4食目 お隣さんは、管理栄養士(志望)
駅前のスーパー『サニー』から続く街灯の下、二つの影が並んで伸びていた。
右手にずっしりと重いレジ袋を提げた蓮と、同じように食材の詰まった袋を腕にかけた椿。
「……それにしても、天根君って意外と抜けてるよね」
椿が、街灯の光に目を細めながら、クスクスと笑った。
「抜けてるって、何が?」
「何がって、全部! サッカーのことならドイツ語も戦術も完璧なんだろうけど、自分の身体の中に入れるものに関しては、まるでお子様なんだもん。茹でた鶏肉とブロッコリーだけって、それ、修行中のボディービルダーじゃないんだから」
「……効率を求めた結果だよ。一番効率的だと思ったんだけど」
蓮は少しだけ居心地が悪そうに視線を逸らした。
ピッチの上では、相手のディフェンスラインの裏にある数センチの隙間を見逃さない自信がある。だが、スーパーの棚に並ぶ食材から、自分に必要な栄養素を逆算する能力は、まだ初心者レベルなのだと思い知らされた。
「効率っていうのはね、ただ削ぎ落とすことじゃないの。必要なものを、必要なタイミングでブーストさせること。
……ま、これから覚えていけばいいんじゃない?」
椿は励ますように言い、軽快な足取りで夜道を進む。
交差点を曲がり、静かな住宅街へと入っていく。
数分歩けば、そこには新築の小綺麗なマンションが見えてきた。このあたりでは一番目立つ、洗練された外観の建物だ。
「……」
「……」
どちらからともなく、沈黙が訪れる。
だが、それは気まずい沈黙ではなかった。むしろ、お互いに「まだ一緒に歩いている」という事実に対する、奇妙な違和感からくる沈黙だ。
(……まだ、ついてくるんだな)
(……まだ、一緒なんだ)
マンションの敷地内へと続くスロープ。
蓮が足を止めると、椿も同時に足を止めた。
「……あー、橘さん」
蓮が意を決して、エントランスを指差した。
「俺、ここだから。今日はその、助かったよ。食材の選び方とか」
「え?」
椿が、大きな瞳をさらに見開いて固まった。
「え……何言ってるの? 私も、ここなんだけど」
「…………は?」
今度は、蓮が固まる番だった。
お互いに、相手が自分の後をつけてきたのではないかと一瞬だけ疑いの視線をぶつけ合うが、すぐに二人とも自分のポケットから「鍵」を取り出した。
同じロゴの入った、電子キー。
「……同じ、マンション?」
「みたいだね。」
二人は、吸い込まれるようにエレベーターへと乗り込んだ。
「......何階?」
蓮の問いに、椿が少しだけ警戒しつつも答える。
「四階」
「そこも同じなんだ……」
静かな箱の中で、表示される数字が「4」になるのをじっと待つ。
チーン、という電子音とともに扉が開いた。
内廊下を進む。
蓮が自分の部屋である『401号室』の前で足を止める。
すると、椿はその隣――『402号室』のドアの前で、鍵を差し込もうとしていた。
「「…………」」
静まり返った廊下に、二人の思考がショートする音が響いたようだった。
「隣なんかい……」
蓮が、呆然と呟く。
椿は、手に持っていたレジ袋を床に落としそうになりながら、叫び声を必死に押し殺したような顔で蓮を見た。
「嘘でしょ!? 天根君、お隣さんだったの!?」
「……俺も今知った。……というか、橘さんも一人暮らしなの?」
「そうだよ! 実家、ここから遠いから。
……って、ええ ......信じられない」
椿は自分の頬を両手で押さえ、パニック気味に視線を泳がせた。
対する蓮も、かつてないほどの衝撃を受けていた。
蓮は、自分の部屋のドアノブを握りながら、ふと椿を見た。
彼女はまだパニックから立ち直れていないようだが、その手には、彼女が選んでくれた「正しい食材」が詰まった袋がある。
「……橘さん」
「ひゃいっ!? な、なに!?」
「まぁ、その……明日からも、スーパーで見かけたら教えてくれると助かる。今日の話、納得したから」
蓮は、努めて無表情を装いながら言った。
椿は一瞬だけきょとんとしたが、やがてその顔に、いつもの爛漫な、あるいは少しだけ勝ち誇ったような笑顔が戻ってきた。
「……ふふっ。いいよ。あんたがあんまりにも『迷える子羊』なんだもん。管理栄養士を目指す身として、隣の部屋で栄養失調になられるのは寝覚めが悪いしね!」
その会話で持ち直したのか、彼女は「じゃあね!」と元気に告げると、402号室の中へと消えていった。
一人残された廊下で、蓮は小さく溜息をついた。
規律正しい日本の部活動。そして、予想外の「お隣さん」。
ドイツにいた頃とは、何もかもが違う。
けれど、この想定外の連続が、なぜか彼にはそれほど悪くないものに感じられた。
蓮は自分の部屋の扉を開ける。
ピッチの上の正解は見えていた。
そして、ピッチの外の正解も、案外すぐ近くにあるのかもしれない。
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