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かつて世界を滅ぼしかけた俺が、今は制服着てるって本当ですか?

 その瞬間、俺は確かに死んだ。

 ――勇者の刃が心臓を貫いたのだから、疑いようはない。


 なのに。


 気づけば、俺は机に突っ伏していた。


「……ふぁ……え?」


 口から漏れる声はやけに軽く、鼻先をくすぐる紙の感触と、遠くから響く音が耳を打つ。


 魔法の効果か? いや、そんな高等術式は我が軍には存在しなかったはず。敵側の仕業か? 精神遷移呪エゴ・トランスファー……?


 そして俺は顔を上げた。


 ――見知らぬ空間。

 正面には黒板。左右に並ぶ机。腰に鈍痛、背中に奇妙な“服”。窓の外には……人工建築の山々。


(……ここは、どこだ)


 自問した瞬間、脳裏に流れ込んでくる記憶。いや、記憶の“形をした何か”。


 大和翔やまとしょう。十七歳。日本国・神道高校二年C組。偏差値ふつう、運動神経ふつう、存在感も薄め。


(俺は……こいつか?)


 ディアヴェルト=シュタール。

 かつて世界を滅ぼしかけた、漆黒の魔王。


 ――だったものが、いまこの教室で、シャーペンを持たされていた。


「な、なんか寝ぐせすごいよ、大和くん……?」


 斜め前の女子が不安げに声をかけてきた。


「寝ぐせ……?」


 俺は反射的に肩に手を伸ばす。そこにあったのは、ふわふわと跳ねた黒髪。……なんとみすぼらしい造形か。


「我が力が……封じられている?」


「え?」


「魔力の循環も、気脈の流れも……完全に絶たれて……。むう」


「え、ええと……先生呼ぼっか?」


「待て。貴様は“この空間”の番人か? それとも祭司か?」


「いや……神崎ですけど……普通の高校生ですけど……?」


 彼女――神崎ミユリというらしい――は、明らかに困っていた。俺が魔王だった頃も、よく部下を困らせていたので覚えがある。


「大和、今日どうしたの?」


 今度は後ろの席の男子。俗にいう“チャラい”髪型らしいが、妙に礼儀正しい。


「……貴様、なぜ我が名を……いや、今は“大和翔”か。そう名乗らねば怪しまれる、ということか……ふむ」


「……マジで大丈夫かお前?」


(面倒だが、どうやらこの姿、この人格として演じねばならぬようだ)


 俺は目を閉じ、深く息を吸った。かつて、部下に“笑顔”を見せろと強要されたときの技術を思い出し――


「……ハハッ。冗談だよ。寝ぼけてただけ」


 ――言葉にしてみたが、たぶん顔が笑っていない。


「お、おう……」


「……気持ち切り替えていこっか!」


 神崎は苦笑しながらも、そっと教科書を俺の机に寄せてくれた。


 ――こうして、世界を恐怖に陥れた魔王は、

 “高校生・大和翔”として、第二の人生を始めた。


 どうやらこの世界は、「魔法」や「魔族」など存在しないようだった。


 授業では“英語”や“数学”という名の呪文が黒板に記され、教師と呼ばれる者たちは魔力ひとつ持たぬのに、生徒たちを静かに従わせている。


(この空間、妙に統率が取れている……結界でも張られているのか?)


 違った。これは“ルール”という名の社会契約で成立しているらしい。


(恐るべき洗脳技術……現代社会、おそるべし)


 さらに驚いたのは“スマートフォン”なる物体である。掌に収まる小さな板で、あらゆる情報が呼び出せる。


 魔導書の簡略版かと思ったが、通信も映像も音楽も自在。まるで小型の魔神のようだ。


「でね、このアプリ使うと、明日の時間割も一発で出るんだよ」


 昼休み、神崎ミユリが何やら楽しげに語っていた。


 彼女の弁当箱の中には、白く光る三角の食物。名を“おにぎり”というらしい。


「これは……何かの封印石か?」


「ええと、コンビニの……焼きたらこ味?」


 俺は慎重に、指先でそれを持ち上げた。


 ――魔力反応、ゼロ。危険性、なし。


 がぶ、とかじる。


「……っ!」


 口の中に、塩気と旨味が広がった。


(な、なんだこれは……異世界の貴族料理を超えている……!)


