2食目 未達の天才
常盤台高校のグラウンドを囲むフェンスの向こう側には、異様な熱気が渦巻いていた。
放課後の喧騒を切り裂くような、鋭いホイッスルの音。そして、腹の底に響くような野太い掛け声。
(……想像以上だな。これが日本のトップレベルか)
蓮は、その圧倒的な光景を前にして、思わず足を止めた。
視界を埋め尽くすのは、燃えるような「赤」の練習着を纏った集団。優に百人を超える部員たちが、広大な人工芝の上で一糸乱れぬ動きを見せている。ドイツのユースチームが『少数精鋭のプロ養成所』だとするなら、ここは『巨大な軍隊』に近い。
蓮は更衣室で着替えたトレーニングウェアの裾を整え、意を決して芝の上へと足を踏み入れた。
「一年、天根蓮です。入部届、持ってきました」
近くにいたマネージャーらしき上級生に書類を差し出すと、周囲の視線が一斉に突き刺さった。
噂はすでに広まっていたらしい。
「あいつが、ドイツ帰りの……」
「トップ下らしいぜ」
期待と、それ以上に「お手並み拝見」と言わんばかりの冷ややかな好奇心。蓮はそれらを心地よいプレッシャーとして背負いながら、コーチの指示を待った。
初日のメニューは、一律の体力測定……ではなく、いきなり始まったミニゲーム形式のテストだった。部員が多すぎるこの学校では、技術の有無はピッチの上で即座に証明するしかない。
「おい、一年。お前、こっちのチームな」
ぶっきらぼうにビブスを渡された。
蓮が入ったのは、新入生主体の即席チーム。対戦相手は、体つきが一回り大きい二年生の控え組だ。
ピッチの中央、トップ下の位置に立つ。
(……芝の感触はいい。あとは、周りのリズムに合わせるだけだ)
キックオフの笛が鳴る。
開始数分、蓮はあえて自分からボールを奪いには行かなかった。首を小刻みに振り、味方の足の速さ、相手ディフェンスの癖、ピッチ上のすべての駒の配置を脳内のキャンバスに描いていく。
蓮の得意とする「俯瞰視野」が、スタジアム全体を上空から見下ろすように把握し始める。
二年生チームのプレッシングは激しい。体格に勝る彼らは、一年生チームを力でねじ伏せようと襲いかかってくる。
味方のボランチが苦し紛れに蹴り出したボールが、中央の蓮の足元へと転がった。
「囲め!」
二年生のディフェンダー二人が、蓮を潰そうと左右から肉薄する。
だが、蓮の表情は変わらない。
ボールが足元に吸い付く。
彼は足首の驚異的な柔らかさを使い、ボールを撫でるようにして一歩引いた。突っ込んできたディフェンダーの重心がわずかに崩れる。その刹那、蓮は身体を独楽のように回転させ、二人の間にある「針の穴」を通るようなターンを見せた。
(――見えた)
次の瞬間、蓮の視界には一筋の『航路』が浮かび上がっていた。
右サイドを駆け上がる味方のウイング。だが、彼の前には相手のサイドバックが立ち塞がっている。普通ならパスは通らない。
けれど、蓮の選んだ選択肢は、そのどちらでもなかった。
彼はノーモーションで、左足を振り抜く。
放たれたボールは、芝を這うような低弾道。それはディフェンスラインの裏、誰もいない「空白のスペース」へと向かって伸びていく。
「はっ……どこに蹴って……」
二年生チームが嘲笑を浮かべようとしたその時、その「空白」へと、猛然と走り込んできた一年生フォワードの姿があった。
蓮のパスは、味方の足が届くコンマ一秒先の『未来』に、寸分の狂いもなく届けられた。
決定的なスルーパス。
受けたフォワードはトラップすることもなく、そのままゴールネットを揺らした。
静寂。
グラウンドのあちこちで練習していた部員たちの動きが、一瞬だけ止まった。
「……今、何だ?」
「あんなところにコースなんてあったか?」
蓮は小さく息を吐き、乱れた前髪を無造作にかき上げた。
彼にとっては、ただの「正解」を選んだに過ぎない。しかし、その「正解」の精度は、この強豪校の部員たちにとっても未知の領域のものだった。
監督が、遠くから鋭い視線を送っているのが分かる。
周囲の冷やかしは消え、代わりに重い沈黙と、熱を帯びた警戒心が蓮を包み込んだ。
「……よし、次だ」
蓮は小さく呟いた。
自分の価値は、このピッチでならいくらでも証明できる。
――しかし。
一時間半後、練習が終わる頃には、蓮の足取りはすっかり重くなっていた。
日本の部活動特有の「練習後の掃除」や「整備」を終え、更衣室を出た時には、とっぷりと日が暮れていた。
「ふぅ……」
校門を出る頃には、極度の空腹が全身を襲っていた。
激しい運動で消費したエネルギーを、今すぐにでも補給しなければならない。
(鶏むね肉は買ってある。野菜も……少しはあるはずだ。でも、どう調理するのが今の俺に最適なんだ?)
足取りは重い。脳内では、ピッチ上の戦術シミュレーションではなく、「夕飯の献立」というもっと難解なパズルが始まっていた。
蒸すべきか、焼くべきか。塩分はどの程度まで許容されるのか。
最寄り駅近くのスーパーの入り口で、蓮は呆然と立ち尽くした。
周囲には、楽しそうに総菜を選ぶ主婦や、カップ麺をカゴに入れるサラリーマンたちがいる。
(......分からない。ピッチの上の正解はあんなに鮮やかに見えるのに......)
ドイツ帰りの天才。将来の日本代表候補。
そんな重々しい期待を背負った少年の背中は、少しだけ寂しげに丸まっていた。
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