106食目 背中に焦がれて
若葉の横パスを掠め取った西条南のボランチが、顔を上げた。
その視線の先には、常盤台の最終ラインと中盤の間に生まれたわずかな裂け目。奪った瞬間から前線の二枚が同時に走り出している。
「戻れ!」
桐生の声がピッチに響く。
だが、その一歩より早く、黒いユニフォームが中央を切り裂こうとする。縦に差し込まれる一撃で決定機になる。誰もがそう思った瞬間だった。
蓮が、戻っていた。
若葉の視界の端を、白い背番号が斜めに横切る。
(……え)
いつ下がったのか分からない。
さっきまで中央のライン間にいたはずなのに、もう最終ラインの一歩手前まで戻っている。しかも、ただ戻っただけじゃない。相手の縦パスの受け手より半歩前、最も危険なラインに身体を滑り込ませていた。
ボランチの右足が振り抜かれる。
鋭い縦パス。
だが、その軌道の先に先に足を差し込んだのは蓮だった。
インサイドで面を作り、ボールの勢いを殺しながら自分の前へ転がす。受け手の前に入って、そのまま奪い切る。
「……っ!」
西条南の前線が一瞬止まる。
その一瞬で十分だった。
蓮は奪った次の瞬間にはもう前を向いていた。
トラップは一回。
視線は一度だけ上がる。
次の瞬間、左足が振り抜かれた。
低く鋭いフィードが、右サイドの裏へ一直線に走る。
「走れ!」
桐生が声と同時に加速する。サイドのウイングも呼応して一気に裏へ抜ける。西条南の最終ラインが慌てて下がるが、ボールの方が速い。
右サイドで受けた常盤台のウイングがそのまま中へ切り込む。
左足一閃。
ゴール左隅へ向かったシュートに、スタンドが息を呑んだ。
だが。
西条南のGKが横へ飛ぶ。
指先一本。
白い手袋がボールを弾き出した。
大きなどよめきがスタジアムを揺らす。
「ナイスキー!」
西条南ベンチから歓声が飛ぶ。
若葉はその一連を見ながら、息を呑んでいた。
奪われた。
終わったと思った。
なのに、次の瞬間にはこっちの決定機になっている。
(天根センパイ……)
やっぱりすごい。
そう思わずにはいられない。
あの局面で戻って奪い切るだけでもすごいのに。その上で、奪った瞬間にはもう前線への最適解まで見えている。
視野。
判断。
実行速度。
全部が一段違う。
けれど、その感情のすぐ下に、別の熱もあった。
(……でも)
胸の奥で、静かに何かが燻る。
(俺だって)
ただ見ているだけじゃ終われない。
試合はまだ前半だ。
ここで常盤台の流れを作り直さなければいけない。
再開後、西条南の圧はさらに強くなった。
「やっぱり天根に入れさせるな!」
相手ベンチから飛ぶ声。
「そいつが触ると一気に変わる!」
ピッチ上の認識も完全に揃っていた。
蓮の周囲には常に一枚。
その手前のレーンにはもう一枚。
若葉が受けた時点で、蓮への斜めのラインはすでに消えている。
若葉は中盤の底でボールを受け、半身で首を振る。
ない。
やはり見えない。
蓮はいる。
桐生も動いている。
サイドも走っている。
それでも線が通らない。
(また戻す……?)
脳裏に、さっきの奪われた場面が一瞬だけよぎる。
だが、すぐに別の感情がそれを押し流した。
(違う)
また後ろで回しても、このままじゃ押し込まれるだけだ。
自分で局面を変えなければ。
若葉は右足で一つ前へ運んだ。
相手ボランチが寄せてくる。
それでも止めない。
もう一つ持ち出し、角度を変えて中央へ切り込む。
「若葉!」
蓮の声が飛ぶ。
だが、その時にはもう遅かった。
西条南のボランチが身体を寄せながら、蓮へのコースを切ったまま足を伸ばす。
ボールだけを、正確に奪い取られた。
「……っ!」
若葉の身体が止まる。
その瞬間、西条南の前線が一気に走り出した。
今度は、蓮が戻るより早い。
中央を裂く縦パス。
右サイドからの折り返し。
ゴール前へ飛び込んだFWが、迷いなく右足を振り抜く。
ネットが揺れた。
一拍遅れて、西条南の応援席が爆発する。
0―1。
前半二十八分。
スタジアムの熱が、一気に相手側へ傾いた。
若葉の呼吸が浅くなる。
自分の判断だった。
自分で変えようとして、失点した。
センターサークルへ戻る足が、いつもより重い。
再開後、再び若葉へボールが入る。
今度こそ落ち着いて。
そう思った瞬間、さっきの場面が脳裏に蘇る。
切り込んだ瞬間。
奪われた感触。
揺れるネット。
喉が詰まる。
視野が、狭い。
いつも見えているはずの外側が見えない。
奪われる。
また失点する。
その恐怖だけが先に立つ。
「若葉!ここ!」
蓮の声。
だが、そのコースも半歩で消される。
足が止まる。
次の選択肢が出てこない。
「柏原ァ!」
今度は桐生の声だった。
「いいから俺に出せ!」
切り裂くような声が、若葉の思考を強制的に切る。
反射で右足を振り抜く。
桐生の足元へ。
桐生は背負いながら強引に収め、そのまま落とす。右サイドが拾い、クロス。
再び桐生が飛び込み、頭で合わせるも、わずかに外れる。
ゴール右へ逸れたボールに、スタンドから大きなため息が漏れた。
そのまま前半終了の笛が鳴る。
ロッカールームへ戻る足取りは重かった。
誰もすぐには口を開かない。
汗の滴る音と、ボトルの蓋を開ける音だけが響く。
若葉は俯いたまま、拳を握っていた。
悔しさとも違う。
情けなさとも違う。
もっと、重い感情だった。
「……俺が」
ぽつりと漏れた声に、空気がわずかに止まる。
「俺が、天根センパイの代わりができれば」
誰もすぐには言葉を返さない。
若葉は視線を落としたまま続ける。
「天根センパイなら、あの局面でも前に出せたはずなんすよ」
蓮は何も言わなかった。
ただ、その言葉だけが静かに胸の奥へ落ちていく。
――代わり。
その一言が、ハーフタイムの静かな空気の中で、確かに残り続けていた。
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