「おいしい?」


「……神の供物か?」


「いや、ただのごはん」


 神崎は吹き出しそうになりながらも、にこっと笑った。


(この者……敵ではなさそうだ)


 俺の世界では、笑顔の裏には必ず陰謀があった。だが彼女のそれは、どこまでも自然で、あたたかい。


「大和くんさ、ほんとは演技してるんでしょ?」


「何?」


「“魔王だった”とか、“世界が二つある”とか。全部、寝ぼけて言ってた設定ってことにして、いま演じてるんだよね?」


「…………」


 バレている? いや、仮に“魔王”の正体を話しても信じまい。それどころか病院送りだ。


「……ああ、そうだ。演技だ」


「ふふ。そう思ってた。……でも、ちょっとだけ本当に見えたよ」


 言いながら、神崎は“おにぎり”の残りを差し出してきた。


「一個あげる。魔王様、気に入ったみたいだから」


「……もらおう」


 俺はそれを受け取った。


 こんなに素直に“好意”を向けられるのは、いつぶりだろう。いや――もしかすると、初めてかもしれない。


 午後の授業。眠気と戦いながら、俺はふと思った。


 かつて、俺はすべてを破壊し、支配した。

 だが今は、机に向かい、ノートを取り、飯を食い、笑う。


(……案外、悪くないかもしれんな。この人生)


 チャイムが鳴り、授業が終わる。


「じゃ、大和くん。また明日ね」


 神崎が手を振り、教室を出ていく。


 俺はその背中を見送りながら、ひとつだけ確信していた。


(これは……征服ではない。だが、違う形の“戦い”だ)


 ――魔王ディアヴェルト、第二の人生、開幕である。


 高校生活、二日目。


 世界を滅ぼしかけた魔王ディアヴェルトこと大和翔は、今――ジャージ姿で校庭に立っていた。


「じゃー今日の体育はバレーボールなー! 男子はAコート、女子はBコートに分かれて!」


(バレー……ボール?)


 教師が叫んだその言葉の意味を理解できたのは、隣にいた神崎ミユリのささやきによる。


「球技だよ。ボールを床に落とさないようにするスポーツ」


 なるほど。球を使う攻防戦。ルールは単純だが、空間制圧と連携を要する戦術競技か――。


(よし、全力で臨もう)


 そう決めた俺は、全身に“気”を巡らせ……かけた。


(あっ)


 気が、出ない。


 魔力も、技力も、戦闘補助演算も……この体には一切備わっていない。


 完全な“凡体”。


(このままでは、ただの肉塊だ……!)


「おい大和、レシーブな!」


「む?」


 振り向いた瞬間、鋭い回転をかけられたボールが、俺の顔面に突撃してきた。


 咄嗟に手を出し、魔術反応式の結界を……展開しようとしたその時。


 ――ボフッ!


「ぐぬっ……!」


 ボールが額を直撃し、俺は見事に後ろへ吹っ飛んだ。


「うわ、ごめん! マジ当たった!?」


「だ、大和くん!? だいじょ……」


「……問答無用で叩き込むとは。なるほど、ここが戦場というわけか……」


 俺は地面から起き上がり、ボールをじっと見つめた。


 小さな魔核の代替品にも見えるその構造物。中に何らかの精霊が……いない。単なる合成素材か。


(だが、こいつが俺を叩き落としたことに変わりはない)


「次は、返すぞ」


 俺は静かに、手を構えた。


「大和、それサーブ!」


「よし、撃つ!」


 我流・魔王式対空撃破術――“地獄の斜雷ヘルスラスト”!


 と、心の中で叫びながら放ったサーブは――


 ――ネットに直撃して跳ね返った。


「……うわーおしい。っていうか、めっちゃフォームだけカッコよくない?」


「中二感すごかった……」


 周囲のざわつきと、呆れる神崎の視線。


「……この世界のボールは、思いのほか手強い」


「うん、まぁ……うん。がんばろ?」


 神崎が苦笑しながらタオルを差し出してくれた。


 ――異世界の覇王、現代体育に完敗す。


 体育のあと、俺は担任に保健室送りを命じられた。


「いや、大和くん……なんか今日も様子おかしかったし……一回、休んでこ?」


 神崎ミユリが付き添いに名乗り出てくれたため、俺はしぶしぶ(※表情は無)従った。


(敗北の後の静養……かつてもあったな、こういうこと)


