16食目 合鍵
食事を終え、最後の一口を飲み込んだ蓮は、静かに箸を置いた。
体内の隅々にまで栄養が行き渡るような、重厚でいて澄んだ満足感がある。蓮はそのまま立ち上がると、使い終えた食器を手際よくまとめ、キッチンのシンクへと運んだ。
蛇口を捻り、流れる水で皿を流す。洗剤をつけたスポンジを動かす蓮の横で、椿はダイニングテーブルにバインダーを広げ、今日の蓮の摂取カロリーと栄養素の最終的な微調整を書き込んでいた。
「天根君、今日の鶏肉の火入れ、どうだった? 消化の良さを優先して少し長めにスチームしたんだけど」
「好みの火入れ加減だったよ。食感も残ってたし、今の疲労度にはちょうど良かった」
蓮は返事をしながら、慣れた手つきで皿を洗っていく。ドイツにいた頃から自分のことは自分でやるのが当たり前だったし、ましてや食事を作ってもらっている椿に片付けまでさせるという選択肢は、蓮の中にはない。
カチャカチャと、陶器が触れ合う音だけが部屋に響く。
椿はペンを走らせる手を止め、ふと、窓の外に目を向けた。三月の夜はまだ深く、ガラスの向こうには冷たい街灯の光が並んでいる。蓮は最後の一枚を洗い終えると、清潔な布巾で手を拭き、シンクの周りの水滴まで丁寧に拭き取った。
そして、リビングのテーブルに置いたままだった自分のキーケースから、一本の金属片を取り出した。予備として作ってあったその鍵は、キッチンの照明の下で、少しだけ冷たく光った。
「……橘さん」
蓮が呼びかけると、椿はバインダーから顔を上げ、不思議そうに蓮の手元を見つめた。
「なに?明日の焼肉に向けた調整案なら、今まとめてるところだけど」
「いや、そうじゃなくて。……これ。」
蓮が差し出したのは、自室の予備の鍵だった。
唐突に目の前に突き出されたものを見て、椿は今度こそ完全に動きを止めた。キッチンの加湿器が噴き出す蒸気の音だけが、やけに鮮明に聞こえる。彼女は瞳を大きく見開き、呆然と蓮の手元を見つめていた。
「……鍵? なんで、私にそんなもの」
「だって、いつも橘さんに買い物済ませてもらって、俺の帰宅に合わせて待たせてるだろ。……橘さんの生活スタイルもあるだろうし、悪いなって、ずっと思ってたんだ」
蓮は、飾らない本音を口にした。
今日の試合が終わったあともそうだ。チームメイトとのやり取りや、アイシングの処置。どうしても削れない時間がある一方で、彼女もまた、蓮の帰宅に合わせて食事提供できるように待機していたようだった。自分のための時間が彼女の生活に影響を与えつつある現状に、どうしても申し訳無さが勝っていた。
「これがあれば、俺が帰る前に先に入ってられるだろ。俺の帰宅に左右されず準備はできるし、時間が空いた時は勉強するなり好きに使っていいから。……橘さんにも目標に向けてやることはあるだろうから、その時間も大切にしてほしいんだ。俺の勝手な我儘だけど」
ただ、自分を支えてくれる彼女の負担を少しでも減らしたい。そんな、蓮の不器用な配慮だった。
椿は、しばらくの間、何も言わなかった。
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、机の上に置かれた鍵に指先を触れた。
「……いいの? そんな、簡単に。女子に一人暮らしの部屋の鍵なんて渡して。あんた、自分がどれだけ無防備なことしてるか分かってるの?」
彼女は鍵を指先でなぞりながら、蓮と目を合わせず言い放った。その瞳は、足元のフローリングの木目をじっと見つめていた。
「それ、普通男側が心配する台詞だろ……
それに俺は、橘さんだから言ってるんだよ。……変なことする人じゃないって、この短い付き合いでも知ってるから。迷惑だったら受け取らなくていいけど……」
「……迷惑なわけないじゃない。私のこと配慮してくれてるんだし」
椿はそう言いながら、蓮の手のひらから鍵をそっと摘み取った。
金属の冷たさが彼女の熱を帯びた掌に伝わり、彼女はそれを大切にするように、ぎゅっと胸元で握りしめた。
「……分かったわよ。そこまで言うなら、ありがたく借りるわ。……あくまで、準備をスムーズにするための手段として。あんたのコンディションも考えたら、これが一番効率的だし」
ややそっけなく言い放つ椿だったが、その頬は深い赤みに染まっていた。彼女はそのまま、逃げるように自分の鞄を取り出し、鍵を自分のキーケースに取り付けた。
「……ああ。よろしく、橘さん」
「……ええ。……じゃあ、また明日」
椿は逃げるように荷物をまとめると、玄関へと向かった。
いつもより少しだけぎこちない足取り。ドアを開けるとき、彼女が一瞬だけこちらを振り返ろうとして、結局そのまま出て行ったのを、蓮は見逃さなかった。
カチリ、とドアが閉まる音。
一人残された部屋で、蓮は彼女がさっきまで立っていたキッチンの残り香を感じながら、深く息を吐いた。
自分のいない生活の場にも、彼女を招き入れる。
それは、単なる信頼という言葉では片付けられない、もっと重く、温かい何かを共有したような感覚だった。
自分で洗って水切り籠に伏せた皿が、照明を反射して光っている。
窓の外では、夜の街が静かに眠りにつこうとしている。
一本の鍵が、二人の距離を、今日よりも少しだけ近くした。
明日、このドアを開けたとき、そこに彼女がいる。その当たり前ではない日常を想像して、蓮の口元は、自然と綻んでいた。
蓮はベッドに横たわり、天井を見上げた。
明日、彼女はどんな顔をしてこの部屋に入ってくるのだろうか。
自分がいない間に、彼女はこの空間をどう使い、どんな料理を準備してくれるのだろう。
考え始めると、胸の鼓動が少しだけ速くなるのを感じた。
それは試合前の緊張感とも、勝利の後の興奮とも違う、もっと静かで、それでいて抗いがたい種類の熱だった。
「……よし」
短く独りごちて、蓮は目を閉じた。
心地よい疲労感と、明日への微かな期待。
一本の鍵から始まったこの新しい日常が、自分をどこへ連れて行くのか。
今はただ、その感覚に身を委ねていたいと思った。
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