17食目 灯る部屋
練習後の筋肉は、いつもより重く感じられた。
三月の夕暮れ、練習場からマンションまでの道を歩きながら、蓮は無意識にポケットの中で指先を遊ばせていた。そこにあるはずの予備の鍵は、今はもうない。代わりに、自分ではない誰かが、あのドアの向こうで準備を整えているはずだった。
自宅の前に立つと、ドアの隙間から換気扇が回る低い振動音が聞こえてきた。いつもはしないはずの生活音。蓮は一度呼吸を整え、ノブに手をかけた。
カチャリ、と音がしてドアが開く。
「ただいま」
「おかえり。……ちょうど良かったわ。いま出発前のスムージーができたとこ」
リビングに入ると、キッチンには既に椿の姿があった。彼女は自分の制服の上にエプロンを締め、手際よくグラスをカウンターに置いた。
自分がいない間に彼女がこの部屋に入り、当然のようにキッチンに立っている。その光景を、蓮は合理的な安心感とともに受け止めていた。
「助かる。……予定より帰るのが少し遅くなった」
「いいわよ。……それより、これ。出かける前に必ず飲み干してね」
椿が差し出したのは、一杯の深い緑色の液体だった。ドロリとしていて、表面には細かな繊維が浮いている。部屋に漂うのは、野菜の青臭さと、わずかな柑橘系の酸味が混じった独特の匂いだ。
「……なんだ、これ」
「今日の調整。これから焼肉に行くんでしょ? 」
蓮はスポーツバッグを床に置き、ソファに腰を下ろした。加湿器の静かな蒸気が、練習で高ぶった神経を鎮めていく。しかし、目の前のグラスからは逃げられない。
「脂質は極力控えるつもりだ。肉も赤身中心にする」
「栄養的には正解だけど、せっかく行くなら最大限楽しまなきゃ損よ。天根くんが食事を楽しめるように、こうして作っているわけだしね。……それは、高濃度の食物繊維と、脂質の分解を助ける酵素を特別に配合したスムージー。肉を食べる前に胃に入れておくことで、急激な血糖値の上昇を抑えて、余分な脂が吸収されるのを物理的にブロックするわ」
椿は蓮の目の前に歩み寄った。彼女の瞳は真剣そのもので、眼鏡の奥で静かな光を宿している。
「一口も残さないで。飲みきらないと行かせないわよ?
……天根くんに、野菜嫌いとかじゃないわよね?いつも好き嫌いせず食べてくれてるし」
蓮はグラスを見つめ、それから椿の顔を見た。有無を言わさぬ表情だった。
「好き嫌いはないよ。ただ……『なに?』
……分かった!飲む!飲むよ!」
蓮は覚悟を決め、一気にその液体を喉に流し込んだ。
舌にまとわりつくような重みと、強烈な野菜の苦み。思わず顔をしかめたが、椿の視線を真っ向から受け止めながら、最後まで飲み干した。空になったグラスをカウンターに置くと、胃の腑がじんわりと熱くなるのを感じた。
「……さすがにこれは不味いな」
「これに関しては味なんて二の次。……でも、これで少しは安心ね」
椿は満足そうに頷くと、空になったグラスを手に取り、シンクで手際よく洗い始めた。蓮はその様子を眺めながら、ふと思ったことを口にした。
「そういえば、橘さん。鍵、ちゃんと使えたか?」
椿の手が、一瞬だけ止まる。蛇口から流れる水の音が、静かな部屋に響く。
「ええ。問題なかったわ。……ただ、あんたの部屋、本当に何もないわね。冷蔵庫の中も、相変わらず私が補充したもの以外は空っぽだし。……勉強する時間は、確かに確保できそうだけど」
「俺は必要ないものは置かない主義だ。……でも、帰ってきたときに電気がついてるのは、悪くないな」
蓮が何気なく言ったその言葉に、椿は今度こそ完全に動きを止めた。彼女はゆっくりと振り返り、濡れた手をタオルで拭いた。その顔は、昨日よりもずっと深い赤みに染まっていた。
「なによ、急に。……私はあんたの身体の栄養を管理するためにここにいるんだから。……さあ、準備ができたら行きなさいな。先輩たち待ってるんじゃないの?」
「橘さんは? まだここにいるのか?」
「私は後片付けをして、明日の朝食の仕込みを少ししてから帰るわ。
それと今日は極力、タレじゃなくて塩。サンチュも一緒に食べること。締めのアイスも控えめに。いいわね?」
「ああ。分かってる」
蓮は制服の襟を整え、ドアを開けた。
後ろを振り返ると、エプロン姿の椿が、少しだけ落ち着かない様子でこちらを見送っていた。
「じゃあ、いってくる」
「ええ。……いってらっしゃい」
カチリ、とドアが閉まる。
夜の冷たい空気が頬を撫でるが、胃の中には彼女の配慮の熱が残っている。これから向かう焼肉屋には、チームメイトたちが待っている。
(楽しみだな)
蓮は駅前の喧騒へと続く夜道を、迷いのない足取りで歩き出した。
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