 だが、あのときは地獄の沼で魔物の血を浴びながらだった。今回はふわふわのベッドと冷たいタオルがある。


(この世界の“療養”は……優しい)


 保健室はひんやりと静まり返っていた。窓から差す光がやわらかく、どこか眠気を誘う。


「はい、氷まくら。あと、おでこに冷えピタ」


「これは……氷結系の治癒術か?」


「いや、ただの冷却シート。……ほんとに、記憶とか吹っ飛んでない?」


「記憶は明瞭だ。ただ、世界観が合っていないだけだ」


「……言ってる意味がちょっとだけ分かった気がするよ」


 神崎は椅子に腰を下ろし、窓の外を見た。


 しばらく沈黙が流れる。


「ねえ、大和くん。冗談でもいいからさ――“本当のこと”って、ある?」


「何?」


「たとえば、“自分は魔王だった”って言われても、普通は笑うじゃん。でも……なんでだろうね、今日のあなたを見てると、そうかもって思えるの」


「……君も、何か見えているのか?」


 俺が問いかけると、神崎はゆっくりと頷いた。


「昔ね、火事に巻き込まれたことがあるの。助けてくれた人がいた。“見えない刃で炎を裂いた人”……そんなの、現実にはありえないって、ずっと思ってた。でも……」


 彼女はスマホを手に取り、スッと画面を向けた。


 そこには、幼い神崎と並んで写る、白黒の写真。もうひとり、顔のぼやけた青年が写っている。


「この人、どこか……大和くんに似てる気がするんだ」


「……我が分体、か?」


「ぶんたい?」


「いや、独り言だ」


 写真からは、微かに“霊気”のようなものが漂っていた。魔族の記憶とは違うが……何か、力の“名残”がある。


「君もまた、この世界の“歪み”に触れた者かもしれんな」


「歪み、って?」


「わからぬ。だが、俺が目覚めてから、微かに感じている。“何か”が、起こりつつある」


 そのとき、保健室の奥に置かれた鏡が、わずかに震えた。


 わずかに、ほんのわずかに――その鏡に、別の“影”が映った気がした。


「……っ」


「な、なに?」


「いや……気のせい、かもしれん」


 魔力感知は働かない。だが、感覚が騒いでいる。


 ――この世界は、完璧ではない。

 どこかで、歪みが“漏れ始めて”いる。


 それは、かつて世界を滅ぼしかけた俺が、誰よりもよく知っている“兆し”だった。

 窓の外の“ひび割れ”が消えても、違和感は消えなかった。


 空気がわずかに、ざらついている。


(間違いない。これは、魔力反応に近い……いや、“残滓”だ)


 俺は雑巾を絞りながら、その場にしゃがみこむ。


「……このあたり。魔力が、にじんでいる」


「え? なにそれ、ほこりじゃなくて?」


「いや。感覚の話だ。ここだけ、空間がほんの少し、緩んでいる。結界の縫い目のような……そんな感じだ」


「……また中二っぽいこと言ってる」


 神崎は冗談めかして笑ったが、その笑顔がほんの一瞬、硬くなったように見えた。


「神崎。君も、見えているのではないか? 歪みの“兆し”を」


「……っ」


 そのとき、教室のドアが――ギィ、と軋んで開いた。


 誰もいない。


 でも、確かに“気配”はあった。風の流れでも、ドアの反動でもない。何かが、入ってきた。


「下がれ、神崎」


 俺は、床に捨てられていたモップを手に取った。


(魔剣ではない。だが、柄の部分の重さとバランスは……使える)


 空気の中に混ざる“濁った”気配。小さく、ひしゃげた影が、黒板の隅に揺れている。


(これは……低級魔喰虫スモーグレイヴ? いや、似ているが、もっと不安定だ)


 それは、形を持たぬまま、じわじわとこちらに滲み寄ってくる。


 神崎が震える声で言った。


「それ……見えてるの、大和くんだけじゃないよ。私にも、見えてる」


 彼女の瞳には、確かな“力”の揺らぎがあった。


(やはりこの女……何かを“封じて”いる)


