1食目 桜並木の朝
日本の四月は、天根蓮が記憶していたよりも、ずっと鮮やかで、ずっと騒がしかった。
三月まで過ごしたドイツ・シュトゥットガルトの冬は、石造りの街並みに灰色の空が居座る、無機質でストイックな世界だった。
それに比べれば、私立常盤台高校へと続く通学路はどうだろう。右を見ても左を見ても、爆発したような桜のピンク。そして、それ以上に「今日から高校生」という事実に浮き足立った新入生たちの笑い声が、春の風に乗って心地よいリズムで耳を叩く。
(……ようやくか)
蓮は真新しい紺色のブレザーの襟元を整え、口元に微かな笑みを浮かべた。
ドイツの強豪ユースチームでの生活は、エリートとしての階段を上るための毎日だった。技術も戦術眼も世界基準で叩き込まれたが、そこには「放課後に友達と寄り道する」とか「学校行事でバカ騒ぎする」といった、同年代らしい彩りは一切なかった。
だからこそ、この日本の高校への入学には、サッカーと同じくらい大きな期待を抱いている。
(規律ある日本の部活動。そして、誰にも干渉されない一人暮らし。……最高の三年間になりそうだ)
蓮は内心で、自分にしか分からない小さなガッツポーズを作った。
だが、そのクールな横顔の裏側で、彼が早くも「自律」という名の高い壁に直面していることを、周囲の生徒たちは知る由もない。
今回の帰国の目玉である「一人暮らし」。
「プロになるには生活から自分を律するべし」という言葉をどこかで聞いた蓮は、それを真面目に受け取り、寮に入らず一人暮らしをするという選択をした。
今朝も意気揚々とキッチンに立ち朝食を作った。彼は決して不器用ではない。むしろ手先は器用な方で、包丁の扱いも火の通し方も、動画サイトで予習した通りにこなせる自信があった。
しかし、いざ「一人分のプロの食事」を完璧に整えようとすると、途端に正解が分からなくなる。
今朝、蓮が作ったのは、焼き色の美しい目玉焼きと、香ばしく焼けたトースト。見た目だけならカフェの朝食そのものだったが、皿を前にして彼は深く首を傾げた。
(……これで、本当に足りているんだろうか)
作れる。作れるのだが、それが「プロの身体を作るための食事」として合格点なのか、確信が持てない。結局、栄養バランスへの漠然とした不安を解決できないまま、気休めに予備のプロテインバーを一本追加して家を出る羽目になった。
「ねえ、見て。あの人、新入生かな? めちゃくちゃカッコよくない?」
「ハーフかなあ。ちょっと、モデルさんみたい……」
校門をくぐる際、女子たちのひそひそ話が風に乗って聞こえてきた。
蓮はそれらをあえて聞き流し、真っ直ぐに前を見据えて歩く。内心では(お、女子高生だ。制服の着こなしがみんな個性的だな)と興味深く観察しているのだが、いかんせん表情筋がドイツでの厳しいトレーニングの名残で固まっているせいで、周囲には「近寄りがたいクールな新入生」として映ってしまっていた。
体育館で行われた入学式は、蓮にとって懐かしい体験の連続だった。
整然と並んだパイプ椅子、厳かな校歌の斉唱、そして理事長による長い祝辞。延々と続くプログラムの間、彼の意識は、これから始まる「普通の高校生活」への期待で埋め尽くされていた。
式が終わり、新入生たちはそれぞれの教室へと誘導される。
蓮が自分の所属となる『一年三組』の扉を開けた瞬間、室内の視線が一斉に彼へと集まった。
ざわついていた教室が、一瞬だけ静まり返る。
蓮は特に気負うこともなく、掲示板の座席表を確認して窓際の席に座り、鞄を机に置いた。
教室内では、出身中学が同じらしい生徒たちが早くも小さな輪を作り始めていた。
廊下からは、他クラスの女子たちが「イケメンがいる」という噂を聞きつけたのか、教室の中を覗き込みながら楽しげに笑い合っている。その輪の中に、一人の少女がいた。
陽光を反射する健康的な髪と、周囲を明るく照らすような爛漫な笑顔。彼女が友人と屈託なく笑っている姿は、どこかこの春の陽光そのもののような躍動感があった。
蓮の広い視野が、一瞬だけ彼女を捉える。
(……確かに、日本の高校生活は賑やかで良さそうだ。まずは、あんな風に自然に話せる友人を作るところから始めないとな)
やがて、担任が教室に来ると、次第に人の波は引いていった。
担任が教壇に立ち、最初のホームルームが始まった。
教科書の配布、年間行事の説明。そして、部活動の登録届が配られる。
蓮は迷わず、一気に『サッカー部』の欄に名前を書き込んだ。
ペンを置き、窓の外を眺める。
眼下に見える広大な人工芝のグラウンドでは、すでにサッカー部の先輩たちが練習の準備のために集まり始めていた。
自炊の不安、慣れない一人暮らし。
課題は山積みだが、それでも胸の鼓動は高なり、期待感で満たされている。
「よし、今日のホームルームはここまでだ。これから三年間、しっかりやっていこう。放課後は各自、自由にするように!」
担任の言葉が終わるか終わらないかのうちに、教室内は再び賑やかな喧騒に包まれた。
蓮は椅子から立ち上がり、窓の外の緑の芝をじっと見つめる。
生活の管理は、まだ手探りかもしれない。
自分の選択が正しいかどうかも、やってみなければ分からない。
けれど。
「まずは、サッカーだ。きっちり決めていこう」
彼は小さく、自分にしか聞こえない声で呟いた。
期待、羨望、そして自分自身への挑戦。
そんなものは、すべてボール一つで応えてやればいい。
蓮は鞄を肩にかけ、期待に胸を膨らませて教室を後にした。
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