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第二十二話:奥様と化石小麦と魔女の草

第二十二話:奥様と化石小麦と魔女の草


双子の月が淡い光を投げかける、奥様の執務室。

そこには、招かれざる客の姿があった。

隣国の領主、赤爵レッドロードヴァルカン・ヘマタイト――その名の通り、燃えるような赤髪に、血走った瞳の奥に強欲な輝きを宿す、恰幅の良い中年の男である。

彼は、奥様の淹れた極上の紅茶には目もくれず、わざと音を立ててカップを置き、ふんぞり返ってソファに身を沈めていた。


数年前に家督を継いだヴァルカンは、先代の方針を覆し、領内改革を強引に進めていた。

先代は奥様のアマルガム家と友好な関係を築き、小麦の取引もいわゆる「お友達価格」で行っていたが、ヴァルカンはその安価な価格にすら不満を抱いていた。

そして、彼は「金穂きんほ小麦」という新たな品種に目をつけ、領内の小麦を全てこれに切り替えたのだ。ここ数年、ヴァルカンの領地は目覚ましい豊作に沸き、彼は自らの手腕に酔いしれていた。


「…というわけだ、アマルガムの奥方。貴殿の領地から買い付けている小麦だが、今期をもって取引は打ち切らせていただく」

ヴァルカン赤爵の言葉は、まるで決定事項を告げるかのように一方的だった。その声には、奥様を見下すような、そしてどこか粘つくような響きが隠せない。

「まぁ、ヴァルカン赤爵。それはまた、あまりにも急なお話ですこと」

奥様は、柳眉を微かに寄せながらも、その声色はあくまでも平静を装っていた。

傍らに控える伊勢馬場は、表情一つ変えずに佇んでいるが、その黒曜石のような瞳の奥には、鋭い光が宿っている。


「急も何もあるものか。率直に言わせてもらえば、貴殿のところの『アマルガムの 化石かせき小麦』など、もはや時代遅れの遺物。我が領では、それよりもはるかに味が良く、しかも驚くほど安価な『金穂小麦』が、今や大地を黄金色に染め上げているのでな。もはや、貴殿の領地の小麦など不要というわけだ、分かるかな?」

ヴァルカン赤爵は、奥様の領地の小麦を侮蔑的な名で呼び、下卑た笑みを浮かべながら勝ち誇ったようにせせら笑う。


奥様の領地では、多くの農民が小麦栽培で生計を立てている。この一方的な取引中止は、彼らの生活を根底から揺るがしかねない、死活問題であった。

「…ですが、ヴァルカン赤爵。先代様からの長年のお付き合いもございます。この取引が反故になれば、我が領の民が路頭に迷うことになりかねません。どうか、ご再考いただけないでしょうか」

奥様の声には、領主としての切実な響きが込められていた。


「ふん、再考だと?…まぁ、そうだな。貴殿があまりにも不憫でならぬと言うのなら、この私が、お情けで取引を続けてやらんこともないぞ?」

ヴァルカン赤爵は、奥様の弱みを見透かしたかのように、いやらしい笑みを浮かべる。

「その代わりと言ってはなんだが…貴殿の領地でしか採れぬという『月の雫』の採掘権、それを我が方に譲渡していただこうか。それと…」

赤爵の視線が、奥様の豊満な胸元から滑らかな曲線を描く腰へと、ねっとりと絡みつく。その瞳は、まるで獲物を品定めするかのようだ。

「貴殿のその熟れた身体も、なかなか悪くない。今宵、わしの寝所で酌でもしてもらおうか。そうすれば、あるいは…このヴァルカン様が、直々に慰めてやらんでもないぞ?ククク…」


その下卑た言葉にも、奥様は動じない。

それどころか、その美しい唇に、ふわりと優雅な、しかしどこか氷のような冷ややかさを秘めた笑みを浮かべた。

「まぁ、ヴァルカン赤爵。わたくしの領地の小麦よりも良質かつ安価な『金穂小麦』を大規模に導入され、数年にわたり豊作を続けられているとは、素晴らしいご手腕ですこと。その改革の成功、心より敬服いたしますわ」

奥様の言葉に、ヴァルカン赤爵は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに得意満面な表情に戻る。

「そして、我が『アマルガムの化石小麦』が、その輝かしい『金穂小麦』に比べて味が劣り、時代遅れであるというご指摘…悔しいですけれど、認めざるを得ませんわね」


(フン、小娘めが。ようやく己の愚かさと、我が偉業を理解したか。このわしに逆らうなど、百年早いわ)

ヴァルカン赤爵は内心でせせら笑い、勝利を確信したかのように尊大に頷いた。


その時、奥様はふと、何かを思いついたように小首を傾げた。

「ところで、ヴァルカン赤爵。もしも、のお話でございますけれど…その素晴らしい『金穂小麦』が、その黄金の輝きとは裏腹に、見えないところで大地を静かに、しかし確実に蝕んでいたとしたら、一体どのようなことが起こるのかしら?」

