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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

満ち満ちて

作者: 葦名 伊織
掲載日:2025/12/23

「これは、いったい何?」

 室内が異様な臭いに満ち満ちている。雨の日の黒い土の匂いと、腐った海水が混ざったような悪臭だ。

 此処は国立阿智大学附属法医学研究所の解剖室。強烈なLED照明によって漂白された室内の中央、冷たく光るスチール製の解剖台の上に、名状しがたい物体が安置されている。

「アナタは見たことある? ミシュマエル」

「ねぇいつになったらミッチーって呼んでくれるの?」

 獣医学部准教授で、私の友人でもあるミシュマエル・サミッチャーが、解剖台の向こうで目尻を下げて残念そうに言った。三十七にもなる私に、友人を愛称で呼べというのか。アメリカ合衆国ミシガン州生まれだという彼女の根底に根付いた文化と、この国の文化のギャップを私は未だに掴みきれていない。

「私はそういうタイプじゃないの。で、見たことあるの?」

「残念。ま、アナタもミチだから名前を呼ぶ時にややこしくなるだけか」そう言って彼女は欧米人らしく大袈裟に肩を竦めた後、解剖台の上に目を落とす。その一瞬で、彼女の青い目は研究者然とした怜悧な光を放っていた。

「こんな形状の生物は私も見たことがないかな。腐敗や自然条件などによって大きく変形している可能性も考えられるけど、外観だけでは既知の生物とは結び付けられない。アナタの所見は? ミチ」

 彼女が言うように私の名前もミチだった。

 満道実智まんどう みち、この阿智大学医学部で准教授を務めている。

「アナタと同じ。人間か、それ以外か、現状ではその判別すら難しい」

 今、私たちの目に前に横たわる、人とも動物ともつかない物体。その全身の形を端的に例えるとするならば、漢字の『大』だろう。人間の身体も極端にデフォルメすると『大』になる。五つに枝分かれした線がそれぞれ頭、右腕、左腕、右脚、左脚だ。形が似ているという利点を利用しない手はない。私たちは便宜的にこの物体のそれぞれの部位を、人間の身体になぞらえて呼称することにした。

 まず、直径約十五センチ、長さ一メートル程度の太い円柱状の器官がある。これは人間で例えると頭から胴体に当たり、全長に亘って同一の太さである。首のような括れた部位はない。頭部は、先が丸まった円錐形。胴体には斜めに巻き付くような太い窪みが二筋見られる。

 その太い円柱から、直径十センチ程度の細い円柱が四本枝分かれして『大』の字を形作っている。この四本も先端は丸まっているが、腕と脚では形状に違いが見られる。腕は真っすぐに伸びていて、肘に相当するような関節も見られない。脚は奇怪なことに両方が螺旋状に捻れており、バネのような形をしていた。全長はニメートル超になるだろう。

 表皮は褐色で、乾燥しているが弾力がある。全身を環状の凹凸に覆われているが、これが体節なのか皺なのか、今のところは判別が難しい。顔や手指などに相当するような体表面上の器官は一切存在しない。この物体が、少なくとも生物であると判断出来る要素は、右上腕の付け根にある抉られた傷のみであり、その傷口からは筋肉などの軟組織が露出している。傷は深いが骨に相当するような器官は見られない。

「だから私を呼んだってワケね。人体用の解剖室に来て、なんて最初は人間違いしているのかと思った」ミシュマエルは白衣のポケットに手を突っ込みながらそれを眺めている。

「県警からの依頼でね。私は変形した動物の死骸だと思ったから獣医学部に持っていくように言ったんだけど、彼らはコレが人間である可能性を捨てきれないみたい」

「ヒドい、獣医学部に押し付けようとしてたわけ?」

「だって、こんな……」

 自然と、二人の視線が解剖台の上に注がれる。一瞬の静寂、それが私たちの困惑を雄弁に表していた。

『渇水警報が発令されています。節水にご協力を……』

 解剖室の静寂の上を、ダクトか何かを伝って漏れ聞こえた渇水警報が通り過ぎていった。今年は雨も少なく、ダムや川が干上がっているらしい。■■山麓の湧水も出が悪いらしく。こちらは雨の問題とは別に、地下水の汲み上げ過ぎが原因では、という意見も出ている。

