プロローグ ドイツ帰りの天才
冷たい冬の風が、シュトゥットガルトのスタジアムを吹き抜ける。
灰色の雲が低く垂れ込み、観客席にはまだちらほらと人影が見えるだけだ。
だが、ピッチ上の少年たちは寒さなど意に介さず、全身で試合に集中していた。
その中でひときわ異彩を放つ存在がいた。
黒髪の少年――天根蓮。
彼が味方からボールを受けた瞬間、前線の選手たちが我先にゴール前へと走り込む。
「Ren, benutze die Seite!(蓮、サイドを使え!)」
チームメイトの声が飛ぶ。
蓮は顔を上げるまでもなく、右サイドの位置を把握していた。
同時に、相手ディフェンダーの動きも視野の隅で捉える。
センターバックがわずかに前へ出る。
それに引きずられるようにサイドバックも内側へ絞る。
その瞬間、右サイドが開いた。
蓮は右足でボールを軽く押し出し、体の向きを変えて左足を振り抜く。
「Okay, los geht's.(よし、いくぞ)」
ボールは低い弾道で右サイドへ流れる。
走り込んだウイングがそれを受け、ワンタッチで前へ運ぶ。
相手ディフェンスが一斉にそちらへ引き寄せられた。
その次の動きを、蓮はすでに予測していた。
彼の頭の中では、十秒先の展開まで計算されたプレーが瞬時に組み立てられている。
守備の隙間、味方の到達地点、ゴールまでの最短ライン。
すべてが、一つの答えへと収束する。
蓮の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
右ウイングがディフェンスを引きつけ、中央へ折り返す。
蓮は走り込みながら、そのボールを受けた。
同時に、相手センターバックが体を寄せてくる。
だが蓮は焦らない。
ボールを受ける前から、次のプレーは決まっている。
センターバックとサイドバックの間――
わずかに開いた、三十センチほどの隙間。
そこへ、味方フォワードが走り込んでいた。
「Entscheide.(ほら、決めろよ)」
蓮の左足が、迷いなくボールを押し出す。
スルーパスはディフェンスラインを裂き、
味方の走り込む未来へと正確に届いた――。
「Wie immer war es genau richtig!
(相変わらずドンピシャだったな!)」
試合後、息を切らしながらも笑顔でチームメイトが話しかけてくる。
蓮はタオルで汗を拭きながら、軽く肩をすくめた。
「Danke.Das war eine tolle Möglichkeit, dem Alltag zu entfliehen.(そっちこそ。絶妙な抜け出しだったよ)」
そんな会話をしていると、コーチが近づいてきた。
「Dein Spiel heute war perfekt.
Aber ist das wirklich in Ordnung?」(蓮、今日のプレーも完璧だったな。......だが、本当にいいのか?)
コーチは怪訝そうな顔で続ける。
「Du wärst dem Profidasein näher, wenn du in der Jugendmannschaft weiterspielen würdest.
Willst du wirklich nach Japan gehen…und dann auch noch zu einem Verein?」(このままユースで続けたほうがプロには近い。それなのに本当に日本に、それも部活動に行くのか?)
蓮は空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、かすかに光が差し込んでいる。
日本に戻る。
それは後退ではない。
ドイツで学んだ技術や戦術理解だけでは、まだ足りない。
プロになるためには、ピッチの外でも自分を律する強さが必要だ。
蓮はコーチに向き直る。
「Ja.(はい)
Es ist notwendig, um ein Profi zu werden.(プロになるために必要なことですから)」
コーチはしばらく蓮を見つめ、やがて小さくうなずいた。
蓮の世界は、まだ広がり続けている。
ボールを扱う技術。
戦術理解。
味方との呼吸。
そしてこれから身につけるべきものも、きっとある。
蓮はゆっくりとピッチを歩き、ロッカールームへ向かった。
見上げる空はまだ曇天だ。
だが胸の奥には、一筋の光が差し込んでいる。
その光は――
日本の高校サッカーという、新たな舞台へ続いていた。
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