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第十五話:奥様とニコニコひまわり園 前編

第十五話:奥様とニコニコひまわり園 前編


 奥様は深く悩んでおられた。

 窓辺に置かれた深紅の薔薇が、月光を浴びて妖艶な影を落とす。

 その花弁に宿る夜露のように、奥様の瞳もまた、憂いを帯びて潤んでいた。


 この世界は万華鏡のように煌めいているが、光が強ければ強いほど、影もまた濃く、深く、その輪郭を際立たせる。

 いかに心血を注ぎ、闇に聖なる光を投げかけようとも、闇はまるで意思を持つかのようにするりとその手を逃れ、世界のどこか、より深い淵で再びその黒々とした口を開くのだ。

 日々、冷たい数字として報告される犯罪の数々は、奥様の心を鋭い刃物のように切り裂いていた。


「奥様、またお顔の色が優れませんな」

 絹のカーテンの隙間から差し込む月明かりが、奥様の白い頬を照らす。

 心配そうに声をかけたのは、忠実なる側近、伊勢馬場であった。

 彼の声は、夜の静寂に溶け込むように穏やかだ。


「伊勢馬場…」

 奥様は、か細い指でこめかみを押さえる。

 

「憲兵たちは日夜、身を粉にして働いてくれているわ。それは痛いほど分かっているの。けれど、この数字はどうでしょう。まるで嘲笑うかのように、減ることを知らない…」

 その声は、夜風に揺れる鈴の音のように儚い。


「これは…これはもはや、人の心に巣食う、純粋な悪意、神がお与えになった原罪なのではないかしら…」

 そう語る奥様の瞳には、底なしの闇を覗き込んだかのような、空恐ろしいものが映っていた。

 伊勢馬場は静かに首を横に振った。

 磨き上げられた床に、彼の影が長く伸びる。


「奥様、貴方様は既によくやっておられます。現に、他の領と比較しても、このアマルガム領の犯罪係数は著しく低い。これは紛れもなく、奥様がこの地を治めるようになってからの偉業でございます」

 彼の言葉は、揺るぎない確信に満ちている。


「人の心の闇が、仮に神に定められた逃れられぬ業の一つだとしても、我々人類は、遠い昔から、もがき苦しみ、血を流しながらも、その業と向き合い、一歩ずつ、本当に僅かずつではありますが、その重き鎖を解きほぐしてきたのです。これまでも、そして、これからも…」

 伊勢馬場の言葉に、奥様はハッとしたように顔を上げた。

 その瞳に、微かな光が宿る。


「そう…そうね。私一人の代で、この戦いが終わるわけではないわ。私の後にも、この不毛とも思える戦いを引き継ぐ者たちがいる…」

  奥様の指が、窓枠に置かれた冷たい大理石の感触を確かめる。


「今すぐ結果が出なくても良いのね。私は、後に続く者たちに、決して恥じることのない生き様を見せていけば良いのだわ。たとえそれが、一時的な失敗に見えたとしても、その経験はきっと、未来を担う者たちへの確かな勇気に変わってくれるはずだから」


 奥様の瞳に、再び力強い光が灯った。

 それはまるで、夜明け前の最も暗い空に輝き始める明星のようだ。

 それに応えるかのように、伊勢馬場の瞳にもまた、静かな決意の光が宿る。

 その夜の会議は、白熱し、双子の月が西の空に傾くまで続いたという。



 薄暗い護送車の中、一人の男「黒曜こくようのボルカ」が、ふてぶてしい態度で座っていた。

 その首筋には、おどろおどろしいドラゴンの刺青が、まるで生きているかの如くのたうっている。


 彼が送られる先は、かつて「カタコンベ」と呼ばれた重犯罪者専用収容施設。

 そこは、一流の悪党たちが己の「格」を上げるための試練の場であり、無事に出所した暁には、悪としてのより一段高みへと登るための「冥府の洗礼」を受けたと見なされる、裏社会におけるある種の聖地であった。

