第二十話:奥様と馬鹿には見えない服 後編
第二十話:奥様と馬鹿には見えない服 後編
「…残念ながら、私がこれ以上ご提供できるものは、奥様の生涯最後の、甘美なる絶頂…魂の昇天だけでございます」
そう言い放つと同時、暗殺者は獣のような雄叫びを上げ、虚無の刃を振りかぶり、奥様の華奢な身体へと一気に襲いかかった!
奥様は、その微笑みを崩さぬまま、鈴を転がすような声で叫んだ。
「あん子! もう、よろしくてよ!」
その言葉が、静寂を切り裂く号令となった。
刹那、天井が爆ぜ、黒い影が舞い降りた。
それは、先程部屋を後にしたはずのあん子だった。
彼女は、まるで重力を無視したかのように軽やかに暗殺者と奥様の間に着地すると、その勢いのまま、しなやかな猫のように地面をくるりと一回転した。
次の瞬間、両手に握られた食卓用のバターナイフが、暗殺者の急所目掛けて、嵐のような速度で繰り出された!
金属音が連続し、火花が散る。
あん子の動きは、普段のドジでおっとりとした姿からは想像もつかないほど鋭く、正確無比だった。
暗殺者は、辛うじてその猛攻を凌ぎ、数歩後ろへ飛び退いて距離を取る。
その顔には、驚愕と焦りの色が浮かんでいた。
「な、何故だ!? お前は確かにこの部屋から出て行ったはず…!それに、あの様子では、ただの馬鹿な小娘にしか見えなかったぞ!」
もはや暗殺者は、伊勢馬場の冷静沈着な口調を真似る余裕など微塵もないらしい。
「奥様が、何の理由もなく、この私にニャンニャンポーズの免除と、特別休暇をお与えになるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないニャン! その時点で、何かおかしいと気づくのが、奥様付きメイドの嗜みニャ!」
あん子は、バターナイフを逆手に構え直し、再び暗殺者へと猛然と切りかかる。
その体捌きは、まるで熟練の暗殺者のように洗練されており、いつも奥様と伊勢馬場に玩具にされている哀れな少女の面影はどこにもない。
現役を退いて久しいとはいえ、その爪と牙は、全くもって錆びついてはいなかったのだ。
「くっ…! お前のような小娘が、これほどの使い手だったとは…! 見誤ったわ!」
焦りを隠せない暗殺者だが、すぐに不敵な笑みを浮かべる。
「だが、小娘一人に遅れを取る私ではない! ここに拳銃があるのが見えるだろう?」
そう言って男は、虚空に手を差し出した。
あん子の瞳には、その手の中に、黒光りする重厚な回転式拳銃が確かに見えた。
暗殺者は、その「見えない拳銃」の引き金を、狂ったように何度も引いた!
バン!バン!バン!バン!バン!
実際には何の音もしないはずなのに、あん子の耳には、鼓膜を破るような轟音が鳴り響いているように感じられた。
あん子は、まるで新体操の選手のように、連続バク転を繰り返し、不可視の銃弾を紙一重で躱していく。
そして、近くにあった豪華なマホガニーのテーブルをひっくり返し、即席の防弾壁としてその裏へと滑り込んだ。
ゼェ…ハァ…と、あん子の荒い息遣いが聞こえる。
その横には、いつの間にか奥様が優雅に腰を下ろし、まるで観劇でも楽しむかのように、ほんの少し楽しげな表情で戦況を見守っていた。
「奥様! ちょっと、これはキツイにゃ! あの『見えない銃』めちゃくちゃニャ! もって、あと5分くらいニャ!」
「あら、そうなの? でもそんなに頑張らなくても大丈夫よ。そろそろ、私たちの有能な執事が大慌てでやって来るはずだから」
「え…?」
奥様の楽しげな言葉と同時に、部屋の天井が凄まじい轟音と共に崩れ落ちた!
舞い上がる瓦礫と砂埃の中、見慣れた漆黒の執事服を纏った影が、片膝をついてゆっくりと姿を現す。
その顔には、形容しがたいほどの悔しさと、奥様への申し訳なさがないまぜになった表情が浮かんでいる。
「奥様…! 大変、大変申し訳ございません…! この伊勢馬場、我が身の不覚、万死に値します…! いかなるお叱りも、いかなるお仕置きも、全て甘んじてお受けする所存にございます…! 我が魂魄、奥様の御心のままに…!」
その言葉は、まるで古の叙事詩の一節のように、重々しく、そして悲痛な響きを帯びていた。
「あら、伊勢馬場。今、このわたくしが何を求めているのかも分からないなんて…あなた、少し勘が鈍ったのではなくて?」
奥様は、楽しげな、それでいてどこか挑発的な笑みを浮かべ、悔しがる伊勢馬場を見つめる。
「はっ!…も、申し訳ございません! 奥様のお心、この伊勢馬場、しかと汲み取らせていただきます! 我が身、我が魂、全てを賭して、奥様の御前の穢れを祓いましょう!」
そういうと、伊勢馬場はゆっくりと立ち上がり、静かに、しかし圧倒的な威圧感を放ちながら、暗殺者へと向き直った。
「ば、馬鹿な! 我が組織が誇る能力者三人がかりで、お前の足止めをしていたはずだ! それに、お前は確かに隣町の偽の救出作戦に誘い出されていたはずだろうが!」
暗殺者の顔から血の気が引き、その声は恐怖に震えている。
伊勢馬場は、ただ黙って、暗殺者へと一歩、また一歩と歩み寄る。
その歩みは、まるで死刑執行人が断頭台へと向かうかのように、静かで、そして逃れられない運命を告げていた。
「こ、この! この『見えない拳銃』で死ねぇぇぇ!」
暗殺者は、咄嗟に再び「見えない拳銃」を作り出し、伊勢馬場に向けて乱射した!