「君は、下がっていろ。これは俺が処理する」


「……勝てるの?」


「勝つのではない。“掃除”するのだろう?」


 俺はモップを構え、黒い影に踏み込む。


 瞬間、影が反応し、蛇のように天井へと逃げる。が、その軌道は読めていた。


「喰らえ――“無銘・清掃撃”!」


 モップの柄が振り抜かれ、空間を斬る。

 ただの棒だ。だが“意志”が込められた動きは、確かに魔を裂いた。


 パシィッ――という音とともに、影が爆ぜ、空気が軽くなる。


 直後、部屋に“静寂”が戻った。


「……終わったか」


「いまの……なに?」


「“掃除”だろう?」


 そう答えた俺に、神崎は呆れ、そして笑った。


「ほんと、あんた何者なの……」


「かつて世界を滅ぼしかけた、魔王だ」


「もうちょっとマイルドな自己紹介ない?」


「では……現・掃除当番、とでもしておこうか」


「……それはそれで厄介そうだなぁ」


 夕暮れの光が教室に差し込む。


 静けさが戻った空間に、わずかに残る魔の痕跡。だが確かに、それは拭われていた。


(この世界にも、“闇”が広がっている。そして、それに気づいている者も……いる)


 ――俺の第二の人生は、平穏では済まなさそうだ。



 放課後、俺は“任務”を与えられた。


「今日の掃除当番、大和くんと……えっと、神崎さんね。よろしくー」


 任務の名は――“掃除”。


(この“教室”と呼ばれる場を浄化せよ、ということか)


 戦火に焼かれた大陸を魔炎で清めた過去はあるが、木製の床を雑巾で拭くのは初めてだ。


「大和くん、バケツに水汲んでくれる?」


「承知した。魔水の生成には――」


「いや、蛇口で。水道使って」


「……なんと?」


 こうして、俺は蛇口を“魔道具ではないただの金属管”だと理解した。


(この世界、魔力の代わりに……水圧を使うのか……?)


 まったく恐ろしい。物理的な圧で全てを制圧するなど、蛮族の所業である。


 バケツに水を溜め、雑巾を絞る。布を濡らして、床をこする。


「ふむ……意外と、楽しいな」


「えっ?」


「この作業。単純だが、己の力で空間を変える。これは“征服”に通じる行為だ」


「うーん、例えが物騒すぎるよね」


 神崎ミユリは慣れた手つきで窓を開け、日差しを取り込む。


「けど、ちょっと分かるかも。“汚れてた場所が綺麗になる”って、気持ちいいもんね」


「君も、征服者の素質がある」


「いや、ないない」


 二人で教室を拭きながら、ふと、俺は聞いてみた。


「神崎。君は、なぜ俺と関わる?」


「え?」


「俺は、どう考えても“浮いている”。このクラスの“輪”の外側だ。それを理解していながら、なぜ隣に立ち続ける?」


 神崎は少し黙ってから、笑った。


「たぶんね、大和くんが――“本当のこと”を隠してないから、かな」


「……何?」


「普通の人って、嘘ついて合わせようとするの。無理に笑ったり、わかったふりしたり。でも大和くんは、それをしないでしょ? それが逆に、安心する」


「……理解不能だな」


「うん。私もちょっと変わってるって言われるから、おあいこ」


 そのときだった。


 ふと、窓の外――夕焼けに染まる空に、一筋の黒いひび割れのようなものが見えた。


(……裂け目?)


 目を凝らすと、それはすぐに消えた。


 だが確かに、そこには“世界の裏側”のようなものが、ちらりと覗いていた。


(歪みが進行している……)


 掃除当番の、穏やかなひととき。

 その裏で、世界は静かに“何か”を孕み始めていた。


 翌日の放課後。


 俺は、ひとりで校舎裏に立っていた。


 夕日が赤く差し込む中、吹き溜まる風が――妙にざらついている。


(やはり、昨日の“影”で終わりではなかったか)


 目に見えないが、感じる。わずかに空間が“裂けて”いる。まるで、この世界に無理やり異物を押し込んだような、そんな感覚。


 そしてその異物は、俺にとって“懐かしい”においがした。


(あれは、魔界の“淵”のにおいだ)


 地獄の門――奈落より這い出る瘴気に似た気配が、この世界の隙間から染み出している。


 しゃがみこみ、地面に手をかざす。


(反応は微弱。だが確実に――“穴”が開きかけている)


