23食目 静かな進化
常盤台高校サッカー部のグラウンドを包む夕闇は、練習の終盤、最も密度を増す。
照明が灯り、白いボールが放物線を描く中、練習の締めくくりとなるミニゲームが佳境を迎えていた。
Aチームの攻撃陣。右サイドの深い位置でボールを呼び込んだエース・桐生は、マークを外す一瞬のステップを踏みながら、中央のバイタルエリアへと視線を送った。
そこには、ディフェンスの網の目に沈むようにして、天根蓮が立っている。
(……まだ、出ねぇか)
桐生は一瞬、パスコースを探した。だが、相手ディフェンスの寄せは速い。ボランチとセンターバックの間に、針の穴を通すような隙間が一瞬だけ生まれた、その刹那だった。
――来た。
思考よりも早く、視界の端で白い閃光が走った。
地を這うような鋭いグラウンダー。芝を切り裂く音が聞こえてきそうなほど、回転の効いた重いパスだ。
(速い……ッ!)
桐生は反射的に身体を投げ出すように走り込んだ。
何度も受けてきた、蓮のパスだ。だから、通ることだけは確信できる。
だが、今の一本は、桐生の筋肉が走り出す、その直前。すでにボールは、彼が向かうはずのスペースへと送り出されていた。
桐生は吸い付くようなトラップで勢いを殺し、そのまま反転してシュートを叩き込む。
バシュッ、と小気味よい音が響き、ゴールネットが激しく揺れた。
「ナイス、桐生さん!」
「今のパス、エグいな……」
周囲から上がる歓声。桐生は軽く手を上げて応えたが、その視線はすぐにパスの出所――センターサークル付近で、呼吸一つ乱さず立っている天根蓮へと向けられた。
全体練習が終わり、各自がボールやマーカーを片付け始める時間。桐生は首にタオルをかけ、ベンチでスパイクを脱いでいる蓮に歩み寄った。
「天根」
「……はい?」
蓮が顔を上げる。その表情は相変わらず鉄面皮で、激しいミニゲームの後だというのに、肌には厭なテカリすら見当たらない。
「さっきのパス。お前の感覚じゃ、いつも通りだったか?」
蓮は少しだけ視線を泳がせ、脳内のプレイ映像を巻き戻すような仕草を見せた。
「……特に、変な感覚はありませんでしたが。何か、ズレてましたか?」
「いや、ズレてねーよ。完璧だった。完璧すぎて……ちょっと怖いくらいだ」
桐生は笑って誤魔化した。
この後輩のパス精度が、もともと「異常」なのは分かっている。Aチームに飛び級で合流してきた初日から、そのキックの質は他を圧倒していた。
だが、ここ最近――具体的には、あの「橘」という女子生徒がマネージャーもどきとして彼の周囲をうろつき始めてから、何かが決定的に変わってきている。
「お前のパスさ、前から受けてるけど……今日のやつ、ちょっと『早かった』」
蓮が手を止め、一瞬だけ鋭い視線を向けた。
「……そうですか。すみません。出し所を急ぎすぎましたか」
「ああ、違う! 謝んな、誤解だ。受け取りやすさは変わってねえ。そこは流石だよ。ただな……」
桐生は自分の足元を見つめ、さっきの感触を反芻した。
「お前のパス、俺の判断より先に来てる。走ろうとした瞬間には、もうボールが目標地点に向かっている感じだ」
蓮は小さく息を吐き、再びスパイクの紐を解き始めた。
「練習してますから。キックのインパクトの瞬間、軸足の固定と骨盤の旋回を意識してるだけです」
「そりゃみんなやってるっつーの」
桐生はそれ以上、深くは追求しなかった。
だが、プロ予備軍とも言われる常盤台のエースとして、肌で感じる「恐怖」がある。
天根蓮という男の肉体が、まるで精密機械のようにアップデートされている。
以前は「センス」で補っていた部分が、今は強固な「フィジカル」によって裏打ちされ、反応速度そのものが一段階上のステージに移行している。
校門へ向かう道すがら、二人は並んで歩いた。
「あとさ。お前、最近コンディション良すぎだろ」
「……悪くはないつもりです」
「つもり、じゃねえよ。試合終盤、俺たちが肩で息してる時でも、お前一人だけ涼しい顔して走行距離落としてねえだろ。……バテねえのか?」
蓮は否定も肯定もしなかった。秋の夕風が、二人の間を通り抜ける。
「何か変えたか? サプリとか、特別なトレーニングとか」
桐生が探るように言うと、蓮は前を見据えたまま、淡々と答えた。
「……まぁ。生活スタイルは、日々、最適化してますから」
「最適化、ね。……まぁ、いいや。理由はどうあれ、エースとしてはありがてえ話だ」
校門が見えてくる。そこには、いつものようにスマートフォンを片手に、眉間に皺を寄せて「何か」を計算している橘椿の姿があった。
彼女は蓮の姿を認めるや否や、一瞬だけ表情を和らげ――いや、正確には「今日の被験者のコンディション」を確認する鋭い眼差しに切り替えた。
「じゃあな、天根。インハイ予選、頼むぜ」
「……お疲れ様でした、桐生さん」
桐生は軽く手を上げ、寮の方角へと足を向けた。
数歩進んでから、ふと夜空に浮かぶ月を見上げる。
(……生活スタイルの最適化、か)
あんなストイックな後輩に、あんな「狂気」を感じさせる管理士がつけば、どうなるか。
今日のあのパス。受ける側を驚かせるほどの弾道の鋭さと、早すぎるタイミング。
それは、蓮の技術が上がったというより、彼の肉体が「出したい」と思った瞬間に、タイムラグなしで100%の出力を発揮できるようになっている証左だ。
恐ろしいのは、当の本人たちが、それを「当然の結果」だと思っていそうなことだった。
「ま、世界に行っちまう前に、その恩恵には預からせてもらうか」
桐生は一人ごちて、笑みを漏らした。
進化し続ける弾道。それは、このチームで誰よりも長く蓮のパスを受けてきた自分だからこそ感じられる、予兆という名の福音だった。
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