かつて世界を滅ぼしかけた俺が、今は制服着てるって本当ですか?
その瞬間、俺は確かに死んだ。
――勇者の刃が心臓を貫いたのだから、疑いようはない。
なのに。
気づけば、俺は机に突っ伏していた。
「……ふぁ……え?」
口から漏れる声はやけに軽く、鼻先をくすぐる紙の感触と、遠くから響く音が耳を打つ。
魔法の効果か? いや、そんな高等術式は我が軍には存在しなかったはず。敵側の仕業か? 精神遷移呪……?
そして俺は顔を上げた。
――見知らぬ空間。
正面には黒板。左右に並ぶ机。腰に鈍痛、背中に奇妙な“服”。窓の外には……人工建築の山々。
(……ここは、どこだ)
自問した瞬間、脳裏に流れ込んでくる記憶。いや、記憶の“形をした何か”。
大和翔。十七歳。日本国・神道高校二年C組。偏差値ふつう、運動神経ふつう、存在感も薄め。
(俺は……こいつか?)
ディアヴェルト=シュタール。
かつて世界を滅ぼしかけた、漆黒の魔王。
――だったものが、いまこの教室で、シャーペンを持たされていた。
「な、なんか寝ぐせすごいよ、大和くん……?」
斜め前の女子が不安げに声をかけてきた。
「寝ぐせ……?」
俺は反射的に肩に手を伸ばす。そこにあったのは、ふわふわと跳ねた黒髪。……なんとみすぼらしい造形か。
「我が力が……封じられている?」
「え?」
「魔力の循環も、気脈の流れも……完全に絶たれて……。むう」
「え、ええと……先生呼ぼっか?」
「待て。貴様は“この空間”の番人か? それとも祭司か?」
「いや……神崎ですけど……普通の高校生ですけど……?」
彼女――神崎ミユリというらしい――は、明らかに困っていた。俺が魔王だった頃も、よく部下を困らせていたので覚えがある。
「大和、今日どうしたの?」
今度は後ろの席の男子。俗にいう“チャラい”髪型らしいが、妙に礼儀正しい。
「……貴様、なぜ我が名を……いや、今は“大和翔”か。そう名乗らねば怪しまれる、ということか……ふむ」
「……マジで大丈夫かお前?」
(面倒だが、どうやらこの姿、この人格として演じねばならぬようだ)
俺は目を閉じ、深く息を吸った。かつて、部下に“笑顔”を見せろと強要されたときの技術を思い出し――
「……ハハッ。冗談だよ。寝ぼけてただけ」
――言葉にしてみたが、たぶん顔が笑っていない。
「お、おう……」
「……気持ち切り替えていこっか!」
神崎は苦笑しながらも、そっと教科書を俺の机に寄せてくれた。
――こうして、世界を恐怖に陥れた魔王は、
“高校生・大和翔”として、第二の人生を始めた。
どうやらこの世界は、「魔法」や「魔族」など存在しないようだった。
授業では“英語”や“数学”という名の呪文が黒板に記され、教師と呼ばれる者たちは魔力ひとつ持たぬのに、生徒たちを静かに従わせている。
(この空間、妙に統率が取れている……結界でも張られているのか?)
違った。これは“ルール”という名の社会契約で成立しているらしい。
(恐るべき洗脳技術……現代社会、おそるべし)
さらに驚いたのは“スマートフォン”なる物体である。掌に収まる小さな板で、あらゆる情報が呼び出せる。
魔導書の簡略版かと思ったが、通信も映像も音楽も自在。まるで小型の魔神のようだ。
「でね、このアプリ使うと、明日の時間割も一発で出るんだよ」
昼休み、神崎ミユリが何やら楽しげに語っていた。
彼女の弁当箱の中には、白く光る三角の食物。名を“おにぎり”というらしい。
「これは……何かの封印石か?」
「ええと、コンビニの……焼きたらこ味?」
俺は慎重に、指先でそれを持ち上げた。
――魔力反応、ゼロ。危険性、なし。
がぶ、とかじる。
「……っ!」
口の中に、塩気と旨味が広がった。
(な、なんだこれは……異世界の貴族料理を超えている……!)