 そこへ、足音。


「やっぱり、いた」


 振り返ると、神崎ミユリが立っていた。制服の裾が風になびいている。


「また来たのか。何か用か?」


「ないけど、気になって。……また昨日みたいな“何か”があると思ってたから」


 神崎は、俺の隣に並んで腰を下ろす。


 俺たちは並んで、空気のひび割れを見つめた。


 神崎は、そっと問いかける。


「ねえ、大和くん……今の生活、どう? 楽しい?」


「……難しいな。“楽しい”という概念は、俺の世界にはなかった。あるのは勝利か敗北か、征服か死か……」


「でも今は?」


「……悪くない」


 その一言が、胸の中でふわりと浮かび上がる。あたたかくて、くすぐったい感情。


「そう。……よかった」


 神崎は安心したように微笑んだ。


 その笑顔が、何かを“守りたい”という気持ちに変わっていくのを、自分で感じた。


(戦う理由が変わる――それが、人間としての“変化”かもしれんな)


 だから俺は、そっと呟いた。


「この世界を守るためなら……少しばかり、魔王だった誇りを使ってやってもいい」


「……それ、ヒーローっぽいよ」


「やめろ。俺は悪の権化だった」


「ふふ、今は“掃除当番”だもんね」


 そんなふうに笑い合っている、たったそれだけの時間が――妙に心地よかった。


 その夜、俺は夢を見た。


 深い、深い闇の中。

 かつての世界――血と魔力にまみれた、終末の風景。


 黒き竜が空を覆い、幾億の兵が絶叫しながら魔王城へと押し寄せていた。


 だが、俺はそれを冷めた目で見下ろしていた。

 恐怖も、怒りもない。ただ、すべてが“無意味”だったからだ。


 ――その俺が、今は“机”に向かい、“雑巾”を握り、“焼きたらこ”に舌鼓を打っている。


 滑稽だ。だが……悪くない。


(だがこの世界も、静かに崩れ始めている)


 翌朝。


 通学路の途中、街角の自販機に妙な“焦げ跡”が残っていた。


 路地裏ではカラスが集まり、地面をつついていたが、その中心には――黒く焦げた紙片があった。


(何かが“侵入”してきている)


 それは明確な侵略ではない。だが、わずかずつ――確実に、この世界を蝕みはじめていた。


 放課後、神崎が言った。


「最近、クラスの子が変な夢見たって言ってて。世界が溶ける夢とか、黒い空の中を落ち続ける夢とか……」


「夢、か。魔物が干渉してくるとすれば、無意識領域からが定石だな」


「その……私も、少し、覚えがあって……」


 彼女の声はかすかに震えていた。


 夢。過去。封じた記憶。


 俺は、静かに問うた。


「君は、力を“閉じ込めて”いるのではないか?」


「…………」


 神崎は何も言わなかった。ただ、その沈黙が肯定だった。


 そして――校舎裏の結界裂け目に、黒い“泡”のようなものが浮かんだ。


 濃く、重く、にじみ出す瘴気。

 空間が、ゆっくりと“裏返ろう”としていた。


「来るぞ」


 俺は制服の袖をまくった。

 結界の縫い目に、指先を添える。


 かつてのような力はない。魔力もない。だが――この世界には、“意思”がある。


 清掃用具入れから、再びモップを抜き取る。


(征服のためではない。今度は、守るためだ)


「この場は、俺が塞ぐ。君は避難を――」


「……やだ。私もいる」


 神崎が、その手を俺の背中に当てる。


 その瞬間、彼女の手からほのかな“光”が漏れた。


(これは……精霊結晶の共鳴? いや、もっと根源的な……)


 俺の視界がわずかに広がる。結界の“編み目”が見える。そこに、俺は力を注いだ。


「……“掃除”だ、これは」


 力を込めるたびに、モップの先が光をまとっていく。


 ――ひと閃。

 黒い泡が霧散し、結界が再び繋がった。


 静寂が戻る。


「終わった……?」


「ああ。“今は”な」


 俺は神崎のほうを振り返る。


「だが、これは序章だ。……この世界、近いうちに“大きく”揺れる」


「……だから、守ってくれる?」


「違う。“俺がルールを決める”」


 征服者の言葉じゃなかった。

 それは、ひとりの“高校生”としての宣言だった。


 朝のHRホームルームは、静かに始まった。


 教室の窓からは、やわらかな光が差し込み、生徒たちのざわめきが日常のリズムを刻んでいる。


「はい、じゃあ今日は新しい掃除当番を発表しまーす」


 担任が手元の紙を読み上げる。


「黒田くんと、佐藤さんと……あれ、大和くん?」


「またか」


 苦笑する神崎の横で、俺は黙って席を立った。


 掃除、という名の“戦場”に赴くのは、もはや習慣になっていた。


(だが……これが、“戦い”ではないと気づきはじめている)


