第二十七話: 猫耳メイドと二つのゼロの物語 後編
第二十七話: 猫耳メイドと二つのゼロの物語 後編
柔らかな陽光が、繊細なレースのカーテンを透かしてテラスへと降り注いでいる。
テーブルの上では、あの日、狂乱の渦中で「戦略兵器」として掲げられた伝説のティーカップが、今は穏やかに湯気を立ちのぼらせていた。
奥様の細い指先がその磁器の縁をなぞり、琥珀色の液体を口に運ぶ。
「ふふ……。このカップが無事で何よりでしたわ。あん子の頑張りが残っているのかしら、心なしかお紅茶の味がワイルドになった気がいたしますわ。……伊勢馬場、あの方たちはどうなりました?」
傍らに影のように控えていた執事が、音もなく一礼し、手帳をめくる。
先日、時計塔の頂上で颯爽と登場する奥様の足元に、理想通りのポーズで控えることに成功した彼は、今や「一流の執事」としての渇望を完全に満たしていた。
かつてのギラついた「ツヤツヤ」とした執着は消え失せ、今の彼はただそこに居るだけで空間の格を上げるような、静謐で澄み渡った空気を纏っている。
「はっ。まず、勇者カイン殿ですが……『僕は世界を一度救ったくらいで、天狗になっていました。実際この中で一番弱いのは僕でしょう……修行をやり直します』と、遥か東、頂上で願いが叶うというドラゴンの塔へと旅立たれました」
「あら、たしか頂上のドラゴンさんは、語尾が『のじゃ』の幼子の姿になる神竜様でしたわよね? ……うふふ、あの聖剣様も語尾が『のじゃ』でしたし、不思議な重力を感じますわね」
「続きまして、当館のメイド長でいらっしゃいますノーマさんは、惚れ惚れするような変わり身の術を使いお屋敷を逃亡。本気になられたノーマさんを捕らえるのは至難の技ですので、ついつい額に『肉』と書きたくなるような指名手配書をアマルガム領全土に張り出しておきました。」
言い終えた伊勢馬場は、どこか誇らしげな瞳で、ここではない遠くの空へと想いを馳せた。
そのわずかな口角の上がりに、手配書のフォントから顔写真の配置にいたるまで、一切の妥協を許さなかった自分への静かな達成感が透けて見える。
一流の執事たる彼にかかれば、ノーマの美しく艶めかしい宣材写真すらも、肉への抗いがたい欲望を書き立てる極上のキャンバスへと変貌を遂げるのだ。
「あらあら、ノーマが建物を壊して手配書を張り出されるのが風物詩になってきましたわね。毎回、失敗分を帳消しにするために、何かしらの手柄を立ててくるのよね、うふふ、楽しみだわ」
奥様の楽しげな含み笑いが、テラスの端で小さく弾ける。
「そして、中庭を台無しにした『犯人』たちでございますが。まずはあん子、彼女には伝説のカップをテロの道具にした罪として、修復が終わるまでオヤツとお昼寝、それと今季のボーナス抜きの沙汰をくだしました。そしてディバイド・ゼロ殿は、よく考えたら別に罪はございませんでしたが、『その場の空気感』という名の圧力を以て、お庭の修復に参加していただいております」
奥様は目を細め、テラスの下に広がる中庭に目を向ける。
その宝石のような輝きを放つ瞳の奥、鏡のような彩光の中に、「それ」は映っていた。
かつては美しく萌えていたはずの黄緑色の芝生は、今や無残な荒野へと成り果て、粘り気のある泥が全てを茶色く塗りつぶしている。
その泥濘の真っただ中、もはやメイド服の原型を留めていない「泥だんご」と化したあん子と、場違いな鋼鉄の巨躯が、一心不乱に地面を捏ねくり回していた。
「ディバイドぉ! 鍬の持ち方がなってないニャン! 真面目にやるニャン!誰のせいで、アタイのボーナスが吹き飛んだと思ってるのかニャ!?」
下から響く怒声に、重厚な合成音声が静かに、そしてあまりにも理知的に応じる。
「……否定。私の鍬捌き(くわさばき)は物理演算上、最も効率的かつ均一な土壌復元を可能にしている。そもそも、私の出力軸と関節構造は人体とは根本的に異なり――」
「理屈はいいから、黙ってアタイの動きを見るニャ! こうして、腰を入れて……こうニャ! こうニャン!!」