「おいしい?」
「……神の供物か?」
「いや、ただのごはん」
神崎は吹き出しそうになりながらも、にこっと笑った。
(この者……敵ではなさそうだ)
俺の世界では、笑顔の裏には必ず陰謀があった。だが彼女のそれは、どこまでも自然で、あたたかい。
「大和くんさ、ほんとは演技してるんでしょ?」
「何?」
「“魔王だった”とか、“世界が二つある”とか。全部、寝ぼけて言ってた設定ってことにして、いま演じてるんだよね?」
「…………」
バレている? いや、仮に“魔王”の正体を話しても信じまい。それどころか病院送りだ。
「……ああ、そうだ。演技だ」
「ふふ。そう思ってた。……でも、ちょっとだけ本当に見えたよ」
言いながら、神崎は“おにぎり”の残りを差し出してきた。
「一個あげる。魔王様、気に入ったみたいだから」
「……もらおう」
俺はそれを受け取った。
こんなに素直に“好意”を向けられるのは、いつぶりだろう。いや――もしかすると、初めてかもしれない。
午後の授業。眠気と戦いながら、俺はふと思った。
かつて、俺はすべてを破壊し、支配した。
だが今は、机に向かい、ノートを取り、飯を食い、笑う。
(……案外、悪くないかもしれんな。この人生)
チャイムが鳴り、授業が終わる。
「じゃ、大和くん。また明日ね」
神崎が手を振り、教室を出ていく。
俺はその背中を見送りながら、ひとつだけ確信していた。
(これは……征服ではない。だが、違う形の“戦い”だ)
――魔王ディアヴェルト、第二の人生、開幕である。
高校生活、二日目。
世界を滅ぼしかけた魔王ディアヴェルトこと大和翔は、今――ジャージ姿で校庭に立っていた。
「じゃー今日の体育はバレーボールなー! 男子はAコート、女子はBコートに分かれて!」
(バレー……ボール?)
教師が叫んだその言葉の意味を理解できたのは、隣にいた神崎ミユリのささやきによる。
「球技だよ。ボールを床に落とさないようにするスポーツ」
なるほど。球を使う攻防戦。ルールは単純だが、空間制圧と連携を要する戦術競技か――。
(よし、全力で臨もう)
そう決めた俺は、全身に“気”を巡らせ……かけた。
(あっ)
気が、出ない。
魔力も、技力も、戦闘補助演算も……この体には一切備わっていない。
完全な“凡体”。
(このままでは、ただの肉塊だ……!)
「おい大和、レシーブな!」
「む?」
振り向いた瞬間、鋭い回転をかけられたボールが、俺の顔面に突撃してきた。
咄嗟に手を出し、魔術反応式の結界を……展開しようとしたその時。
――ボフッ!
「ぐぬっ……!」
ボールが額を直撃し、俺は見事に後ろへ吹っ飛んだ。
「うわ、ごめん! マジ当たった!?」
「だ、大和くん!? だいじょ……」
「……問答無用で叩き込むとは。なるほど、ここが戦場というわけか……」
俺は地面から起き上がり、ボールをじっと見つめた。
小さな魔核の代替品にも見えるその構造物。中に何らかの精霊が……いない。単なる合成素材か。
(だが、こいつが俺を叩き落としたことに変わりはない)
「次は、返すぞ」
俺は静かに、手を構えた。
「大和、それサーブ!」
「よし、撃つ!」
我流・魔王式対空撃破術――“地獄の斜雷”!