 今年の夏は酷なほどに暑く、未だに残暑は厳しいが、この解剖室は常にひんやりとした冷たい空気が漂っていた。

「発見されたのは?」

満引洞みちびきどうっていう洞窟は知ってる? その入口で発見されたみたい。発見者は山菜採りをしていた男性だって」

 満引洞とは■■山麓にある巨大洞窟である。樹林帯の中、■■山北東の切り立った岩壁に空いた大穴だ。地元住民の信仰の対象であり、そして、禁足地でもある。洞窟は緩やかに地下深くへと続いており、その導く果てにあるのが広大な地底湖『落縁口おちぶちぐち』を擁する巨大な■■山地下大空洞。禁足地故に調査もされておらず、未だに誰一人としてその全容を知る者はいないという。謎は憶測を呼び、『■■山地下大空洞人工物説』という都市伝説まで生み出された。

「満引洞…」ミシュマエルの表情と声色に一瞬、陰りが見えた。

「どうしたの? 満引洞、知らなかった?」

「ううん、知ってるよ。ここに住んでいるんだからそこまで無知じゃない。入口が注連縄で何重にも封じられている洞窟だよね。この遺体はいつ見つかったの?」

 搾り出したかのような問いは、明るくしようと努めた声のように聞こえた。

「今朝八時過ぎ。発見者が『人の死体だ』って騒いだから警察の動きも早くて、すぐに回収されて昼前には此処に運び込まれたの。発見から三時間三十七分」

「うーん、人間の死体に見えなくはない、かな?」

 小首を傾げて困った様に笑う彼女の姿はどこか芝居めいたものがあった。自分が一瞬表情を曇らせたという事実から私を遠ざけ、自分も遠ざかろうしているように。尋ねるのはやめてくれ、という無言の意思表示。彼女が言いたくないのであれば、無理に聞こうとは思わない。私は取り敢えず、彼女への懸念を頭から締め出した。

「まぁ、解剖してみないことには何とも言えないかな。準備しましょう」

 私たちはロッカーへ移動して、解剖衣である緑色の滅菌ガウンとパンツに着替え、ポリエチレン製のエプロンを付ける。キャップ、保護メガネ、シールド、サージカルマスクなどの頭部の装備を付けたところで、脳裏にあの物体の姿が過ぎる。この漠然とした不安はなんだろう。準備が終わり、電話をしているらしいミシュマエルに「先に行くね」と伝えて私は手袋を手にロッカー室を出た。


「では、十三時三十七分、解剖を開始します」

 解剖台に備え付けられた無影灯と記録用のカメラを起動する。それの乾いた表皮は陰影が鮮明になっただけで、鈍く照り返すことすらしない。

「頭頂部に開口部あり。ミチ見て、牙がある。多分ここが口腔ね」

 ミシュマエルが両手で頭頂部を押し下げるように抑えている。それの口は巾着のように筋肉で開閉するらしく、弛緩しきった円形の、粘液に濡れた穴がポッカリと開いている。内部には三本の鋭い牙が隠れていた。

「この歯を見る限り摂食による栄養補給じゃなさそう。おそらく吸血性生物? ほら、口唇も吸盤状に見える」

「早々に結果が分かっちゃったけど、これは人間じゃないね。やっぱり獣医学部に運ばせれば良かった」

「まだ言ってる。でも、人間じゃないとすれば、これは一体なんなの? 口は蛭やヤツメウナギに似ているようだけど、こんな形状も、こんなサイズの個体も見たことがない」

 ミシュマエルの声には、好奇心と、一抹の不安のような響きがあった。確かに、人間ではないと思ってはいたものの、いざその確証を目の前に突きつけられると、少し動揺している自分がいる。

「完全な仮説でいいけど、アナタの考えを聞かせて頂戴」ミシュマエルにちらと視線を送る。彼女はそれを受け止めて眉に深い皺を刻んだ。

「そう……そうねぇ。うーん、まだメスも入れてないけど、蛭の一種なんじゃないかな。もしくは突然変異で異常成長した個体か」

「蛭説ね。人間大の蛭、人蛭ひとひるね」

「なにそれ安直すぎない?」ぷっとミシュマエルが吹き出した。

「取り敢えずの呼称よ。名称なしじゃあ不便でしょ。アナタが決めてもいいんだよ?」

「いいえ。良いと思うよ。人蛭ヒューマンリーチ

 まだクスクスと笑っているミシュマエルを無視して私はメスを手にする。

「頭部と仮定する部位から、二十センチ下をI字切開で開くよ?」

「了解」

 私が指定した部位にメスを当てると彼女もすぐに研究者モードに切り替わる。

 人蛭の皮膚は柔らかく、メスの薄い切先は容易くそれを断ち切った。人間の皮膚を切り開いていく感触とほとんど違いはない。下腹の辺りまで切開して、両側の皮膚を開創器で固定する。

