21食目 サボりと突撃
五月の柔らかな夜気が、マンションのベランダを吹き抜けていく。
天根宅のダイニングでは、食後の静かな時間が流れていた。
シンクでは、蓮が蛇口をひねり、慣れた手つきで食器を洗っていた。スポンジが皿をなでる音と、蛇口から流れる水の音。椿はカウンターの傍らで、蓮から共有されたタクティクスボードの図面を見つめながら、明日の練習強度を再確認している。後片付けを終えた蓮が、濡れた手を拭きながら椿の隣に腰を下ろした。
「……やっぱり、明日も陽菜が何か言ってくるかしら」
椿は、水の音が止まった静寂の中で独り言のように漏らした。
蓮は視線をボードに向けたまま、短く応じる。
「気になるなら、釘を刺しておけばいい」
「それができれば苦労しないわよ。陽菜は、私がムキになればなるほど面白がるタイプなんだから」
「なら、放っておけばいいんじゃないか?プロを目指すためにサポートを受けるのは、欧州では当たり前の選択肢だ。それがたまたま隣人で、同じ高校の生徒だというだけだろ。説明がつかないことは何もない」
「それを世間では、たまたまで済ませないのよ……」
蓮の言うことは正しい。しかし、彼の理屈は、陽菜のような勘で動く人間には通用しないことを椿は知っていた。
翌日。
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、椿はいつものように教室を後にした。
校門を抜け、駅前の大きなスーパーへ向かう。今日は、練習の強度が徐々に上がっている蓮のために、良質なタンパク質と鉄分を補給できるカツオを仕入れる予定だった。
自動ドアをくぐり、カゴを取ろうとしたその時、背後から軽やかな足音が近づいてきた。
「つーばき! やっぱりここだ」
振り返ると、吹奏楽部の練習があるはずの陽菜が、楽器ケースを肩にかけたまま立っていた。
「陽菜。……練習は?」
「今日は個人練習だけだから、ちょっとサボり。それより、椿の買い出しに興味あってさ。付き合っていいでしょ?」
陽菜は拒否する隙を与えず、椿の隣に並んで歩き出した。
椿は内心の動揺を抑え、まずは鮮魚コーナーへと向かう。陽菜の視線が、椿の選ぶ食材一つ一つに注がれているのが分かった。
「……へぇ。カツオ、それも血合いが綺麗な方選ぶんだ。渋いね」
「……鉄分とビタミンB12が豊富だからよ。今の時期はこれが必要なの」
「誰に必要かって話だよね」
陽菜がいたずらっぽく笑う。椿は無視を決め込み、次は精肉コーナーへ足を向けた。鶏レバーを手に取り、鮮度を確認する。陽菜はそれを横で見守りながら、不意に椿の鞄のサイドポケットを指差した。
「ねえ、椿。さっきから気になってたんだけど。その鞄のポッケから覗いてるキーホルダー……それ、鍵が二本ついてない?」
椿は思わず鞄を隠すように引き寄せた。だが、陽菜の目は誤魔化せなかった。
「……片方は実家のよ」
「またまたー。実家、県外だって言ってたじゃん。それに、その二本の鍵。メーカーは同じだし形も似てたみたいだけど、実家は一軒家じゃなかった?」
「じゃあ自宅の予備よ」
精肉コーナーの冷気が、椿の肌を刺すように感じられた。
陽菜の推測は、もはや確信に近い。彼女は椿の買い込み量――明らかに一人暮らしの女子高校生が消費する量を超えた肉や野菜の束――と、その鍵を頭の中で結びつけていた。
「じゃあって言っちゃてるじゃん!
ねぇ椿。……もしかして天根蓮くん、椿の近くに住んでる? それでさらに、椿ってば毎日そこに行ってご飯作ってあげたりしてる?」
陽菜の声は小さかったが、椿には雷鳴のように響いた。
「……陽菜。変な誤解をしないで。天根くんは本気でプロを目指してて、私は自分の研鑽のために――」
「あはは、必死すぎ! 椿、顔赤いよ。……でもそっか、納得した。あのお弁当のクオリティも、放課後の即帰宅も、全部天根くんのためだったんだ。……それってさ、もうサポートっていうか、ほとんど奥さんじゃん」
「違うわよ!」
椿の声が少し大きくなり、近くでパックを選んでいた主婦がこちらを振り返った。椿は俯き、足早にレジへと向かった。
陽菜は楽しそうにその後を追い、会計を済ませてスーパーを出たところで、椿の肩をポンと叩いた。
「安心しなよ。学校で言いふらすような無粋な真似はしないから。たださ……」
陽菜はそこで一度言葉を切り、沈みかけた夕日に目を細めた。
「椿がそんなに一生懸命一人のために頑張ってるなら、私は友達として応援したいなーって。……だからさ、今日の夜、遊びに行っていい? どんなサポート現場なのか、見てみたいんだよね」
「……えっ? 今日は困るわよ。天根くんにも急だし」
「だよねー、知ってるー。じゃあ、明日の放課後は? 椿が買い物してるところから、部屋に入って料理するところまで。……見学させてよ、椿栄養士さん」
拒絶する言葉を探す前に、陽菜はじゃあそろそろサボりばれちゃうから、と手を振って、学校の方へと駆け出していった。
一人取り残された椿は、重くなった買い物袋を握り直した。
陽菜の好奇心は、もはやお弁当の中身だけでは収まりきらなくなっている。このままでは、蓮の生活圏が、陽菜によってかき乱されるのは時間の問題だった。
その日の夜。
いつもどおり蓮の自宅で、椿はいつにも増して険しい表情でカツオを叩いていた。
カウンターの向こうでは、練習後の筋肉をリラックスさせるように、蓮が静かに柔軟を行っている。
「……天根くん。明日、私の友達が来るかもしれないわ」
蓮は短く、「……ここに?」と返した。
「そう……さすがに天根くんが嫌といえば来ないと思うけど……
彼女、私たちが隣同士なことも、私が鍵を持ってることも、全部察したみたい。……明日、ここに見学に来るって」
蓮はゆっくりと顔を上げ、椿をまっすぐに見つめた。
「それで、彼女は何か要求してきたのか?」
「いいえ。……ただ、私の頑張りを見たいって」
「そうか。前にも言ったけど後ろめたいことをしているわけではないし。実害がないなら、好きにさせたらいいんじゃない?」
「あんた……。本当に大物ね」
椿は溜息をつき、盛り付けたカツオのタタキを蓮の前に置いた。
明日の放課後、この部屋に初めて第三者が入り込む。穏やかに終わるわけがないと、椿は予選前の蓮のコンディションよりも、自分自身の心のざわつきを抑えることに必死だった。
一方で蓮は、差し出された皿を見つめ、薬味として添えられた生姜の香りを深く吸い込んだ。
外部のノイズがどれだけ増えようとも、自分のやるべきことは変わらない。今はただ、目の前の献立を最大限に摂取することだけだ。
「……明日は、少し多めに作らなきゃね」
椿がそう付け加えると、蓮はカツオを咀嚼しながら、一度だけ深く頷いた。




