109食目 怪物の輪郭
試合終了の笛が鳴った瞬間、スタジアムの熱が一気に解き放たれた。
4対1。
スコアだけを見れば明確な勝利だった。だが、ピッチの上に立つ常盤台の選手たちの胸に残っていたのは、数字以上に濃い何かだった。
西条南。
この夏、誰もが優勝候補の一角として見ていた相手。
蓮を止めるのではなく、常盤台というチームの前進そのものを止めにきた全国屈指の強豪。
その相手を、後半だけで試合ごとひっくり返した。
桐生が汗で額に張り付いた前髪をかき上げながら、大きく息を吐く。
「……いや、やりすぎだろ」
その声に、周囲からようやく笑いが漏れた。
張り詰めていた空気が少しだけほどける。
若葉は膝に手をついたまま、何度か深く呼吸を繰り返していた。肺に焼けつくような熱がまだ残っている。だが、それ以上に胸の奥に残っている熱があった。
視線の先では、蓮が桐生と言葉を交わしている。
試合の流れを変えた声。
局面を創った一言。
そして最後に試合を終わらせた一撃。
その全部が、今も頭の中で反芻されていた。
「……やっぱ、すげぇっすよ」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど素直だった。
隣を通りかかった2年生SBの幹弥が、その言葉を拾って口元を上げる。
「今さら?」
「いや、今さらっていうか……」
若葉は言葉を探し、結局小さく笑った。
「代わりなんて、無理っすね」
ハーフタイム、自分が零した言葉が脳裏をよぎる。
――俺が、天根センパイの代わりができれば。
あの時は本気でそう思った。
同じ局面で、同じように前へ出せれば。
同じように試合を変えられれば。
けれど、違った。
蓮は代わりになれるような存在じゃない。
あの人は、最初から試合そのものを動かしていた。
今の自分にできるのは、そこへ最も正確に応えることだ。
定められた一点へ通す。
その精度なら、自分にもある。
若葉は視線を蓮へ向けたまま、小さく息を吐く。
「でも、まだ負けないっすよ。蓮さん」
その呟きは、もう悔しさだけではなかった。
スタンドでは、まだ歓声の余韻が残っていた。
その一角で椿は立ち上がらず、静かにピッチを見つめていた。
四点目の場面が、何度も頭の中で再生される。
蓮の足が止まった瞬間。
声が消えた時間。
西条南が押し上げた陣形。
そして、その裏で静かに位置を変え続けていた背番号十。
やっぱり。
小さく笑みが零れる。
「……もう、そういうことするんだから」
呆れたような声色だった。
けれど、その目はどこまでも柔らかい。
限界なんかじゃなかった。
止まったように見せて、相手の認識ごと動かしていた。
冬の敗北から、身体を作り直し、接触の中でぶれない軸を作り、戻せる身体を作った。
そこからさらに、今日。
試合の流れそのものを操っているように見えた。
また一段、高い場所へ行った。
そう思うのに、不思議と胸は冷えなかった。
遠くなったとは思わない。
むしろ、その先へ行く過程を誰より近くで見てきたからこそ、確信できる。
まだ、もっと上へ行く。
その時も、隣にいたい。
支えたい。
その想いが、言葉にしなくても胸の奥へ静かに沈んでいった。
視線の先では、試合後の挨拶を終えた選手たちが通路へ引き上げている。
西条南の選手たちは、誰も大きな声を出していなかった。
主将の朝倉がすれ違いざまに蓮を一度だけ見る。
その視線には悔しさもある。
だが、それ以上に認めざるを得ない現実があった。
「……試合を、動かされた」
短く落ちたその一言に、誰も返さない。
戦術は間違っていなかった。
出しどころを消し、前進の入口を断ち、常盤台全体を止める。
実際に前半は機能していた。
それでも、後半はひっくり返された。
それは、戦術の敗北ではない。
天根蓮という存在が、試合の次元を一段変えた。
その事実だけが重く残った。
夕暮れの空の下、ホテルへ戻るバスがスタジアムを離れる。
車内には、勝利の熱がまだ残っていた。
「いやー、桐生さんの二点目えぐかったっす」
「お前の一本も十分やばい」
「でも最後のミドル、あれ反則っすよ」
若葉たちの声が後方で弾む。
桐生の笑い声も混じる。
だが、その少し前の窓側の席だけは静かだった。
蓮はイヤホンを片耳だけ差し込み、スマホの画面を見つめている。
映し出されているのは、何度も見返してきた映像。
ベルギー対スペイン。
あの日、自分がサッカーという競技へ完全に呑み込まれた試合。
小さな画面の中で、一人の司令塔が静かに試合を動かしていく。
ボールに触れる前に、盤面を整える。
味方の立ち位置を変える。
相手の重心をずらす。
得点者でもない。
アシストしたでもない。
それでも、試合のすべてに存在している。
蓮の視線は、その一挙手一投足を追い続けていた。
今日、確かに怪物の産声は上がった。
だが、まだ満足していない。
窓の外を流れる夜の街明かりが、スマホの画面へ淡く反射する。
蓮の瞳は、そこに映る司令塔のさらに先を見ていた。
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