「大地を蝕むだと?何を馬鹿なことを。『金穂小麦』は大地に恵みをもたらす奇跡の品種だぞ、無知な女めが」

ヴァルカン赤爵は、奥様の言葉を鼻で笑う。


奥様は構わず話を続ける。その声は、まるで子守唄を歌うかのように穏やかだ。

「その『金穂小麦』…確かに、その黄金色の穂は豊穣を約束し、粉にすれば芳醇な香りを放ち、パンを焼けば至福の味わいをもたらすとか。病害にも強く、多少の日照りにも耐える…素晴らしい品種ですわね、最初の数年間は」

奥様は、金穂小麦の長所を淀みなく語る。ヴァルカン赤爵は、満足げに何度も頷いた。


「しかし…」

奥様の声のトーンが、微かに変わる。

「その『金穂小麦』には、いくつかの…そう、見過ごすことのできない特性があることをご存知かしら?例えば、その類稀なる生命力は、大地の滋養を他のどの小麦よりも深く、そして貪欲に吸い上げるのです。

その結果、最初の数年は目覚ましい収穫をもたらしますが、その後、畑は年を追うごとに地力が著しく衰え、かつての豊かな実りは見る影もない痩せた土地へと変わってしまう…まるで、美しい花を咲かせた後に周囲の植物を枯らしてしまう、『魔女のストライガ』のように」

奥様の言葉が進むにつれ、ヴァルカン赤爵の自信に満ちた表情が初めて微かに揺らぎ、焦りの色が浮かび始める。


奥様は、そっと伊勢馬場に目配せをする。

伊勢馬場は、いつの間に用意したのか、美しい革装丁の分厚い資料を、音もなく奥様へと差し出した。奥様はそれを受け取ると、ヴァルカン赤爵の目の前のテーブルに、そっと置いた。それは、ヴァルカン赤爵よりも先んじて金穂小麦を導入し、そのリスクをいち早く察知して賢明にも方針を転換した、とある領の土壌回復に関する克明な記録であった。

それは間違いなく、数年後のヴァルカン領の姿を暗示していた。


「ヴァルカン赤爵、よろしければ、そちらの資料の…そうですね、十二ページ目をご覧になっていただけますかしら?」

促されるまま、やや訝しげな表情で資料を開き、指定されたページに目を落としたヴァルカン赤爵の眉が、ピクリと動いた。

そこには、金穂小麦栽培によって痩せ細った土地が、元の豊かさを取り戻すまでに要するであろう年数と、莫大な費用が、冷徹なまでに正確に記されていたのだ。


彼の呼吸が、僅かに浅くなる。

ヴァルカン赤爵の額に、じわりと脂汗が滲む。奥様の執務室の、心地よいはずの暖炉の暖かさが、今は不快な熱気となって彼を包んでいた。


「…それだけではございませんのよ、ヴァルカン赤爵」

奥様は、まるで秘密を打ち明けるかのように、声を潜めて続ける。

「『金穂小麦』の豊かな栄養は、残念ながら人間以外の生き物にとっても大変なご馳走となるのですわ。特に、ある種の飛蝗バッタは、この小麦を大変好みますの。

昨年、あなたの領地の畑では、その飛蝗がこれまでにない規模で大量に発生し、『金穂小麦』の栄養をたっぷりと蓄えて卵を産み付けたと聞いておりますわ。

そして、その卵から孵った無数の幼虫たちが、今年、どれほどの規模で再び『金穂小麦』を求めて襲い来るか…想像に難くありませんわね」


伊勢馬場が、すかさず新たな資料を差し出す。奥様はそれを受け取ると、先程の資料の上に重ねて置いた。

「こちらの三十五ページをご覧くださいまし。昨年度の、あなたの領地全域における飛蝗の卵の密度調査結果と、それに基づく今年度、そして来年度の幼虫発生予測、並びに蝗害による被害予測がまとめられておりますわ」

ヴァルカン赤爵が震える手でページをめくると、そこにはおびただしい数の赤い点が地図上に記されており、年を追うごとにその範囲が絶望的なまでに拡大していく様子が示されていた。

蝗害によって食糧が枯渇し、民が飢え、暴動が頻発する…そんな悪夢のような未来図が、冷たい数字と共に描かれていた。

彼の血の気が引き、言葉を失う。彼の領地が、あと二年後には、想像を絶する蝗の群れに覆い尽くされ、飢饉と社会不安が避けられないという予測は、ヴァルカンを恐怖のどん底に突き落とした。


彼の顔は蒼白を通り越し、土気色に変わっていた。

後戻りはできない。領内の小麦は全て金穂小麦に転換してしまっているのだ。


奥様は、そんなヴァルカン赤爵の様子を、まるで憐れな小動物でも見るかのように、しかしその瞳の奥には冷ややかな光を宿して見つめながら、ふわりと立ち上がった。

「わたくしは、先代様との長年のご縁を大切に、これまで通り『お友達価格』で我が『化石小麦』をヴァルカン赤爵様の領地へお納めしたいと、そう願っておりましたのに…。ヴァルカン赤爵ご自身が、当領の古臭く味も悪い『化石小麦』など、もはやご不要だと、きっぱり仰ってくださったではございませんか。そのお言葉、確かにこの耳で伺いましたわ。本当に、残念で…ええ、とても残念でなりませんのよ」