と、心の中で叫びながら放ったサーブは――
――ネットに直撃して跳ね返った。
「……うわーおしい。っていうか、めっちゃフォームだけカッコよくない?」
「中二感すごかった……」
周囲のざわつきと、呆れる神崎の視線。
「……この世界のボールは、思いのほか手強い」
「うん、まぁ……うん。がんばろ?」
神崎が苦笑しながらタオルを差し出してくれた。
――異世界の覇王、現代体育に完敗す。
体育のあと、俺は担任に保健室送りを命じられた。
「いや、大和くん……なんか今日も様子おかしかったし……一回、休んでこ?」
神崎ミユリが付き添いに名乗り出てくれたため、俺はしぶしぶ(※表情は無)従った。
(敗北の後の静養……かつてもあったな、こういうこと)
だが、あのときは地獄の沼で魔物の血を浴びながらだった。今回はふわふわのベッドと冷たいタオルがある。
(この世界の“療養”は……優しい)
保健室はひんやりと静まり返っていた。窓から差す光がやわらかく、どこか眠気を誘う。
「はい、氷まくら。あと、おでこに冷えピタ」
「これは……氷結系の治癒術か?」
「いや、ただの冷却シート。……ほんとに、記憶とか吹っ飛んでない?」
「記憶は明瞭だ。ただ、世界観が合っていないだけだ」
「……言ってる意味がちょっとだけ分かった気がするよ」
神崎は椅子に腰を下ろし、窓の外を見た。
しばらく沈黙が流れる。
「ねえ、大和くん。冗談でもいいからさ――“本当のこと”って、ある?」
「何?」
「たとえば、“自分は魔王だった”って言われても、普通は笑うじゃん。でも……なんでだろうね、今日のあなたを見てると、そうかもって思えるの」
「……君も、何か見えているのか?」
俺が問いかけると、神崎はゆっくりと頷いた。
「昔ね、火事に巻き込まれたことがあるの。助けてくれた人がいた。“見えない刃で炎を裂いた人”……そんなの、現実にはありえないって、ずっと思ってた。でも……」
彼女はスマホを手に取り、スッと画面を向けた。
そこには、幼い神崎と並んで写る、白黒の写真。もうひとり、顔のぼやけた青年が写っている。
「この人、どこか……大和くんに似てる気がするんだ」
「……我が分体、か?」
「ぶんたい?」
「いや、独り言だ」
写真からは、微かに“霊気”のようなものが漂っていた。魔族の記憶とは違うが……何か、力の“名残”がある。
「君もまた、この世界の“歪み”に触れた者かもしれんな」
「歪み、って?」
「わからぬ。だが、俺が目覚めてから、微かに感じている。“何か”が、起こりつつある」
そのとき、保健室の奥に置かれた鏡が、わずかに震えた。
わずかに、ほんのわずかに――その鏡に、別の“影”が映った気がした。
「……っ」
「な、なに?」
「いや……気のせい、かもしれん」
魔力感知は働かない。だが、感覚が騒いでいる。
――この世界は、完璧ではない。
どこかで、歪みが“漏れ始めて”いる。
それは、かつて世界を滅ぼしかけた俺が、誰よりもよく知っている“兆し”だった。
窓の外の“ひび割れ”が消えても、違和感は消えなかった。
空気がわずかに、ざらついている。
(間違いない。これは、魔力反応に近い……いや、“残滓”だ)
俺は雑巾を絞りながら、その場にしゃがみこむ。
「……このあたり。魔力が、にじんでいる」
「え? なにそれ、ほこりじゃなくて?」
「いや。感覚の話だ。ここだけ、空間がほんの少し、緩んでいる。結界の縫い目のような……そんな感じだ」
「……また中二っぽいこと言ってる」
神崎は冗談めかして笑ったが、その笑顔がほんの一瞬、硬くなったように見えた。
「神崎。君も、見えているのではないか? 歪みの“兆し”を」
「……っ」
そのとき、教室のドアが――ギィ、と軋んで開いた。
誰もいない。
