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22食目 投じられた一石

 午後の日差しが、アスファルトの熱を孕んで肌にまとわりつく。校門を出た椿の隣には、弾むような足取りの陽菜がいた。吹奏楽部の練習を完全に休み、軽装で歩く彼女からは、好奇心の昂ぶりが隠しようもなく漏れ出している。対照的に、椿の指先はエコバッグの持ち手を無意識に強く握りしめていた。


「ねえ椿、そんなに緊張しなくても減るもんじゃないし。私はただ、噂の天才プレーヤーさんを支える献立の裏側を拝みたいだけだよ」


「……その言い方、本当にやめて。別に、そんな大層なものじゃないわよ」


 椿は前を見据えたまま、短く応じる。言葉とは裏腹に、彼女の脳内ではすでに今日の献立のシミュレーションが始まっていた。インターハイ予選まで一ヶ月。昨日の蓮の動きには、わずかながら判断の遅れが見えた。それは肉体的な疲労だけでなく、司令塔として戦況をスキャンし続ける脳の疲労の現れ。今日の夕食には、神経伝達をスムーズにする栄養素と、深部体温を穏やかに下げる工夫が必要だった。


 スーパーの自動ドアが開くと、冷気が一気に二人を包み込む。椿はカゴを手に取り、精肉コーナーの奥深く、内臓肉の棚へと迷いなく足を向けた。


「え、ちょっと椿。最初に行くのそこ? 普通、ひき肉とかバラ肉とかじゃないの」


 陽菜が眉をひそめて覗き込んだ先には、パックに詰められた鮮烈な赤色の鶏レバーがあった。椿はそれを一つずつ手に取り、蛍光灯に透かして色味を確認する。


「……今日はこれが必要なの。練習の強度が上がって、彼の血中ヘモグロビン濃度が落ちている可能性があるわ。鉄分とビタミンA、それに葉酸。これ以上に効率的な食材はないもの。見て、こっちの方がハリがあって色が明るいでしょ? 鮮度が命なのよ」


「うわぁ……。レバーの鮮度を熱弁する女子高生、初めて見たかも。でも、それって下処理とか大変じゃない?」


「それが私の仕事だから」


 椿は淡々と答え、次に野菜コーナーへ。小松菜の束を手に取り、茎の太さと葉の色の濃さを吟味する。カルシウムと鉄分を補強し、レバーのクセを抑えるための名脇役だ。さらに、疲労回復を助けるアリシンを豊富に含むニラと、血液をサラサラにする効果のある新玉ねぎを選び取った。


「なんか、椿が選ぶと食材が全部資材に見えてくるね。サッカーサイボーグを作るための特注パーツ、みたいな」


「……失礼ね。美味しく食べることも、立派な栄養管理の一つよ」


 会計を済ませて店を出る頃には、エコバッグの持ち手は椿の掌に赤く食い込んでいた。陽菜はそれを見て「半分持つよ」とひったくる。椿は「……ありがと」と小さく感謝を述べた。


 やがて、椿たちの住むマンションに到着した。エレベーターを降り、401号室の前で立ち止まる。椿は鞄の奥から二本の鍵を取り出した。陽菜の視線が、その金属の束、特に蓮の部屋の鍵へと突き刺さる。慣れた手つきで鍵穴に差し込み、回す。小さな金属音と共にドアが解錠される。


「……えっ。え、ちょっと待って。椿、今さらだけど本当に合鍵で入るんだ」


 陽菜が玄関前で足を止め、信じられないものを見るような目で椿を見つめた。


「ええ。そう言ったじゃない」


「いや、聞いたけど! 実際に目の前で、女子高生がクラスの男子の部屋を自分の家みたいに開けるの見ると、こう……衝撃っていうか。天根くん、本当に椿に全部預けてるんだね。これ、普通に考えたら相当なことだよ?」


 陽菜の声に、椿は扉を支えたまま指先を微かに震わせた。自分たちにとっては定着した日常だったが、外部の、それも友人の真っ当な反応を突きつけられると、途端にその行為の重みが意識にのぼってくる。


「……彼が練習から帰る前に準備を終えるのが、一番効率が良いからよ。彼もそれを望んでるわ。さあ、入って。廊下で騒がないで」


 陽菜は「お邪魔しまーす……」と、今度は少し遠慮がちに、しかし興味深そうに足を踏み入れた。並べられた整然としたスパイクや、スポーツバッグの配置。無機質な部屋に漂うストイックな空気に、陽菜は何度も首を振った。

 椿はすぐにキッチンへ向かった。エプロンを締め、髪を後ろでまとめ、念入りに手を洗う。包丁を握った瞬間、彼女の意識は再び集中の中へと潜り込んでいく。


 まずはレバーの下処理。血塊を丁寧に取り除き、牛乳ではなく、蓮の体質に合わせて薄い塩水で臭みを取る。その間に小松菜とニラを素早く切り分け、新玉ねぎを極薄のスライスにして水にさらす。

