29食目 異才の発見
標高八百メートルの山あいに、合宿最終日の朝を告げるホイッスルが響いた。
一週間にわたる三部練習。
強い日差し。
湿気を含んだ空気。
削られていく体力と、積み重なる疲労。
本来なら、最終日の朝にはもっと足が鈍る。声も減る。切り返しの一歩目が遅れ、スプリント後に膝へ手を置く時間が長くなる。
だが、目の前の選手たちは、崩れ切っていなかった。
疲労がないわけではない。
初日より軽いわけでもない。
それでも、落ち方が小さい。
監督は手元のストップウォッチを止め、隣のコーチへ視線を向けた。
「最終日でこれだけ動けるか」
「全体のタイムは落ちています。でも、落ち幅が想定よりかなり小さいです。特に後半の戻りが早い」
「……初日の食堂を見た時は、どうなるかと思ったがな」
監督の視線が、ピッチサイドの給水所へ向いた。
白い実習着を着た椿が、選手たちが戻ってくるタイミングに合わせてボトルを並べている。隣では葛城が氷を足し、相模が記録表を確認していた。
この一週間、椿は五十人分の皿を見た。
食べられなかった量。
食べる順番。
練習後の水分摂取。
翌朝の顔色。
補食を入れるタイミング。
全員を完璧に管理したわけではない。見立てが外れた選手もいるし、途中で分類を変えた選手もいる。
それでも、食べられない選手をそのままにしなかった。
全員同じで押し切らなかった。
落ちるところを見て、次の一食で戻そうとした。
それだけで、合宿最終日のチームの沈み方は変わった。
「橘」
練習が終わり、撤収作業が始まった頃、監督が椿に声をかけた。
「相模先生と一緒に、少し来てくれ」
呼ばれたのは、食堂の奥にある小さな事務室だった。
長机の上には、合宿中の練習データと、椿の実習記録が並んでいる。相模は椅子に座り、椿の記録をもう一度めくっていた。
監督は資料から顔を上げる。
「橘。今回の合宿での働きは、こちらの想定以上だった」
「ありがとうございます」
「もちろん、全部が君一人の成果だとは言わない。相模先生が全体を見て、葛城も現場に入った。選手たちもよく食べた」
「はい」
「そのうえで、君の見立てがチームを助けたのは事実だ」
監督は、練習データを軽く叩いた。
「インターハイ本番は、ここ以上に暑い。日程も詰まる。食べられない選手をどう戻すか、疲労をどこで抑えるかが勝敗に関わる」
椿は黙って聞いていた。
「そこで相談なんだが、実習という枠を超えて、インターハイ本番でもサッカー部のスタッフとして帯同してもらえないだろうか。もちろん学校側の許可は必要になるが、相模先生とも相談する。君の観察と記録は、今のチームにとって大きな助けになる」
相模も静かに頷いた。
「私からも申請は出せるわ。補助スタッフ扱いになると思うけど」
椿は、少しだけ視線を落とした。
その提案が、評価であることは分かっていた。
サッカー部全体を見る。
全国常連の強豪に必要とされる。
管理栄養士を目指す生徒にとって、それは大きな経験になる。
けれど、椿の答えは最初から決まっていた。
「申し訳ありません」
椿は静かに頭を下げた。
「サッカー部のスタッフとしての帯同は、お受けできません」
事務室の空気が、わずかに止まった。
監督が眉を上げる。
相模は驚いた顔をしなかった。ただ、椿が続けるのを待っていた。
「もちろん、インターハイの現地には向かいます。必要であれば、食事の準備や記録もお手伝いします」
「なら、なぜスタッフでは駄目なんだ?」
監督の声は穏やかだった。
椿は顔を上げる。
「私は、今はまだ、天根蓮くんの個人サポーターとしていたいからです」
その言葉に、監督は黙った。
「今回の合宿で、チーム全体を見ることの重要性は分かりました。天根くんが全国で戦うには、周囲の選手も最後まで走れなければならない。受け口が消えれば、彼の判断も生きません」
椿は、膝の上で手を揃えた。
「でも、私の一番深い観察は、天根くんに向けるべきだと思っています」
相模が静かに口を挟んだ。
「チーム全体を見ると、天根くんを見る精度が落ちる?」
「……少なくとも、今の私の実力では」
椿は目線をわずかに下げて答えた。
「全体を見れば、学べることは多いです。ですが、私の目標は、世界で戦う選手を支える専属管理栄養士になることです。今、その対象は天根くんです」
室内に、短い沈黙が落ちた。
傲慢にも聞こえる。
未熟にも聞こえる。
けれど、椿の声には迷いがなかった。
「私は、チームを軽く見ているわけではありません。むしろ、この一週間で、チームが整っていなければ天根くんも最高のプレーはできないと分かりました。だから手伝います。必要なことは言います」
椿は、言葉を区切った。
「でも、私の中心は変えません」
相模は少しだけ息を吐いた。