でも、確かに“気配”はあった。風の流れでも、ドアの反動でもない。何かが、入ってきた。
「下がれ、神崎」
俺は、床に捨てられていたモップを手に取った。
(魔剣ではない。だが、柄の部分の重さとバランスは……使える)
空気の中に混ざる“濁った”気配。小さく、ひしゃげた影が、黒板の隅に揺れている。
(これは……低級魔喰虫? いや、似ているが、もっと不安定だ)
それは、形を持たぬまま、じわじわとこちらに滲み寄ってくる。
神崎が震える声で言った。
「それ……見えてるの、大和くんだけじゃないよ。私にも、見えてる」
彼女の瞳には、確かな“力”の揺らぎがあった。
(やはりこの女……何かを“封じて”いる)
「君は、下がっていろ。これは俺が処理する」
「……勝てるの?」
「勝つのではない。“掃除”するのだろう?」
俺はモップを構え、黒い影に踏み込む。
瞬間、影が反応し、蛇のように天井へと逃げる。が、その軌道は読めていた。
「喰らえ――“無銘・清掃撃”!」
モップの柄が振り抜かれ、空間を斬る。
ただの棒だ。だが“意志”が込められた動きは、確かに魔を裂いた。
パシィッ――という音とともに、影が爆ぜ、空気が軽くなる。
直後、部屋に“静寂”が戻った。
「……終わったか」
「いまの……なに?」
「“掃除”だろう?」
そう答えた俺に、神崎は呆れ、そして笑った。
「ほんと、あんた何者なの……」
「かつて世界を滅ぼしかけた、魔王だ」
「もうちょっとマイルドな自己紹介ない?」
「では……現・掃除当番、とでもしておこうか」
「……それはそれで厄介そうだなぁ」
夕暮れの光が教室に差し込む。
静けさが戻った空間に、わずかに残る魔の痕跡。だが確かに、それは拭われていた。
(この世界にも、“闇”が広がっている。そして、それに気づいている者も……いる)
――俺の第二の人生は、平穏では済まなさそうだ。
放課後、俺は“任務”を与えられた。
「今日の掃除当番、大和くんと……えっと、神崎さんね。よろしくー」
任務の名は――“掃除”。
(この“教室”と呼ばれる場を浄化せよ、ということか)
戦火に焼かれた大陸を魔炎で清めた過去はあるが、木製の床を雑巾で拭くのは初めてだ。
「大和くん、バケツに水汲んでくれる?」
「承知した。魔水の生成には――」
「いや、蛇口で。水道使って」
「……なんと?」
こうして、俺は蛇口を“魔道具ではないただの金属管”だと理解した。
(この世界、魔力の代わりに……水圧を使うのか……?)
まったく恐ろしい。物理的な圧で全てを制圧するなど、蛮族の所業である。
バケツに水を溜め、雑巾を絞る。布を濡らして、床をこする。
「ふむ……意外と、楽しいな」
「えっ?」
「この作業。単純だが、己の力で空間を変える。これは“征服”に通じる行為だ」
「うーん、例えが物騒すぎるよね」
神崎ミユリは慣れた手つきで窓を開け、日差しを取り込む。
「けど、ちょっと分かるかも。“汚れてた場所が綺麗になる”って、気持ちいいもんね」
「君も、征服者の素質がある」
「いや、ないない」
二人で教室を拭きながら、ふと、俺は聞いてみた。
「神崎。君は、なぜ俺と関わる?」
「え?」
「俺は、どう考えても“浮いている”。このクラスの“輪”の外側だ。それを理解していながら、なぜ隣に立ち続ける?」
神崎は少し黙ってから、笑った。
「たぶんね、大和くんが――“本当のこと”を隠してないから、かな」
「……何?」
「普通の人って、嘘ついて合わせようとするの。無理に笑ったり、わかったふりしたり。でも大和くんは、それをしないでしょ? それが逆に、安心する」
「……理解不能だな」
「うん。私もちょっと変わってるって言われるから、おあいこ」
そのときだった。
ふと、窓の外――夕焼けに染まる空に、一筋の黒いひび割れのようなものが見えた。
(……裂け目?)