「これは……」

 私もミシュマエルも一瞬、言葉を失った。

「ねぇミチ。専門外だから一応聞くけど、この構造って人間にそっくりだよね?」

 その通りだった。この生物には骨格が存在しない。つまり無脊椎動物である。しかし、大きく開いた開創部から覗いているのは人間とまるで変わらない体内構造だった。筋肉、膜構造、血管、神経の巡り、臓器配置まで人間と酷似している。

「そうね。これは人間に酷似している。哺乳類の体内構造だね」解明しようとする度に、その真相から遠ざかっているような気がした。いや、霧が晴れたことで、私たちの途方もない旅路が眼前に示された、と言ったほうが正しいだろう。

「ミチ、ここを見て」ミシュマエルが開創部の上端を指さす。

「この器官はなんだろう? もう少し上まで切り開いてくれる?」

 彼女が指さす部分には、人体の頭部には無い袋状の器官が顔を出していた。私は指示通り、頭部の方向へとさらに二十センチ切り開く。

「これは、雄の生殖器?」

 口腔の下には精巣と思しき袋状の器官と、陰茎のような突起を持つ器官が収められていた。

「いいえ、雌生殖口と卵巣もある。この生物は雌雄同体だわ。人間と蛭の特徴をどちらも持ち合わせている。アナタの人蛭という呼称はあながち間違いでもなかった。ちょっと生殖口の付近の粘液を洗い流すね」ミシュマエルが純水のホースを伸ばし、ガンタイプノズルの筒先を生殖口に近づけて純水を噴射した。

 途端、人蛭の頭部が跳ね上がった。

 私たちは反射的に跳ぶように後ろへ退避する。ミシュマエルが投げ出したホースが解剖台の上に落ちる。ハンドルが押し込まれてロックされたのだろう、大量の純水が解剖台の上に散布された。

 人蛭の全身が痙攣し、蠕動を始める。

 解剖台を激しく叩いて揺らすその姿は、身の毛がよだつ様な悍ましさがあった。極限に達した緊張が私の呼吸を止める。

 頭部の口唇は収縮し、開創器は弾き飛ばされて開創部が閉じていく。両腕が身体に巻き付いて胴体の二筋の窪みにピッタリと収まった。バネ状の両足は互いに絡まりあい、二重螺旋状の一束になる。

 そして、人蛭は再び沈黙した。

 ほんの十秒ほどの出来事だった。緊張から解放された肺が荒い呼吸を再開する。体中から汗が吹き出し、顔は火が出そうな程に熱かった。それはミシュマエルも同じ様で、不自然な立ち姿のまま固まっている。

「コイツ、死んでるんだよね?」

 私たちは警戒しながら、ゆっくりと解剖台へ近づく。

「ええ、心臓は止まっていたし、臓器にも腐敗の前兆があったから、死んでるはず」

 一歩、また一歩と近づいていく

「じゃあ今のは何?」

「多分、水に対する筋肉の反応、じゃないかな」

 私は手を伸ばして純水のホースを掴み、放水を止めた。人蛭の身体はまだ微妙に痙攣していたが、もうほとんど動く様子はない。

 私たちは人蛭が動き出す前の位置に戻り、変形したその身体を観察する。腕は胴体と一体化したかのようにピタリと巻き付いている。胴体の開創部は治癒したわけではなく、筋肉の収縮によって閉じただけのようだ。脚は完璧に組み合って、細長い円錐形を築いている。その姿はまるで槍の穂先のようだった。

「大量の水がかかったのに全く濡れてない。皮膚が全て吸収したんだわ」ミシュマエルが人蛭の身体にそっと触れる。それはまだ、僅かに震えていた。

「だとすると、今の反応は筋痙攣かもね。体液中の急激な電解質濃度の低下による反応かも」

「……でも」

 ミシュマエルが言い淀む。その後に続く言葉は簡単に予想出来た。

 そんな生物、いる?

