18食目 祝勝会
駅前の商店街の一角にある焼肉店「十々」の暖簾をくぐると、むせ返るような肉の焼ける匂いと、威勢の良い掛け声が蓮を迎えた。
奥の座敷では、先に入っていたチームメイトたちが陣取っている。三月の冷たい外気で冷えた肌に、炭火の熱気が心地よくまとわりついた。
「おっ、天根! 遅かったじゃねえか、こっち座れよ!」
桐生が、トングを片手に大きく手を振った。蓮はその隣の空いたスペースに滑り込み、手際よくおしぼりで手を拭いた。
テーブルの上には、既に数皿のタン塩と、山盛りのサンチュが並んでいる。網の上では薄切りのタンが弾けるような音を立て、脂が炭に落ちては小さな炎を上げていた。
「すみません、少し遅れました」
「いいってことよ。俺らもさっき入ったとこだ。そんなことより今日は祝勝会だ、たらふく食おうぜ!」
桐生がドサリと、焼き上がったばかりのタンを蓮の小皿に放り込む。
蓮は箸を取り、まずは椿の言いつけ通り、サンチュを一葉手に取った。その上にタンを乗せ、レモン汁を少量つける。
口に運ぶと、スムージーでコーティングされた胃の腑が、滑らかに食べ物を受け入れる感覚があった。タンの適度な弾力と、サンチュのみずみずしい苦味。レモンの酸味が脂を切り、驚くほど軽やかに喉を通っていく。
「……美味いですね」
「だろ? ここのタンは絶品なんだよ」
蓮は次々と肉を焼いていった。
これまでの自分一人だけの生活なら、脂質やカロリーを気にして箸を止めていたかもしれない。だが今は違う。自分の胃には、椿が最大限楽しむために調合してくれたバリアがある。その知識と配慮が、蓮に「心置きなく食べる」という贅沢を許してくれる。
カルビやロース、ハラミといった重い部位も、椿に教わった通り、極力塩で味付けされたものを選び、必ず同量以上の野菜と一緒に口にする。
周囲では桐生たちが中学時代の遠征の思い出話や、次の大会に向けた展望を熱く語り合っている。蓮はその輪の中に加わり、時折頷きながら、プロを目指す上での規律とはまた違う、チームという集団が持つ独特の熱量を感じていた。
だが、宴が中盤に差し掛かった頃。
蓮の意識は、ふとした瞬間に、数十分前まで自分がいた自宅へと向かった。
(……橘さん、まだ後片付けしてるんだろうか)
賑やかな店内の喧騒。網の上で暴れる脂の音。笑い声。
それらすべてが遠くの出来事のように感じられる瞬間があった。
自分の部屋のキッチンに立ち、エプロンを締め、淡々と明日の仕込みをしているはずの椿。
自分は今、こうして仲間たちと美味い肉を囲んでいる。それは素晴らしい時間だが、同時に、静かな部屋でバインダーを広げ、自分の身体の数値を真剣に見つめてくれる彼女の視線が、無性に気になった。
「天根、どうした? 箸が止まってるぞ」
桐生に声をかけられ、蓮は我に返った。
「いえ……少し、明日の朝のトレーニングメニューを考えてました」
「ハハッ、お前は本当にストイックだな! 少しは緩めろよ。ほら、このハラミも食え食え」
「……そうですね。先輩、俺焼きますよ」
蓮は苦笑しながら、再びトングを握った。
やがて宴は佳境を迎え、誰かが「アイス全種類頼もうぜ!」と声を上げた。
蓮は一瞬、迷った。椿は「極力控えめに」と言っていた。完全に禁じられたわけではない。だが、今の自分の満足感は、これ以上何かを無理に詰め込む必要がないと告げている。
「俺は、バニラアイスだけで」
蓮はバニラアイスを注文し、ゆっくりと味わった。
やがてチームは会計を済ませ、店を出る。
外気はさらに冷え込んでいたが、蓮の足取りは軽かった。
「お疲れ様でした。では、俺はこっちなので、お先に失礼します」
桐生たちと別れ、蓮は早歩きでマンションへと向かった。
自宅の前にたどり着く。
蓮は鍵を回し、ドアを開けると。隙間から漏れる光は、もうなかった。彼女は既に帰ったのだろうか。
「……ただいま」
声は、静かな部屋に吸い込まれていった。
電気は消えていたが、リビングに入ると、キッチンは完璧に片付けられ、シンクには水滴一つ残っていなかった。そして、ダイニングテーブルの上には、一枚のメモと、ラップをかけられた小さな小鉢が置いてあった。
『焼肉、楽しめた?
一応、消化を助ける大根おろしの和え物を作っておいたわ。
寝る前に食べて。……明日の朝、七時に行くから。 椿』
蓮はそのメモを手に取り、しばらく見つめていた。
仲間と囲んだ焼肉は、確かに楽しかった。
けれど、誰もいない、静かになったこの部屋で、彼女が残していった形跡に触れる瞬間。
その時、蓮は自分でも驚くほど深い安堵感を覚えていた。
(……橘さん、俺が楽しめたか気にしてくれていたんだ)
蓮は冷蔵庫から和え物を取り出し、椅子に座って口にした。
シャキシャキとした食感と、出汁の効いた優しい酸味。
賑やかな祝勝会の後の、一人きりの食卓。
それはかつてはただ孤独だったもの。でも今は、誰よりも自分を理解してくれる存在に守られているという、充足へと変わっていた。
蓮は器を洗い、棚に戻した。
「……さて、寝るか」
ベッドに入り、目を閉じる。
明日もまた、自分のための献立が提供されるという、安心感に包まれながら。
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