第十八話:奥様と忘却のシグネットリング
第十八話:奥様と忘却のシグネットリング
奥様はゆっくりと瞳を開いた。
目の前に広がるのは、どこまでも続く瑠璃色の海。
空には太陽が眩しく輝き、その力強い光が海面に金の鱗粉を撒いているかのようだ。
空を泳ぐのは鳥か、あるいは幻獣か、純白の優美な生き物が「ミャア」と鳴きながら、虹色の軌跡を描いて飛び去っていく。
頬を撫でる潮風は、どこか甘い花の香りをかすかに含んでいた。
「奥様、そろそろお時間でございます」
背後から、影のように控えていた伊勢馬場が、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げる。
「伊勢馬場…どうしても、行かねばなりませんか?」
名残惜しそうに振り返る奥様。
風に煽られたそのお姿は、陽光を背に受け、どこか儚げな一枚の絵画のようだった。
その目には、帰りたくないと訴えかける子供のような光が宿っている。
伊勢馬場は、悲しげに、しかし断固として首を横に振った。
「左様でございます、奥様」
「そう…」
奥様の白い肩が、寂しげに落ちる。
「ねぇ、伊勢馬場。覚えております?昨夜、わたくしが手紙を書いていた時のことを」
「はい、覚えておりますとも。わたくしとしたことが、奥様の重要な手紙にインクの染みを作るという、万死に値する失態を演じてしまった、あの夜のことでございますね」
伊勢馬場は、今思い出しても痛恨の極みといった面持ちで、僅かに眉を下げた。
「ふふ、違いますわ。あの時、たった一滴のインクのために、あなたがこの世の終わりのような顔をして青ざめるのが…なんだかとても愛おしくて。わたくし、久しぶりにあんなに心から笑ってしまいましたもの。ありがとう、伊勢馬場」
そう言って微笑む奥様の脳裏には、いつもは有能な執事が、ペン先から滑り落ちた小さな黒い雫にうろたえ、人間らしい狼狽を見せた、あの静かな夜の光景が鮮やかに浮かんでいた。
遠くで、再び海鳥が鳴いた。その声は、二人の穏やかな思い出を祝福するかのようだ。
「ふふ、昨夜のあなたもそう。完璧であろうと努めることは尊いけれど、時には過ちを犯してしまうのが人間というもの。そして、その過ちを優しく受け入れる寛容さを持つことこそ、人の心の美しさというものなのでしょうね」
奥様は、領主としての気品を保ちながら伊勢馬場を見つめる。
伊勢馬場は、恭しく一礼すると、静かに、しかし冷徹な光を瞳に宿して返した。
「奥様の慈悲、痛み入ります。わたくしのような者の些細な過ちをお許しくださるとは。ですが奥様、これから果たされるのは、過ちの償いではございません。ご自身の言葉に違わぬ、領主としての気高き『約束』の履行でございます」
伊勢馬場は静かに目を閉じた。
脳裏に蘇るのは、数日前の、あの嵐のような午後の出来事だ。
執務室の空気は、張り詰めた弦のように震えていた。
奥様が、普段の優雅さとはおよそかけ離れた様子で、自らの執務机の周りを苛立たしげに行き来している。
上質な絹のドレスの裾が、彼女の焦りを映すかのように乱れていた。
「あり得ませんわ…どこにも…どこにもないなんて…!」
金の装飾が施された引き出しが無造作に開け放たれ、羊皮紙の書類が小さな雪崩を起こす。
奥様は、か細い指で髪をかきむしり、その琥珀色の瞳には焦燥の色が浮かんでいた。
「伊勢馬場、わたくしの領主の指輪がございませんことよ!常にこの指にあるべき、アマルガム家の紋章が刻まれたあの指輪が!あれがなければ、明日の条約の調印で封蝋ができません…!早くお出しなさい!」
奥様の声は、切迫して鋭い。
彼女は、部屋の隅で静かに佇む伊勢馬場を、縋るような、それでいて詰問するような眼差しで射抜いた。
対する伊勢馬場は、表情一つ変えず、奥様が乱した書類を一枚拾い上げ、そっと机の上に戻しながら、恭しく首を垂れた。
「奥様、なんのことでございますか?わたくしは、その指輪には本日一度も触れてはおりません」
「そんなわけないわ!わたくしの机に触れることを許されているのは、あなたしかいないのですもの!よく思い出してごらんなさい!あなたのその完璧な記憶力で!」
奥様の指先が、ビシッと伊勢馬場に向けられる。