「……あなたらしいわね」
監督はしばらく椿を見ていたが、やがて短く笑った。
「天根といい、君といい、今年の一年生はずいぶんはっきりしているな」
「申し訳ありません」
「いや、怒っているわけじゃない。むしろ、そこまで言い切るなら分かりやすい」
監督は資料を閉じた。
「では、正式なスタッフではなく、天根の個人サポートとして現地に入る。そのうえで、相模先生の補助も可能な範囲で行う。こちらが気づいていないことがあれば、遠慮なく言ってくれ」
「ありがとうございます」
「ただし、チームの方針に関わる部分は、相模先生と私を通すこと。それは守ってもらう」
「はい」
椿は深く頷いた。
事務室を出る直前、相模が椿へ小さく声をかけた。
「橘さん」
「はい」
「チームを見られる子が、それでも個人を選ぶのは、簡単なことじゃないわ」
椿は相模を見た。
「でも、選ぶなら責任を持ちなさい。天根くんを見続ける責任を」
「はい」
相模はそれ以上何も言わず、廊下へ出ていった。
帰りのバスは、山道をゆっくりと下っていた。
車内では、疲れ切った部員たちが座席にもたれ、眠っている。桐生は窓側で口を開けたまま寝ていて、その隣で蓮だけが目を開けていた。
椿は少し離れた席で、膝の上にノートを広げている。
インターハイ本番の会場。
移動時間。
現地の平均気温。
宿泊先の食事環境。
試合開始時刻。
補食を入れられるタイミング。
蓮は、通路越しにそのノートを見ていた。
「橘さん」
「何?」
「スタッフ、断ったんだろ」
椿のペンが止まる。
「聞いたの?」
「監督が言ってた。俺の個人サポートとして来るらしい、って」
「そう」
椿は短く答え、またノートへ目を落とした。
「よかったのか」
「何が?」
「チームのスタッフになった方が、橘さんには経験になるんじゃないのか」
椿は少しだけ蓮を見た。
「なると思うわ」
「なら」
「でも、今じゃない」
蓮は黙った。
バスの窓の外では、山の緑が夕方の光を受けて流れている。
「私は、天根くんを見るためにここにいる。チームを見るのは、そのために必要だから。順番を間違えたら、たぶん私の見たいものがぼやける」
椿は、蓮の欄に新しい確認項目を書き足した。
「あなたが全国でどう変わるかを、私は一番近くで見たい」
蓮はしばらく何も言わなかった。
やがて、窓の外へ視線を戻す。
「なら、俺は見られるだけのプレーをする」
「当然よ」
椿は即答した。
「そのために来るんだから」
蓮は少しだけ口元を緩め、座席に背を預けた。
バスが常盤台高校の校門をくぐる頃、空は茜色に染まり始めていた。
合宿は終わった。
けれど、準備は終わらない。
チームはチームとして進む。
相模は全体を見る。
監督はピッチを見る。
選手たちは全国へ向かう。
その中で、椿は一人を選ぶ。
蓮だけを見るわけではない。
けれど、蓮から目を離さない。
すべては、天根蓮が全国のピッチで最高の一手を出すために。
同じ頃、成田国際空港の到着ロビーには、湿り気を帯びた日本の夏の空気が流れ込んでいた。
自動ドアが開き、到着便を知らせるアナウンスが人波の上を流れていく。
その中に、周囲の喧騒から少しだけ切り離されたような男がいた。
仕立ての良い紺色のポロシャツ。
機能性を重視したスラックス。
大きなスーツケースが一つ。
男は立ち止まり、眼鏡のブリッジを指先で直すと、端末に表示された地図を確認した。
画面の中には、数日後に開幕する高校サッカー全国大会の会場と、常盤台高校の名前がある。
かつて、自らのクラブから日本へ戻ることを選んだ少年。
天根蓮。
男は、その名前を見つめた。
送り出したつもりも、手放したつもりもない。
ただ、あの少年には、一度違う環境が必要だった。
自分の足で、自分の価値を確かめる時間が必要だった。
その猶予が、終わろうとしている。
男は端末を閉じ、迎えの車が待つ出口へ歩き出した。
日本の夏は重い。
空港の外へ出た瞬間、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。男は一度だけ眉を動かし、それから黒いセダンの後部座席へ乗り込んだ。
数日後、全国大会が始まる。
そこには、彼が知る天根蓮がいる。
そしておそらく、彼が知らない天根蓮もいる。
この国で、少年が何を身につけたのか。
誰と出会い、何を変えたのか。
それを確かめるために、男は日本へ来た。
車がゆっくりと走り出す。
窓の外を流れる異国の街並みを見ながら、男は静かにシートへ背を預けた。
嵐の予感はまだ、誰の耳にも届いていない。
次話から、インターハイ編へ
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