第六話:奥様と変質者B
第六話:奥様と変質者B
柔らかな陽光がサンサンと降り注ぐ、麗らかな昼下がり。
奥様は、まるで庭園に迷い込んだ珍しい蝶のように、ひらりひらりと音もなく自室を抜け出した。
その手には、なぜか絹刺繍の施された可愛らしいポシェットが一つ。
しかし、その隠しきれない気品と、どこか遠足前の子供のように期待に胸を膨らませている眼差しは、およそ「お忍び」とは程遠い、華やいだオーラを放っていた。
磨き上げられた回廊を半分ほど進んだ、その時。
「奥様。麗らかな午後に、どちらへお出ましで?」
一陣の涼風のように、伊勢馬場が音もなく姿を現した。
その手には、銀のトレイに載せられた、冷たい薔薇水と焼き菓子のセットが恭しく捧げられている。
「い、伊勢馬場…!?」
奥様は、思わずポシェットを背後に隠した。
その動揺は、普段は泰然としている美しい肩が、ほんのわずかに震えることで見て取れた。
「な、何も…ただ、少しばかり庭園の薔薇の様子でも見に行こうかと…」
「庭園の薔薇、でございますか。それにしては、随分と愛らしいお出かけのご準備でいらっしゃる。それに、その背後にお隠しになっているものは…まさか、わたくしに内緒で、城下町へ抜け出される御計画なのでは?」
伊勢馬場の言葉には、いつもの冷静さに加え、微かな愉悦の響きが含まれていた。
観念したように、奥様は愛らしく頬を膨らませた。
「…ええ、そうよ! 城下の様子を見て参ろうと思ったの! 市井の民の本当の笑顔、その生活の温もり!帳面の数字ですべてをわかるなんてそんなうぬぼれを私は持ち合わせてはおりませんわ」
その瞳には、領主としての慈愛に満ちた光がきらめいていた。
伊勢馬場は、奥様の言葉に深く、優雅に一礼した。
「奥様のそのお心遣い、この伊勢馬場、感服のあまり胸が熱くなります。しかしながら奥様、そのお姿では…いかに質素なヴェールで御髪を覆おうとも、その太陽のように眩い美貌は、春の陽気に咲き誇る花々の如し。一目で『天上の貴婦人』と人々を跪かせてしまいます!」
「なんですって!? わたくしの…この美しさが、またしても邪魔をするというの…?」
奥様は、細くしなやかな指先で自らの頬に触れ、悲劇のヒロインのように愁いを帯びた表情で天を仰いだ。
「お任せください、奥様! この伊勢馬場が、奥様をどこに出しても恥ずかしくない、完璧な『町民A』へと変身させてご覧にいれます! まずは…こちらの『鼻眼鏡』をお付けくださいませ!」
伊勢馬場がどこからともなく取り出したのは、大きな丸いレンズの、見るからに間抜けな鼻眼鏡だった。
「い、伊勢馬場! あなた、わたくしを愚弄する気ですの!?」
奥様の声が、普段の落ち着きからは想像もつかないほど高く、そして抗議の色を帯びて響く。
「滅相もございません! 全ては、奥様があまりにもお美しすぎるのがいけないのでございます! さあ、続きましてはこちらの『股引&腹巻』を!」
伊勢馬場は、奥様の言葉を優しく、しかし断固として遮るように、くすんだ色の腹巻を差し出した。
「ちょっ…! あなたという人は!」
「奥様があまりにもお美しすぎるのがいけないのでございます!」
伊勢馬場は、さらに畳み掛けるように、見るもおぞましいバーコード模様のヅラを取り出した。
「そして! 極め付けはこちらの『哀愁のカツラ』でございます! ああ、奥様! あなたが! あなたがあまりにも! お美しすぎるのがいけないのでございますぅぅぅ!!」
伊勢馬場の目には、なぜか芝居がかった悲壮な涙がキラリと光っていた。
奥様は、しばし言葉を失い、やがて観念したように伊勢馬場に身を任せた。
鼻眼鏡をかけ、腹巻を巻き、そして…バーコードのカツラを装着したその姿は、もはや元の麗しい面影を完全に打ち消している。
