子から立ち上がり、真剣な眼差しで椿を見据えた。その瞳には、学校で見せる冷淡な天才の影はなく、ただひたすらに、高みを目指す一人のアスリートの渇望が宿っていた。


「明日から、飯を作る形で栄養管理してほしい。俺が一人前になるまで。……依頼料はもちろん出す。

 俺は、全部一人でやるつもりだった。けど今の目標の本筋はプロになることだ。飯を作れるようになることじゃない。変にこだわって目標から遠ざかるくらいなら、その道の専門家に頼るのが確実だ」


 その言葉は、ずっと重く、切実だった。

 椿は、あまりの直球な提案に数秒間、言葉を失って固まった。だが、すぐにその大きな瞳に、管理栄養士の卵としての、理知的で強気な光が宿る。


「……食費。食費だけでいいわ」


「え?いや、 報酬は払わせてほしいんだが......」


「いらないわよ。こっちとしても、プロ入り確実みたいな極上の素材を、自分の理論通りに作り上げられるなんて、実習以上の経験だわ。あんたが最高のパフォーマンスを出せば、私の理論が正しいって証明になる。むしろ、こっちがお金を払ってでもやりたいくらいよ」


 椿は不敵な笑みを浮かべ、指を一本立てて蓮に突きつけた。


「あんたは私に『最高の被検体』を提供して。私はあんたに『最高のコンディション』を保証する。

 ……どう?これなら、対等な取引でしょ? 」


 蓮は、少しだけ面食らった後、フッと口角を上げた。


「……対等か。いいな、それ。わかった。……これからよろしく、橘さん」


「任せなさい。あんたを『世界一動ける天才』に仕上げてみせるわ」


 こうして、隣同士の部屋を繋ぐ、奇妙で密かな「同盟」が結ばれた。

 天根蓮という未完成の傑作を完成させるための、最強のパートナーが加わった瞬間だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!


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