 背後で陽菜がスマホのカメラを構える気配がしたが、椿は無視した。


「すごい……。迷いがないっていうか、椿、学校にいる時よりずっとかっこいいじゃん。なんか、職人って感じ」


「……これが私の責任だから。まだプロじゃないけど、そのつもりでやってるわ」


 フライパンでレバーを焼き始めると、食欲をそそる香ばしい匂いが部屋を満たした。そこへたっぷりのニラと小松菜を投入し、短時間で一気に火を通す。シャキシャキとした食感を残すのが椿のこだわりだ。

 その時、カチャリと鍵が開く音がした。


「……ただいま」


 練習を終えた蓮が帰宅した。玄関から入ってきた蓮は、リビングにいる陽菜を見ても、動揺することなく受け入れた。ただ、一瞬だけ陽菜の顔を穏やかに見つめ、いつものようにカウンターの端へスポーツバッグを置いた。


「おかえり。……天根くん、彼女が陽菜。私の友達よ」


 椿が紹介すると、蓮は陽菜に向かって落ち着いた会釈をした。


「サッカー部の天根だ。橘さんから話は聞いてるよ。窮屈かもしれないけど、ゆっくりしていってくれ」


「わっ、本当に天根くんの家なんだ……。天根くん、学校で見るよりずっと迫力あるね。お邪魔してます!」


 蓮はそのまま洗面所へ向かい、念入りに手を洗って戻ってくると、当然のようにキッチンの入り口で立ち止まった。


「橘さん、何か手伝うよ。今日は一人分多いんだろ?」


「……じゃあ、そこの小皿を三つ用意して。副菜を盛り付けるから」


 蓮は無言で棚から皿を取り出し、椿の隣で手際よく動く。その流れるような連携を、陽菜は息を呑むように見守っていた。


「……ねえ。これ、いつもやってるの?」


 陽菜の問いに、蓮は皿を並べながら、椿の動きを邪魔しないよう配慮しつつ応じる。


「ああ。作ってもらってる以上、当然だからな」


 蓮の言葉に、陽菜は「当然、ねぇ……」と独り言のように呟き、ニヤリと笑った。


 やがて、カウンターに三つの皿が並んだ。鶏レバーと小松菜のスタミナ炒め、新玉ねぎのサラダ、そして具沢山の味噌汁。蓮の分だけ、正確に調整された玄米ごはんが盛られている。


「いただきます」


 三人の声が重なる。蓮は一口ごとに味を確かめるように、噛み締めて食事を進めていく。陽菜は自分の皿を一口食べると、目を見開いて椿を見た。


「……おいしい! レバーの臭みが全然ない。っていうか、この味付け、ご飯が止まらなくなるね」


「レバーに含まれるビタミンB1は、ニラのアリシンと一緒に摂ることで吸収率が上がるのよ。天根くん、今日の味はどう?」


 蓮は箸を止めず、頷いた。


「いつもと変わらず美味いよ」


 陽菜は、そんな二人を交互に見つめていた。ふと、陽菜が箸を置き、蓮をまっすぐに見据えた。


「ねえ、天根くん。一つ聞いていい?」


「何だ?」


「椿のこと、どう思ってる? 栄養管理の相手として最高だってのは分かったけどさ。……ひとりの女の子が、こんなに毎日尽くしてくれてるの、どう感じてるのかなって」


 キッチンに、一瞬の静寂が訪れた。椿は顔に血が上るのを感じた。しかし、蓮の返答は驚くほど淀みなかった。


「?普通にありがたいなって感じだ

……彼女がいなければ、俺は今のパフォーマンスを維持できない。今の俺にとって、彼女の存在は、世界で一番信頼に値するパートナーだと思ってる」


 一点の曇りもない、穏やかだが力強い声だった。蓮はそのまま、最後の一口を口に運んだ。そこには、己を支える者への、最大級の敬意と親愛があった。


「……パートナー、ね。ふーん。いい関係なんだね」


 陽菜は満足げに頷き、隣で顔を真っ赤にしている椿を横目で見た。蓮の言葉に嘘はない。しかし、そのパートナーという言葉が、仕事上の関係を超えた響きのように聞こえ、今の椿は受け止めきれずにいた。


 食後、蓮はいつものように自分の分の皿をシンクへ運び、丁寧に洗い始めた。陽菜が帰り、再び二人きりになった四〇一号室。


「……橘さん。改めてだけど、今日も本当に美味かったよ。ありがとう」


「え、ええ……。それならよかったわ」


 いつものやり取り。だが、陽菜の存在によって生まれた小さな波紋は、鏡のように静かだった二人の水面を、今も静かに揺らし続けていた。椿は、手元の鍵の重みを意識から外すように、ノートを開いた。

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