 教室の隅に落ちていた紙くずを拾いながら、俺は思った。


 かつての俺は、命令されれば千の軍を動かし、一夜で国を滅ぼした。

 だが今は、たった一つのゴミを拾うのに、意味を見い出している。


 神崎が近づいてきて、ぼそっと言う。


「そういえばさ、大和くん。スマホのロック画面、変えた?」


「ロック……? いや、そもそも“使い方”がわからん。呪文詠唱が必要なのか?」


「違うよ。指でスライドするだけ。見せてみ?」


 俺はポケットから黒い長方形――“スマホ”を取り出し、手渡す。


「わっ、本当に初期画面のままだ……これじゃ味気ないでしょ」


 神崎は手早く操作し、画面に青空と猫の写真を設定した。


「ほら、“現代っぽく”なったでしょ」


「……この獣、威厳がない」


「癒しって言って」


 ふと、神崎のスマホに通知が届いた。


 彼女の顔が一瞬だけ強張る。


「どうした?」


「……あ、ううん。なんでもない。ちょっと、また変な夢を見たって、友達から」


「またか」


 世界の“ほころび”は、日常にじわじわと侵食していた。


 誰もが気づかぬうちに、じわりじわりと“別の何か”がにじみ始めている。


 だが、今はまだ――


「なあ、神崎」


「なに?」


「“青春”とはなんだ?」


「……また急だな」


 神崎は笑って、少し考える。


「たぶんね、“今ここにいる理由”を、自分で決めること、かな」


「“征服”とは真逆だな」


「でも、こっちのほうが――難しいかもね」


 その言葉に、俺は小さく息を吐いた。


「……なるほど。“青春”とは、征服よりも難しいか」


 そして、ふたりで並んで雑巾を絞る。

 そんな瞬間の中に、“守るべき世界”のすべてが詰まっているような気がした。


 放課後。

 下駄箱の前、神崎ミユリが言った。


「明日、転校生が来るんだって」


「ほう。今このタイミングで?」


「うん。ちょっと妙じゃない?」


 俺は即座に、可能性を思い描いた。


(情報の収束が早すぎる。異変の兆候、夢、歪み……そして転校生)


(――まさか、“こちら側”の者か?)


 だが今はまだ動けない。“疑い”だけでは、青春は壊れてしまう。


 俺は、足元に落ちた小さな飴の包み紙を拾った。


「……なんだか、わたし、変わってきた気がする」


 神崎がぽつりとこぼす。


「前だったら、見て見ぬふりしてたと思う。“変な人”とか、“危ない話”とか。近づかないようにしてた。でも今は――あんたみたいな変人と一緒にいるし」


「おい」


「冗談。ちょっとだけ本気」


 ふっと、風が吹いた。


 夕日が差し込む校舎の廊下。その影の先、教室のドアがわずかに開いていた。


 中には、誰もいない。

 けれど、明らかに“何か”がいる気配だけが残っていた。


(この世界は変わりはじめている)


 それでも、俺は思う。


 ――この世界を、もう一度“征服”する必要はない。


 俺は、制服の襟を正し、胸を張って言った。


「俺はこの世界で、俺なりの“ルール”を決める」


 神崎が微笑む。


「じゃあ、ルールその一は?」


「“昼は掃除、夜は結界管理”」


「うわー、過労死まっしぐら」


「ならルールその二。“青春はサボってもいい”」


「ちょっと見直した」


 ふたりの笑い声が、校舎に響いた。


 その足元に、わずかに揺れる“裂け目”の影――

 だが今はまだ、世界は平和だ。


 そして、明日。


 教室のドアが開く。

 転校生が現れる。見覚えのある“気配”をまとって――


「まさか……あのときの勇者……?」


 俺は静かに、にやりと笑った。


「まったく……現代というのは、油断ならぬ」


 かつて世界を滅ぼしかけた男の、第二の青春は、まだ始まったばかりだ。

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