しかし、伊勢馬場は動じない。
「申し訳ございません、奥様。ですが、わたくしの記憶に間違いはございません。本日、指輪をお預かりしたという事実は、ございません」
そのあまりにも落ち着き払った態度が、かえって奥様の感情を煽った。
「なんですって?では、このわたくしが、うっかりどこかに置き忘れたとでも言いたいの?この、アマルガ-ム家の領主たるわたくしが!そのような初歩的な失態を犯すとでも!?」
奥様は、悔しさに唇を噛みしめる。
「いいでしょう!そこまで言うのなら、約束して差し上げますわ!万が一、万が一にも、このわたくしの不手際であったならば…そうね、あの忌まわしき『変質者B』の格好で、バンジージャンプでも何でもして差し上げますわ!!」
奥様が、机をバンと叩いて高らかに宣言した、まさにその時であった。
ひょこり、と執務室の扉から顔を覗かせたのは、メイド服姿のあん子だった。
その手には、掃除用の雑巾と、そして…問題の、アマルガム家の紋章が刻まれた豪奢な『領主の指輪』が握られていた。
「奥様ー!トイレの洗面台に指輪、置き忘れてるニャン!大事なものニャン!忘れたら駄目ニャン!」
純真無垢な瞳で、あん子は誇らしげに指輪を掲げる。
時が、止まった。
執務室を満たしていた緊迫の空気は、あん子の間の抜けた一言で霧散し、代わりに気まずい沈黙が降りてくる。
奥様の顔が、怒りの赤から、驚愕の白へ、そして絶望の青へと見事に色を変えていく様を、伊勢馬場はただ黙って見つめていた。
その唇の端が、ほんの僅かに、本当にごく僅かに持ち上がった事に気が付いたものは誰も居なかった。
伊勢馬場は、ゆっくりと目を開いた。
目の前には、断崖の淵でうずくまる、哀れな奥様の姿。
過去は変えられない。
そして、約束は、守られねばならない。
「では、奥様。そろそろ、行っていただきましょうか。さぁ!レッツ・バンジー!でございます!」
伊勢馬場が、有無を言わせぬ優雅さで、断崖の淵へと奥様を促す。
「いやよ!いやよ!謝りますから!あの時はどうかしていましたの!どうかご容赦を!」
その場にうずくまり、膝をぎゅっと抱え込み、テコでも動かぬという強い意志を示す奥様。
その頭には哀愁漂うバーコード模様のカツラ、顔には大きな丸いレンズの鼻眼鏡、そしてそのお姿は、くすんだ色の腹巻と股引という、およそ領主とは思えぬ滑稽な出で立ち、足には罪人の足かせのようにバンジージャンプ用のゴムがしっかりと括り付けられていた。
そう、彼女は今日、最初からあの忌まわしき『変質者B』の姿だったのである。
その瞳には、先程までの気品はどこへやら、涙が浮かんでいた。
伊勢馬場は、心底悲しそうな顔をしながら、懐からビロードの小箱を取り出した。
それは、極上の指輪でも収められているかのような、高級感あふれるケースだ。
彼が、うやうやしくその蓋を開ける。
しかし、現れたのは、ケースとはおよそ不釣り合いな、安っぽい素材の赤いボタンだった。
「伊勢馬場ぁっ!!まさか!」
奥様の顔から血の気が引く。
「ご明察でございます、奥様。こんな事もあろうかと、以前よりこの崖に仕込ませていただいておりました、この伊勢馬場渾身の『悪の組織の床パッカリシステム』でございます!」
全てを悟った奥様が、最後の抵抗とばかりにその場を離れようと足に力を込めた、その瞬間。
「ポチっとな!でございます」
伊勢馬場の指が、ゆっくりと、しかし確実に赤いボタンを押し込んでいくのが、奥様にはスローモーションで見えた。
足元の岩盤が音もなく開き、眼下に広がる、吸い込まれそうな紺碧の闇。
「んぎゃああぁぁぁぁぁぁっ!!」
普段の奥様からは決して想像もつかない、素の絶叫が、美しい渓谷にいつまでも、いつまでも響き渡った。
伊勢馬場は、奥様の絶叫を遠くに聞きながら、胸ポケットから小さな革張りのメモ帳を取り出すと、「やりたいことリスト」の中の「悪の組織の床パッカンの刑を執行する」という項目に、優雅な筆記体で、そっとチェックを入れるのであった。
あん子:「奥様が終わったら、私もバンジージャンプやらせてもらうニャン!」
次回予告
奥様の元に、あの有名な服が届けられるたようです。