泥まみれのあん子が、必死に鍬を振るって「猫流・耕作術」のお手本を見せる。
その姿は滑稽ではあるが、失われたボーナスを取り戻そうとする必死な執念が宿っていた。
対するディバイドは、巨大なマニピュレーターで細い鍬の柄を摘まみ、困惑したようにモノアイを明滅させる。
「……理解不能。貴殿の動作はエネルギー効率が著しく低い。そもそも、フルフレームの義体を持つ私に対し、炭素ベースの生体構造を基準とした指導を行うこと自体に、論理的妥当性が欠如している」
「うるさい、言い訳するニャニャン! そもそも、お前が履歴書に『人間時代』のイケメン写真を貼って応募してきたから、こんなややこしいことになったんだニャン! 実物と違いすぎるのは詐欺ニャ!」
あん子に痛いところを突かれ、ディバイドの装甲から「プシュッ」と蒸気が噴き出した。
「……意義あり! 私は、今も精神的には人間だ。脳以外の身体パーツが機械機構に置換されたに過ぎない。撤回を要求する!!」
そこまで言いかけた時、あん子が鍬を地面に突き立て、泥のついた顔でギロッとディバイドを睨みつけた。
「……何か言ったかニャ?」
その視線には、かつて数多の修羅場を潜り抜けてきた元暗殺者としての「殺気」と、それ以上に恐ろしい「ボーナスカットへの怒り」が込められていた。
「…………。……あっ。……はい。……善処します」
鋼鉄の巨躯が、物理法則を無視したかのようにシュンと縮こまる。
かつて北の戦場を震撼させた「黒き死神」は、どこへ行ったのか。
今ここにいるのは、泥だらけの先輩メイドに怯えながら、慣れない手つきで大地を耕す、一人の「新入り見習い(重機)」であった。
修繕作業の合間。
泥だらけの指先で汗を拭ったあん子は、隣で巨大なドリルを繊細なヘラのように使い、ミリ単位で庭を平らにしていく鋼鉄の巨躯を見上げ、ずっと喉に引っかかっていた問いを投げた。
「……なぁ、ディバイド。あんた、なんでわざわざこんな辺境まで来て、アタイの部下募集なんかに応募してきたんだニャ? その性能があれば、どこかの騎士団で将軍にでもなれたはずニャ」
一瞬、鋼鉄の駆動音が止まる。
モノアイが深紅に明滅し、震えるような低音が空気を震わせた。
「……目的は、『奥様』の見極め。宿敵アブソリュートが最期に見せた、計算不能な『熱』の正体を知るために来た。もし、彼女を狂わせた元凶が奥様であると判定した場合……私はこの腕で、奥様を亡き者にするつもりだったのだ……」
彼はゆっくりと顔を上げ、テラスに座る奥様をその光学センサーに捉えた。
その瞬間、内蔵された戦闘用補助脳が、最適解としての暗殺シークエンスを網膜上に強制展開する。
視界は一気に血のような赤に染まり、その不可視の照準が奥様の眉間に重なろうとした刹那。
ディバイドの視界を遮るように、一人の男がスッと割り込んできた。
伊勢馬場である。
彼は奥様に紅茶のお代わりを注ぐという、極めて自然な動作のまま、ディバイドの放つ冷徹な「殺意の照準」を、その広い背中で悠然と受け止めた。
そして、奥様からは絶対に見えない背後、燕尾服の尻のあたりで、白い手袋を嵌めたまま、ありえないくらい柔らかな関節を巧みに操り、それはそれは艶めかしい「フィンガーハート」を作ってみせたのである。
ディバイド・ゼロは、網膜を埋め尽くす伊勢馬場のフィンガーハートを打ち消すように、人知れずキャンセルコマンドを打ち込んで、静かに、そして完全に消し去った。
「……あー、わかるニャ。わかるニャン。実はアタイも、一番最初は奥様を暗殺するためにこの屋敷に派遣されたんだニャ」
あん子は遠い目で、かつての「鉄猫」と呼ばれた時代を思い返す。
当時は全身に武装を固め、高い身体能力で標的を屠る冷酷な殺し屋だった。
「それなのに、どういうわけだか今じゃ奥様付きのメイドをやって、こうして泥まみれで庭を耕してるニャ……。ここは、そういう場所なんだニャ。あんたの言う『論理』なんて、あの執事のシッペ一発で粉砕されるニャ」