「よろしいですか、奥様。そして、万が一、町の者に見咎められた場合は、こう仰るのです! 『へへへ、おっちゃんとアッチで、スケベしようや! なあ、ええやろ?』 さあ、ご一緒に!」
「へへへ…おっちゃんとあっちで…すけべなこと、しようや…?」
奥様の、どこか投げやりな声が、午後の陽光きらめく回廊に虚しく響いた。
「奥様ッ! あなたの市井への想いは、その程度のものでございますかッ! その魂の叫びを! もっと腹の底から、情熱を込めてッ!」
伊勢馬場の、なぜか生き生きとした演技指導が始まった。
数時間後。
「へへへへへッ! おっちゃんなあ、実はエエも持ってんねん! アッチの路地裏で、二人っきりで、スケベせえへんかぁ!? ええやろ?ええやろ?」
完璧なイントネーションと、胡散臭さ満点のセリフを言い切る奥様。
「おお…奥様…! なんという完璧な『町民A』…いえ、『変質者B』! この伊勢馬場、感動で胸がいっぱいでございますぅぅぅ!」
伊勢馬場は、感極まって胸を押さえ、天を仰いだ。
しばしの感動の後、奥様はふっと我に返った。
「…伊勢馬場。やはり、今日のお忍びは、やめておきますわ。なんだか、とても満足してしまいましたもの」
「さようでございますか。奥様のお心が満たされたのであれば、それが一番でございます」
伊勢馬場は、いつもの穏やかな執事の顔に戻っていた。
奥様は、ふと伊勢馬場を見上げ、どこか不満げに、しかし愛らしく唇を尖らせた。
「でも、伊勢馬場。なんですの、この変装は。あなたほどの執事なら、もっと…そう、もっとこう、わたくしの美しさを活かしつつ、それでいて誰にも気づかれないような、そんな素晴らしい変装を用意できたのではなくて?」
伊勢馬場は、恭しく一礼すると、その瞳にいつもの真剣な光を宿らせて答えた。
「もちろんでございます、奥様。例えば、生ガキに運悪く当たってしまった『町人D』。あるいは、うっかり足を滑らせて肥溜めに落ちてしまった、『町人G』。はたまた、お魚を咥えたどら猫を裸足で追いかける『町人SZE3』など、多種多様にご用意しております。」
奥様は、伊勢馬場のあまりにも突飛で、それでいて真剣極まりない提案の数々に、しばし呆気に取られたような顔をしていたが、やがてその美しい唇に、悪戯っぽい、しかし花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「伊勢馬場。…たまに、あなたがわたくしを、おもちゃにして楽しんでいるのではないかと、疑ってしまうときがあるのよ」
その声は、春の微風のように優しく、それでいて小悪魔的な響きを帯びていた。
伊勢馬場は、その奥様の言葉に、一瞬虚を突かれたような表情を見せたが、すぐにいつもの完璧な執事の仮面を被り直し恭しく頭を垂れた。
「滅相もございません、奥様。すべては…すべては、奥様のその抗いがたいまでの、太陽のような輝きを放つ美しさが、罪なのでございます」
「うふふ…」
奥様の唇から、まるで銀鈴を振るような、可憐で艶やかな笑いがこぼれた。
「あはは…」
伊勢馬場もまた、その奥様の笑い声に応えるように、低く、しかし陽光のように温かな笑いを返す。
二人の笑い声は、昼下がりの穏やかな光の中に溶け込み、いつまでも、いつまでも庭園を満たしていくのであった。
あん子:「奥様じつは買い食いに行きたいだけだったのニャン」
ブックマークをいただいた気がするのですが、気のせいなのか?
操作が良くわかっていません。
作法などでお見苦しい点などございましたら、もうしわけございません。
まぁ、でも、うれしかったので、今日も投下です。
ストックが減ってきたので、また書き溜めておきます。
次回予告
奥様がまどろみに負けそうにしています。