奥様の声は、絹を裂くような悲哀に満ちていたが、その瞳の奥は楽しんでいるかのようだ。


その時、伊勢馬場が「おっと、失礼。どうやら足がもつれてしまいましたな」と、わざとらしくよろめき、ヴァルカン赤爵の目の前にあった資料のページを、偶然を装ってパラリと一枚めくった。

そこに現れたのは、今、金穂小麦の栽培を中止したとしても、ヴァルカン領の疲弊した土地が完全に回復するまでには、少なくとも数年を要するという、絶望的なデータであった。


「ヴァルカン赤爵の先代様には、わたくしどもアマルガム家も大変お世話になりました。その御恩をお返しすることもできず、このような事態を招いてしまった自分が…ああ、不甲斐のうございます…」

奥様は、美しいレースのハンカチで目元を押さえ、か細い声で嘆く。


「ふえっくしゅん!…で、ございます」

伊勢馬場が、これまたわざとらしく大きなくしゃみをし、その勢いで再び資料のページをめくった。今度は、明日奥様が別の貴族と取引するであろう『化石小麦』の、驚くほど高額な予想取引価格が、ヴァルカン赤爵の目に飛び込んできた。


「そういえば、ヴァルカン赤爵。先ほど、わたくしにお酌をしてほしいと仰せでしたわね?…ですけれど、我が領の防壁も近頃老朽化が進んでおりまして、修繕費用もままならないのです。そのような状況で、ヴァルカン赤爵にご満足いただけるような上等なお酒など、とてもご用意できそうにございませんわ…およよよ…」

奥様は、扇で顔を隠し、わざとらしく泣き真似を始める。その演技力は、もはや名女優の域である。


「あぁ、奥様、おいたわしや…!この伊勢馬場も、空腹で眩暈が止まりませぬ…!」 伊勢馬場は、そう言うと、ふらり、とわざとらしくよろめき、ヴァルカン赤爵の目の前で器用に倒れ込みながら、最後の仕上げとばかりに資料のページをめくった。

そこには、今後ヴァルカン・ヘマタイト領が被るであろう、土地の回復費用、食糧輸入費用、治安維持費用などを合計した、天文学的な被害予想総額が、冷酷なまでに大きな文字で記されていた。


「ですが奥様、どうぞご安心くださいませ!明日のお取引が成功すれば、きっと我が領の『化石小麦』も高く売れ、わたくしたちも美味しいご飯が食べられるようになります!」

奥様は、パッと泣き顔から笑顔に変わると、伊勢馬場の手を取る。

「ええ、そうね、伊勢馬場!きっとあなたにも、滋養のある温かいスープくらいはご馳走できると思いますわ!」

二人の茶番劇は、もはや完璧な域に達していた。


それまでふんぞり返っていたヴァルカン赤爵の態度は、見る見るうちに萎縮していく。

「お、奥方様…!そ、その…先程の無礼、どうか、どうかお許しいただきたい!あの『月の雫』の話、全て戯れ言にございます!どうか、水に流していただきたい!そ、そして、その…『化石小麦』いやアマルガムの黄金小麦!ぜひとも、ぜひとも我が領にもお分け願いたい!も、もちろん、お値段は奥方様のおっしゃる通りに!いや、それ以上でも構いませぬ!どうか、このヴァルカンめに、慈悲をお与えください!」

ヴァルカン赤爵は、ソファから転げ落ちるようにして床に膝をつき、奥様の足元にすがりつかんばかりの勢いで懇願する。

かつての威厳は見る影もなく、ただただ床に額をこすりつけ、みっともなく許しを乞うその姿は、まるで哀れな道化であった。


奥様は、そんなヴァルカンの姿を冷ややかに一瞥すると、伊勢馬場に目配せした。

「伊勢馬場、ヴァルカン赤爵は、どうやら大変お疲れのようですわね。丁重にお見送りして差し上げてちょうだい。…ああ、それから、小麦の件ですけれど、新しい『お友達価格』については、また日を改めて、正式な書状にてご相談いただけるとのこと、確かに承りましたわ。本日は、わたくしも少々遅くまでお仕事をすることになってしまいましたので、交渉はまた後日にいたしましょう」


その声は、どこまでも優雅で、しかし一分の隙もない。ヴァルカン赤爵の懇願を、やんわりと、しかし確実に退けたのだ。


伊勢馬場は、深々と一礼すると、もはや抜け殻のようになったヴァルカン赤爵を、まるで壊れ物でも扱うかのように、しかし有無を言わせぬ力強さで執務室から退出させた。

後に残された執務室には、双子の月の静かな光と、奥様の満足げな、そしてどこか妖艶な微笑みだけが、いつまでも満ちているのであった。



あん子:「あんな事言っているけど、ヘマタイト領の人々の為にそこそこの値段で取引を継続するつもりって資料の最後のページにかいてあるニャン」


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