目を凝らすと、それはすぐに消えた。
だが確かに、そこには“世界の裏側”のようなものが、ちらりと覗いていた。
(歪みが進行している……)
掃除当番の、穏やかなひととき。
その裏で、世界は静かに“何か”を孕み始めていた。
翌日の放課後。
俺は、ひとりで校舎裏に立っていた。
夕日が赤く差し込む中、吹き溜まる風が――妙にざらついている。
(やはり、昨日の“影”で終わりではなかったか)
目に見えないが、感じる。わずかに空間が“裂けて”いる。まるで、この世界に無理やり異物を押し込んだような、そんな感覚。
そしてその異物は、俺にとって“懐かしい”においがした。
(あれは、魔界の“淵”のにおいだ)
地獄の門――奈落より這い出る瘴気に似た気配が、この世界の隙間から染み出している。
しゃがみこみ、地面に手をかざす。
(反応は微弱。だが確実に――“穴”が開きかけている)
そこへ、足音。
「やっぱり、いた」
振り返ると、神崎ミユリが立っていた。制服の裾が風になびいている。
「また来たのか。何か用か?」
「ないけど、気になって。……また昨日みたいな“何か”があると思ってたから」
神崎は、俺の隣に並んで腰を下ろす。
俺たちは並んで、空気のひび割れを見つめた。
神崎は、そっと問いかける。
「ねえ、大和くん……今の生活、どう? 楽しい?」
「……難しいな。“楽しい”という概念は、俺の世界にはなかった。あるのは勝利か敗北か、征服か死か……」
「でも今は?」
「……悪くない」
その一言が、胸の中でふわりと浮かび上がる。あたたかくて、くすぐったい感情。
「そう。……よかった」
神崎は安心したように微笑んだ。
その笑顔が、何かを“守りたい”という気持ちに変わっていくのを、自分で感じた。
(戦う理由が変わる――それが、人間としての“変化”かもしれんな)
だから俺は、そっと呟いた。
「この世界を守るためなら……少しばかり、魔王だった誇りを使ってやってもいい」
「……それ、ヒーローっぽいよ」
「やめろ。俺は悪の権化だった」
「ふふ、今は“掃除当番”だもんね」
そんなふうに笑い合っている、たったそれだけの時間が――妙に心地よかった。
その夜、俺は夢を見た。
深い、深い闇の中。
かつての世界――血と魔力にまみれた、終末の風景。
黒き竜が空を覆い、幾億の兵が絶叫しながら魔王城へと押し寄せていた。
だが、俺はそれを冷めた目で見下ろしていた。
恐怖も、怒りもない。ただ、すべてが“無意味”だったからだ。
――その俺が、今は“机”に向かい、“雑巾”を握り、“焼きたらこ”に舌鼓を打っている。
滑稽だ。だが……悪くない。
(だがこの世界も、静かに崩れ始めている)
翌朝。
通学路の途中、街角の自販機に妙な“焦げ跡”が残っていた。
路地裏ではカラスが集まり、地面をつついていたが、その中心には――黒く焦げた紙片があった。
(何かが“侵入”してきている)
それは明確な侵略ではない。だが、わずかずつ――確実に、この世界を蝕みはじめていた。
放課後、神崎が言った。
「最近、クラスの子が変な夢見たって言ってて。世界が溶ける夢とか、黒い空の中を落ち続ける夢とか……」
「夢、か。魔物が干渉してくるとすれば、無意識領域からが定石だな」
「その……私も、少し、覚えがあって……」
彼女の声はかすかに震えていた。
夢。過去。封じた記憶。
俺は、静かに問うた。
「君は、力を“閉じ込めて”いるのではないか?」
「…………」
神崎は何も言わなかった。ただ、その沈黙が肯定だった。
そして――校舎裏の結界裂け目に、黒い“泡”のようなものが浮かんだ。
濃く、重く、にじみ出す瘴気。
空間が、ゆっくりと“裏返ろう”としていた。
「来るぞ」
俺は制服の袖をまくった。
結界の縫い目に、指先を添える。
かつてのような力はない。魔力もない。だが――この世界には、“意思”がある。
清掃用具入れから、再びモップを抜き取る。
(征服のためではない。今度は、守るためだ)
「この場は、俺が塞ぐ。君は避難を――」
「……やだ。私もいる」
神崎が、その手を俺の背中に当てる。
その瞬間、彼女の手からほのかな“光”が漏れた。
(これは……精霊結晶の共鳴? いや、もっと根源的な……)
俺の視界がわずかに広がる。結界の“編み目”が見える。そこに、俺は力を注いだ。
「……“掃除”だ、これは」
力を込めるたびに、モップの先が光をまとっていく。
――ひと閃。