しかし、伊勢馬場は歩みを止めることなく、そのしなやかな腕を、まるで正確無比の機械のように動かす。
パッ、パッ、パッ、と乾いた音が連続し、見えないはずの弾丸が、伊勢馬場の掌によって正確に受け止められた。
そして、すべての弾丸を受け止めると、拳を開き手の平に溜まった弾丸をパラパラと音を立てて床に落とす。
「そ、そんな…我が奥義、『虚無の弾丸』が…赤子の手をひねるように…」
暗殺者は震えながらも、すがるようにまた何かの切り札を構えようとした、が、その動きは、まるで金縛りにあったかのように静かに止められた。
その瞳には、絶対的な力の差を悟った者の、深い絶望の色が浮かんでいる。
次の瞬間、伊勢馬場の大振りの拳が、暗殺者の顔面スレスレを掠め、背後の空間に叩きつけられた。
ゴウッという凄まじい衝撃音と共に、後方の分厚い石壁に巨大な亀裂が走り、大穴が開く。
暗殺者は、その衝撃波だけで意識を失い、まるで操り人形の糸が切れたかのように、泡を吹いてその場に崩れ落ちたのだった。
やがて、騒ぎを聞きつけてやって来た屈強な衛兵たちによって、暗殺者は手際よく拘束され、連行されていく。
「奥様…この伊勢馬場、一生の不覚にございます。奥様を危険な目に遭わせてしまうなど…」
伊勢馬場は、奥様の前で深々と頭を垂れた。
その声には、深い深い自責の念が滲んでいる。
「うふふ、あなたほどの男を出し抜いてしまうなんて、お相手の方も、よほど知恵を絞り、多大な努力を重ねたのでしょうね。少しは褒めて差し上げてもよろしくてよ?」
奥様は、楽しげに伊勢馬場の肩を軽く叩いた。
「あはは…面目もございません」
いつもならば、ここで何か気の利いた冗談の一つでも挟み込んでくる伊勢馬場だったが、今日に限っては、まるで借りてきた猫のように大人しく、奥様の言葉を受け止めるだけであった。
よほど今回の失態にこたえているらしい。
そんな時、伊勢馬場が開けた壁の大穴から、一陣の涼やかな風が舞い込んできた。
その風に乗り、ひらひらと、例の「本当に馬鹿には見えない服」が、奥様の足元へと舞い降りてきた。
「やはり、『本当に馬鹿には見えない服』というのは、色々と厄介なものですわね」
奥様は、それを面白そうに拾い上げる。
「『馬鹿には見えない服』、でございますか? …ふむ、懐かしい響きでございますな。私の元の世界にも、そのような服が登場する古い古い童謡がございました」
伊勢馬場は、ふと遠い目をして、懐かしそうに目を細めた。
「あら、それは興味深いですわね、伊勢馬場。あなたの世界の『見えない服』は、一体どのような結末を迎えたのかしら?」
奥様は、その美しい琥珀色の瞳を好奇心にきらめかせ、伊勢馬場に視線を投げる。
が、伊勢馬場は、眉間の深い皺を指でグリグリと揉みほぐしながら、必死に記憶の糸を手繰り寄せているようだった。
「何分、遠い記憶の幼き頃に聞きかじったお話でございますから、記憶が曖昧でございますな。たしか、とある国の愚かな王様が、悪賢い仕立屋に騙されて、『馬鹿には見えない布』を高値で買い取りまして…」
奥様の目が、期待にキラキラと輝き始める。
「そして王様は、その『見えない布』で、城中の女中たちのための、新しい制服をお作りになり、城の男たちから絶大な人気と支持を得て、後の世まで『賢王』として、その偉大なる名を轟かせた…そのようなお話だった気がいたしますな」
奥様の瞳のキラキラが、一瞬にして、どよよんとした淀んだ光へと変わった。
伊勢馬場が開けた壁の風穴から、いくら爽やかな風が流れ込んできても、この部屋に漂う、何とも言えない微妙な空気を吹き飛ばすことは、到底できそうになかった。
あん子:「今回の私すごい活躍だったニャ!来てる! 間違いなく、私の時代が、すぐそこまで来てるニャン!!」
次回予告
ニコニコひまわり園ふたたび…