「これは突然変異じゃなくて新種の可能性があるわね。もっと厳密な調査が必要だわ。発見された場所と蛭の生態を考えれば、地下大空洞の落縁口に生息している可能性が高いんじゃないかな」

 するとミシュマエルが大きく息を吐いた。それは溜息とは違う、なにか負の感情を抑え込もうとするような、長く、震えを伴った吐息だった。彼女の顔は目元しか見えないが、ただならぬ緊張がその目に宿っていた。

「ねぇ、解剖を始める前から少し変だと思っていたのだけど大丈夫?」

 彼女は視線を彷徨わせながら弱弱しく答える。それを言ってしまうと悪いことが起きる、そんな忌避的な声だった。

「今、行っているの、満引洞に」

「行ってる? 行っているって、まさか……」

「うん、路彦みちひこさんが満引洞へ調査に行っているの」

 路彦とは彼女の夫である。彼は教授で、阿智大学で民俗学を教えている。奇妙なもので彼の名前もまた『ミチ』だった。この世は『ミチ』に満ち満ちているらしい。

 彼が頻繁にフィールドワークを実施している事は知っている。ミシュマエルが懸念していたのは夫が人蛭と遭遇する事だと思うが、満引洞は禁足地だ。これまで内部の調査が許されたという話は聞いた事がない。

「大丈夫じゃない? だって中には入れないでしょう?」

 ミシュマエルは弱弱しく首を振った。

「今日は■■神社の神事が行われる日なの。重陽の節句と言って、簡単に説明すると陽のパワーが最大になる日。■■神社の神官が、その陽の力を借りて落縁口で儀式をするの」

「その儀式に路彦さんが?」

「そう。彼の粘り強い説得で、よりによって今日初めて帯同を許されたの。他大学の地質学教授と一緒にね」

「でも、今朝の死体発見事件で満引洞の周辺は警察が封鎖しているはず。中に入れていないんじゃない?」

 彼女は強く首を振る。

「神事が始まるのは零時。神社で禊や祈祷をして、日の出と共に洞に入るって言ってた。だから、彼はコレが見つかる前に洞に入っているはず」

 ミシュマエルは発言することで事態を再確認し、より深刻に精神の平衡を失っていくように見えた。おそらく、彼らが満引洞へ入る前は人蛭の死体は無かったのだ。そうなると、彼らは生きた状態の人蛭と遭遇している可能性が高い。この腕の傷は彼らが付けたものかもしれない。そして、この大きさの蛭が、テリトリーに侵入した人間を襲わないとは考えにくい。

「さっきロッカールームで電話してみたけどやっぱりダメ。通じなかった。彼は洞の中にいるわ。こんな生物が大量に潜んでいるかもしれない洞窟に」

「まだ、そうと決まった訳じゃないでしょう」

 ミシュマエルが目に強い光を灯して私を見た。それは、不安や焦燥が転化した怒りの火だった。

「人蛭が一体しかいないと思う? コイツが突然変異だったとしても生殖器を有してるのよ。通常個体を取り込む事で生殖に成功したとしたら、コイツからはどんな個体が生まれる?」

 それは深く考えるまでもないことだったが、私は深く息を吐いてから答えた。

「五十パーセントの確率で、コイツと同じような個体が生まれる」

「そうでしょ? そして蛭は多い時で七十匹近い子孫を残す! それを約二か月のサイクルで繰り返す!」

 ミシュマエルが涙を流し、震えながらに訴える。私は努めて冷静に、彼女の理性的な研究者としての面に訴えかける様に、燃えるような眼を真っすぐに見据えて応える。

「ミシュマエル。とても不安でしょうけれど、最悪のケースだけを選び取って思考するのは良くないわ。この個体が最初の突然変異体という事だって考えられる。今までに一度も同様の個体が発見されていないのよ? この生物が光を嫌うとしても、夜間は洞から外に出られるわ。繁殖しているなら獲物が多い洞の外へ出てくるはずでしょう」