黒い泡が霧散し、結界が再び繋がった。
静寂が戻る。
「終わった……?」
「ああ。“今は”な」
俺は神崎のほうを振り返る。
「だが、これは序章だ。……この世界、近いうちに“大きく”揺れる」
「……だから、守ってくれる?」
「違う。“俺がルールを決める”」
征服者の言葉じゃなかった。
それは、ひとりの“高校生”としての宣言だった。
朝のHRは、静かに始まった。
教室の窓からは、やわらかな光が差し込み、生徒たちのざわめきが日常のリズムを刻んでいる。
「はい、じゃあ今日は新しい掃除当番を発表しまーす」
担任が手元の紙を読み上げる。
「黒田くんと、佐藤さんと……あれ、大和くん?」
「またか」
苦笑する神崎の横で、俺は黙って席を立った。
掃除、という名の“戦場”に赴くのは、もはや習慣になっていた。
(だが……これが、“戦い”ではないと気づきはじめている)
教室の隅に落ちていた紙くずを拾いながら、俺は思った。
かつての俺は、命令されれば千の軍を動かし、一夜で国を滅ぼした。
だが今は、たった一つのゴミを拾うのに、意味を見い出している。
神崎が近づいてきて、ぼそっと言う。
「そういえばさ、大和くん。スマホのロック画面、変えた?」
「ロック……? いや、そもそも“使い方”がわからん。呪文詠唱が必要なのか?」
「違うよ。指でスライドするだけ。見せてみ?」
俺はポケットから黒い長方形――“スマホ”を取り出し、手渡す。
「わっ、本当に初期画面のままだ……これじゃ味気ないでしょ」
神崎は手早く操作し、画面に青空と猫の写真を設定した。
「ほら、“現代っぽく”なったでしょ」
「……この獣、威厳がない」
「癒しって言って」
ふと、神崎のスマホに通知が届いた。
彼女の顔が一瞬だけ強張る。
「どうした?」
「……あ、ううん。なんでもない。ちょっと、また変な夢を見たって、友達から」
「またか」
世界の“ほころび”は、日常にじわじわと侵食していた。
誰もが気づかぬうちに、じわりじわりと“別の何か”がにじみ始めている。
だが、今はまだ――
「なあ、神崎」
「なに?」
「“青春”とはなんだ?」
「……また急だな」
神崎は笑って、少し考える。
「たぶんね、“今ここにいる理由”を、自分で決めること、かな」
「“征服”とは真逆だな」
「でも、こっちのほうが――難しいかもね」
その言葉に、俺は小さく息を吐いた。
「……なるほど。“青春”とは、征服よりも難しいか」
そして、ふたりで並んで雑巾を絞る。
そんな瞬間の中に、“守るべき世界”のすべてが詰まっているような気がした。
放課後。
下駄箱の前、神崎ミユリが言った。
「明日、転校生が来るんだって」
「ほう。今このタイミングで?」
「うん。ちょっと妙じゃない?」
俺は即座に、可能性を思い描いた。
(情報の収束が早すぎる。異変の兆候、夢、歪み……そして転校生)
(――まさか、“こちら側”の者か?)
だが今はまだ動けない。“疑い”だけでは、青春は壊れてしまう。
俺は、足元に落ちた小さな飴の包み紙を拾った。
「……なんだか、わたし、変わってきた気がする」
神崎がぽつりとこぼす。
「前だったら、見て見ぬふりしてたと思う。“変な人”とか、“危ない話”とか。近づかないようにしてた。でも今は――あんたみたいな変人と一緒にいるし」
「おい」
「冗談。ちょっとだけ本気」
ふっと、風が吹いた。
夕日が差し込む校舎の廊下。その影の先、教室のドアがわずかに開いていた。
中には、誰もいない。
けれど、明らかに“何か”がいる気配だけが残っていた。
(この世界は変わりはじめている)
それでも、俺は思う。
――この世界を、もう一度“征服”する必要はない。
俺は、制服の襟を正し、胸を張って言った。
「俺はこの世界で、俺なりの“ルール”を決める」
神崎が微笑む。
「じゃあ、ルールその一は?」
「“昼は掃除、夜は結界管理”」
「うわー、過労死まっしぐら」
「ならルールその二。“青春はサボってもいい”」
「ちょっと見直した」
ふたりの笑い声が、校舎に響いた。
その足元に、わずかに揺れる“裂け目”の影――
だが今はまだ、世界は平和だ。
そして、明日。
教室のドアが開く。
転校生が現れる。見覚えのある“気配”をまとって――
「まさか……あのときの勇者……?」
俺は静かに、にやりと笑った。
「まったく……現代というのは、油断ならぬ」
かつて世界を滅ぼしかけた男の、第二の青春は、まだ始まったばかりだ。