ディバイドのモノアイが、スキャンするようにあん子の姿を上下に舐めた。
彼が知る「闇の世界」の住人は、皆一様に死の臭いを纏い、その瞳には出口のない冬のような虚無を宿している。だが、目の前の「鉄猫」と呼ばれた女はどうだ。
泥にまみれ、ボーナスカットに憤り、あろうことか敵であったはずの女主人を「奥様」と呼び、その庭を必死に耕している。そこには精神操作による人形のような虚ろさではなく、まがいなりにも「今を生きる」という、泥臭くも力強い生命の輝きがあった。
「……理解不能だ。貴殿ほどの技量があれば、この屋敷を脱し、再び血の海に身を投じることも容易なはず。それなのに、なぜ……」
ディバイドは自らの巨大なマニピュレーターを見つめた。
戦うために、殺すために、そしてアブソリュートを失うために積み上げられた鋼鉄。
彼は今、暗い戦場の闇から一歩も動けずにいる。
しかし、あん子の瞳には、その闇の果てにある「何か」に触れた者特有の、柔らかくも揺るぎない光が宿っていた。
「……貴殿は、その光の中にいるのか。……判定。貴殿の現状は、戦術的敗北ではなく、一種の……『逸脱』か」
ディバイドの音声に、わずかな、けれど確かな興味の色が混じる。
出口のない冬に閉じ込められた自分にとって、泥だらけで笑い、怒る彼女の姿は、計算式では導き出せない「未知の救い」のように見えたのだ。
「違うニャ。……説明できないニャ。ただ、気づいたらこうなってたニャ。で、あんたの方はどうなんだニャ? 答えは見つかりそうなのかニャ?」
「……不明。判定不能。あの日、あいつに助けられたあの時から、私のコアメモリは深刻なバグを発生させる。アブソリュートから託されたボイスストーン……肝心の『答え』が記録されている箇所が、きっとあの時、私を守る衝撃で破損。再生、不可能になったのだ。」
胸部の装甲が重々しく開き、そこから取り出されたのは、無残にひび割れた結晶の塊。 ディバイド・ゼロはこの壊れたボイスストーンを再生するために、かつて大金を投じて修復を試みたことがあった。
また、莫大な懸賞金をかけ、中身と同じデータを探した。
しかし、ボイスストーンは上書きが容易な仕様ゆえ、かつての放送内容を記憶している人間はどこにも見つけることは出来なかった。
彼が欲した過去の「真実」はどこにも残っていなかったのだ。
その声に混じった機械らしからぬ喪失感に、あん子は泥のついた手で頭を掻いた。
「なんだ、そんなことかニャ。地下の資料室に、昔の放送記録なら山ほど転がってるはずだニャ。あそこは伊勢馬場が完璧に管理してるから、絶対アーカイブも残ってるニャ。……ついてこいニャ、ディバイド。あんたの『宿題』、アタイが付き合ってやるニャ!」
あん子はディバイドの巨大なマニピュレーターを引き、泥だらけのまま屋敷の奥へと向かう。
ディバイドは、差し出されたその手の小ささと、そこから伝わる奇妙な力強さに、ただ沈黙した。
その様子を、テラスから見届けていた奥様が、ふっと目を細めた。
「伊勢馬場。あの子の装甲からは、時が凍りついたままの、深い冬の匂いがしますわ。けれど……。今、あん子が差し出した手の温もりが、あの子の中で止まっていた時計の針を、ほんの少しだけ進めてしまったのが見えますわ」
「左様でございますな。たとえ心の闇が深くとも、奥様の慈悲と、アーカイブに刻まれた『愛の記録』の力で、きっと、彼にも何かしらの光が見つかる事でしょう。……地下の資料室には、彼が必要とする『108回目』の記録を、探しまわっても見つからず、諦めかけた時に見つかる場所に設置しておきました。」
「うふふ、流石は私の伊勢馬場。気が利きますわね。そうね、二人が戻ったら、紅茶ととっておきのスコーンを御馳走しないとね」
月光とは異なる、昼下がりの穏やかな光の中。 鋼鉄の巨人と泥だらけの元暗殺者は、運命の答えが眠る地下室へと、一歩を踏み出したのだった。