 私の意見を聞いて、彼女の瞳に理知的な平静が戻ろうとしていたが、それは再び青ざめた情動の波に追いやられてしまった。

「ああ、だめ。繋がる、全てが悪い方に繋がってる」

「なに? まだ何か不安なことがあるの?」

 彼女の瞳は怒りの火すら失い、弱弱しく失意に揺れていた。

「渇水。路彦さんが言ってた。神官が話してたんだって。近年、徐々に落縁口の水位が低下しているって。人蛭の水に対しての反応を見たでしょ? アイツらはおそらく淡水の中では動けない。でも、死ぬのかな? 落縁口の底にはアイツらがいっぱい沈んでいるんじゃないのかな。ミチ、知ってる? 最近ね、休眠状態で五百年以上生きた蛭が発見されてるんだよ」

 病んだような目をして、矢継ぎ早に言葉を紡ぐミシュマエルは他者を圧倒する負の力に満ちていた。飛躍し過ぎていると分かってはいても、私は言葉を失った。解剖室には、彼女の深い吐息だけが響いている。彼女にかける言葉を探したが、動揺と焦燥の渦が言葉を混濁させた。その時、何かが鳴動する音がした。スマホのバイブレーション。はっとしたように、ミシュマエルの目に力が戻る。彼女は手袋脱ぎ捨ててガウンの下からスマホを取り出した。

「路彦さん……」

 私は急いで彼女の背後に回ると、ディスプレイには『路彦』の名前が浮かんでいた。その下には『ビデオ通話』の文字が並んでおり、彼女はすぐに『通話』をタップする。


『みっち……ミシュ』

 苦しそうな路彦の声がした。画面は真暗で、周囲がひどく喧しい。何の音なのだろうか。

「路彦さん?」

『アナタ、大丈夫ですか? 怪我をされているんですか?』

『落ち着いて下さい。私たちは警察です』

 路彦の他に二人の男性の声。どうやら警察のようだ。やはり洞の中に入っていたのだ。そしてどうやら、今出てきたらしい。画面が明るくなる。

『どぉおおおけぇえ!』

 路彦の絶叫と共に画面が乱れる。衣擦れ、乱れた足音、荒い呼吸、混迷を極めた映像とノイズが続き、そして、どさりという地面に倒れ伏した音がした。

 呻き声がして、路彦の顔が映し出される。

 飛び出さんばかりに張り出した両目から血涙を流し、焦点の合わない瞳は、辛うじてカメラを捉えていた。鼻から赤黒い血液が止めどなく流れ、口からは真赤なあぶくを吹き出している。そこには以前の理知的な彼はおらず、曖昧な言葉を紡ぐ壊れかけの人間がいた。

 私の隣で息を飲む音がした。

『ミシュ……マ……ふさ、げ……みちびきど……ふさ、げあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』

 耳を塞ぎたくなるような絶叫だった。

 画面が大きく乱れる。スマホが投げ出され、地面に落ちたようだ。遠い方から、複数の人間の怒声と、泣き叫ぶような声が響いている。路彦の叫び声は喉が引き裂けたような罅割れた非人間的な音に変わった。画面の向こうは、阿鼻叫喚地獄に繋がっているのだ。きっと、そうなのだ。


 地面に落ちながらもスマホは通話を継続している。傾いた画面の奥で、ボヤケてはいるものの、カメラは路彦と思しき人間の姿を捉えていた。

 彼の身体がくの字に曲がる。顔から二つの白い玉が飛び出して、あとを追うように赤黒い液体が噴出した。鼻と口からも同様の吐瀉物をまき散らし、止めどない赤い嘔吐は彼を溺れさせ、叫び声すら奪ってしまった。苦痛による緊張か、諦めによる弛緩か、彼は固まったように動きを止め、赤い吐瀉物だけが悍ましき滝のように流れている。臍や下半身からもぼたぼたと赤黒いものが漏れ出して全身が真赤に染まった頃、壮絶な嘔吐は終わりを告げ、彼は力尽きた様に地面に倒れた。

「路彦さん?」

 ミシュマエルの絞り出したような声が解剖室の中で反響することなく消えた。

 画面の奥から何かが近づいてくる。カメラの焦点が近地点になっているようで、それが近づくにつれて、徐々に姿形が鮮明になっていく。地を這うようにしてカメラの前に到達し、身体をくねらせて立ち上がったそれは、赤い液体に濡れた小さな人蛭だった。


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 ミシュマエルと実智をバネ足ジャックを連想させる足や突如の跳ね、人と蛭をあわせたような構造で驚かせ、惑わせる人蛭。  ミシュマエルの旦那さんのスマホ越しでの凄絶な散り際や、満引洞をふさぐように切実か…
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