第一話:奥様と二つの月
第一話:奥様と二つの月
琥珀と真珠、双彩の月が中天に懸かり、城館のテラスを幻想的に濡らしていた。
奥様は、その月光を一身に浴びながら、どこか遠くを見つめている。
その細い肩を夜風が心細げに撫でていく。
やがて、背後に静かな気配が満ちた。
「奥様、夜風が冷えてまいりました。こちらを」
音もなく現れた伊勢馬場が、滑らかな深紅のビロードで縁取られた肩掛けを、そっと奥様の肩にかけた。
その手つきは、まるで壊れ物に触れるかのように優雅で、けれど淀みない。
奥様は、双月を映す瞳をそのままに、吐息のような声で尋ねた。
「伊勢馬場…あなたのいた世界の夜も、こんなに寂しいのかしら…?」
「いいえ、奥様。私のいた世界の夜空には、月はただ一つでございました」
伊勢馬場は静かに答える。その声は、夜の静寂に溶け込むように穏やかだ。
「そう…。あなたの世界の夜には、きっと私は耐えられそうにないわね…」
奥様の頬を、月の光が一筋、涙のように伝った。
「たとえ月影が孤独を照らそうとも、そこには無数の小さな星々が、宝石のように瞬いておりました。…きっと、そういうものなのでございましょう」
伊勢馬場の言葉は、慰めとも諦観ともつかぬ響きを帯びていた。
しばしの沈黙の後、奥様は小さく頷いた。
「…そうね」
再び、言葉の途切れた時間がテラスを支配する。
やがて、奥様が絞り出すように呟いた。
「ねぇ、伊勢馬場…。あなたは…元の世界に、戻りたいの…?」
その声は、夜露に濡れた花のように震えていた。
伊勢馬場は僅かに目を伏せる。
「かつては、十日に一度ほどは帰参しておりましたが…。どうやら、向こうの肉体は眠っている間に死んでしまったようでございまして。もう、幾十年と戻れてはおりません」
「え…? あなた、履歴書には三十二歳と記していたわよね?」
奥様が驚いて振り返る。
その瞳には、隠せない動揺が浮かんでいた。
「はい。超一流の執事たるもの、主人より二歳ほど年嵩であるのが妥当かと愚考いたしまして」
伊勢馬場は、表情一つ変えずに答える。
「いやいやいや…! では、本当の年齢は? …本当は、何歳なの?」
奥様の追求するような声が、わずかに上ずる。
伊勢馬場は、ふと口元に微かな笑みを浮かべた。
「奥様。いかに美味なるお料理とて、隠し味がなければ深みは生まれませぬ」
その言葉に、奥様ははっとしたように目を見開いた。
そして、やがて悪戯っぽく微笑む。
「そうね。秘密という名のスパイスが、人生を豊かに彩るものね」
「うふふ…」
「あはは…」
奥様の可憐な笑い声と、伊勢馬場の低く柔らかな笑い声が、夜のしじまに溶け合い、いつまでも、いつまでも響き渡るのであった。
寂しかったはずの夜は、二人の笑声に温かく包まれていく。
あん子「いや、お前が料理なら材料全部隠し味じゃん」
補足情報
奥様 色気がすごい。泣きほくろとかある。
伊勢馬場 見た目はちょっとだけ小太りの普通のおっさんです。イケメンではありません。
かつては現実世界の肉体が寝ている間、精神だけがこっちの世界にやってきていた。
が、現実世界の肉体が死んだ為、精神が戻れずこっちの世界から帰れずにいる(あまり年取らない)
あん子 本名では無い、暗殺しに来た子だから、あん子(猫系の獣人)
世界感 この世界には三つの月がありどれかの月が少なくとも一つは夜空にある。