19食目 弁当箱
三月の朝の空気は、まだ肌を刺すように鋭い。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、整然と片付けられたリビングを照らしていた。蓮は定刻に目を覚まし、軽く身体を動かして昨夜の状態を確認した。
胃に重さはない。むしろ、いつもより身体が温かく、エネルギーが満ちているような感覚さえある。昨夜の食事と、その前の準備が正しく機能した証拠だった。
午前七時。
玄関で、聞き慣れた金属の音が響いた。
カチャリ、と鍵の回る音がして、ドアが開く。
「おはよう、天根くん。顔色は良さそうね」
入ってきたのは、学校の制服にカーディガンを羽織った椿だった。彼女は入ってくるなり、蓮の顔をじっと覗き込んだ。その目は、わずかな体調の変化も見逃さないほど真剣だった。
「おはよう、橘さん。調子はいいよ。胃もたれもしてない」
「そう。それならよかった
……昨日の和え物、ちゃんと食べた?」
「ああ。最後にあれを食べたおかげで、寝起きの口の中もスッキリしてたよ。ありがとう」
蓮が感謝を伝えると、椿はいつものノートに数値を書き込みながら、少しだけペンを動かすスピードを速めた。
「そう。それは良かったわ。今日の朝食は、昨日の油の摂取を考慮して、消化に良くて栄養価の高い献立にするから。座って待ってて、すぐできるわ」
椿はキッチンへ向かい、手際よく準備を始めた。
まな板の上で青菜が刻まれる音。鍋から立ち上る、出汁の優しい香り。昨夜の店の熱狂とは正反対の、静かで規則正しい時間が流れていく。
「橘さん、昨日は洗い物までしてくれたんだな。キッチン、綺麗だった」
蓮がリビングの椅子に座りながら声をかけると、椿の背中が一瞬だけ動いた。
「当然でしょ。食材を放置して、生活環境を汚すわけにはいかないわ。それに、昨日のミキサーは洗うのが手間なのよ。天根くんが帰ってからやろうとすると寝る時間が遅くなっちゃうでしょ」
「そうか、ありがとう。次は、俺がやるよ。橘さんにそこまでさせるのは違うしな」
「いいわよ。あんたは自分の身体を最高の状態に保つことだけ考えてなさい。はい、できたわよ。今日はサバの塩焼きと、ブロッコリーの胡麻和え、それと玄米ごはん」
テーブルに並べられたのは、均衡の取れた朝食だった。
蓮は手を合わせ、ゆっくりと箸をつける。サバの脂が玄米の香ばしさと混ざり合い、身体の奥から力が湧いてくるのを感じた。
「美味い。焼肉も良かったけど、やっぱりこっちの方が落ち着くな」
「比較するようなものじゃないでしょ。食べてる間に、お弁当も用意しておくから」
椿は蓮が食べている横で、プラスチックの容器に昼食のおかずを詰め始めた。
数十分後。
二人は各々のタイミングでマンションを出て、学校へと向かった。
校門をくぐり、それぞれの教室へ向かう廊下。蓮はスポーツバッグの中から覗く容器の重みを感じていた。
昼休み。
教室で、蓮がいつものように椿から渡された弁当を広げていると、後ろから声をかけられた。
「お、天根。今日も美味そうなの食ってんな」
クラスメイトの男子生徒が、数人集まってきた。彼らは蓮の、徹底して管理された弁当に興味津々な様子だった。
「これ、もしかして全部自分で作ってんのか? 彩りとか、栄養のバランスとか、すごそうだけど」
「いや、これは」
蓮は一瞬、言葉に詰まった。
椿とのことは、部活の仲間にも詳しく話してはいない。あくまで、目標のために協力してもらっているだけだが、それをどう説明すべきか迷ったのだ。
「さすがに誰かに作ってもらってるんだろ? 彼女か? それとも、親御さんがわざわざ?」
「違うよ。ただ、知り合いに栄養管理を任せてるだけだ」
蓮は努めて淡々と答えたが、クラスメイトたちは意外そうな顔を突き合わせる。
「はえー、栄養管理。それでその手の込みようなのか」
蓮は無言で、ブロッコリーを口に運んだ。
手の込んだもの、という言葉を反芻する。毎朝七時に自分の部屋に来て、心拍数や体調まで気にかけてくれる彼女の行動に、ただただ感謝の念が沸き立つ。
彼女への感謝を最大限伝えるように、蓮は食事を進めた。
一方、廊下を通りかかった女子生徒の一人が、足を止めて蓮の席を眺めていた。
彼女は蓮が、いつも通りがかるたびに同じ容器を使い、それを大切そうに扱っていることに気づいていた。そして、その容器が、同じ学年の橘椿が持っているものと同じ種類であることも。
「あのお弁当箱……」
小さな呟きは、周囲の騒ぎにかき消された。
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