 今もなお、数多の凶悪犯罪者をその冷たい腹の内に潜ませている、地獄の一丁目と噂される場所だ。


 護送車が停止し、重々しい鉄の扉が開かれる。

 脱走防止の為に突き出されてた忍び返しの槍たちが、まるで鋼の獣の乱杭歯のようだ。

 ボルカは刑務官たちに引きずり出されながらも、その態度は変わらない。


「ククク…威勢が良いな、新入り。だが、その威勢もいつまで続くかな?」

 刑務官の一人が、嘲るように言った。

 その口元には、獲物をいたぶる猫のような笑みが浮かんでいる。


「へっ!俺様は泣く子も黙る『冥府魔道ヘルズ・ロード』の特攻隊長、黒曜のボルカだぜ!誰一人として、俺様の心の牙をもぐことなんざ出来やしねぇ!このカタコンベでの試練も、俺様の伝説に新たな1ページを刻むだけだ!」

 ボルカは、錆びた鉄格子を睨みつけ、不敵に笑う。

「ククク、その威勢、いつまで保つか見ものだな。ようこそ…ニコニコひまわり園へ!」


「……へ? カタコンベじゃないの? 」


 ボルカは思わず間抜けな声を上げた。

 聞き間違いかと思い、刑務官に問いただす。

 その顔には、初めて見る種類の困惑が浮かんでいた。


「ああ、それは半年前までの話だ。領主様直々のご指示により、半年前からここは『ニコニコひまわり園』に改名されたのだ! ククク!」

 刑務官は、まるで極上の冗談でも聞かせるかのように、肩を震わせている。


「クッソ、ダッセェェェェ!!」


  ボルカの絶叫が、薄汚れた壁にこだました。

 その声には、先程までの威勢は微塵も感じられない。


「そうだ、クソダサいだろう? だがな、お前がここから出所する時、お前は晴れて『ニコニコひまわり園』の輝かしい卒園児となるのだ!一流の悪としての箔も、地に落ちるというわけだ!」

 ボルカの背筋に、今まで感じたことのない種類の、ぞっとするような冷たいものが走った。

 それは、物理的な痛みよりも深く、魂を直接削り取るような恐怖だった。


「ほぅ、気がついたようだな。そうだ、今からこの中で貴様を待つのは、楽しい3時のおやつ、心温まる絵本の読み聞かせ、みんなで歌うお歌のお稽古、エトセトラ、エトセトラ…」 「そ、そんな…そんなことが許されるというのか!?俺たちは悪党だぞ!?」

 ボルカの声は、もはや悲鳴に近い。


「許されるも何も。以前は鞭や警棒で貴様らを『指導』していたがな。それに比べて今はどうだ? ククク…」

 刑務官の顔には、サディスティックな笑みが深々と浮かんでいる。

 それは、獲物の最も柔らかい部分を見つけた捕食者の笑みだった。

 男の顔はみるみるうちに青ざめていく。


「お前も刑期が明け、シャバに戻った暁には、世間様から『ニコニコひまわり園卒園者』として、そして『冥府魔道』の可愛い部下たちに、さぞや温かく、そして憐れみの目で見守られながら迎え入れられることだろうよ!お前の悪としての格も、地に落ちるというわけだ!」 「や、やめろ!もっと酷い扱いでいい!頼むから、カタコンベに戻してくれぇぇ!!拷問でも何でも受けてやる!!」

 ボルカは、生まれて初めて、心の底から懇願した。


「ククク! 抗ってみせろ、出来るものならな! おい! こいつにお遊戯服――ピンクのうさぎちゃんデザインのやつだ――を用意しろ! そして、ワンワン組へ連れて行け!」

「離せ!離しやがれぇぇぇ!!俺は黒曜のボルカだぞぉぉぉ!!」

 

 部下の刑務官たちが、暴れるボルカを取り押さえ、まるで地獄の化け物の顎のように大きく開いた鉄格子の向こうへと引きずっていく。

 ボルカの悲鳴は、分厚い壁の向こうに吸い込まれ、やがて聞こえなくなった。

 まるで、巨大な獣が獲物を丸呑みにしたかのように。


 一人残った刑務官の男は、深く、そしてとびきり苦い煙草を肺一杯に吸い込んだ。

 胸には「園長代理 くまさん」と書かれた可愛らしい動物のネームプレートが、薄暗がりの中で不気味なほどに光っている。

 吐き出した紫煙は、まるで嘆きの魂のようにゆらゆらと天井へと昇っていく。


(奥様…なんという恐ろしく、そして底の知れないお方だ…)


 これまで、あの手この手で凶悪な犯罪者たちと戦ってきた。

 どれほど強靭な鞭を振るい、どれほど法のギリギリを攻めた尋問を繰り返しても、彼らの心の奥底に潜む獣の牙を完全に折り切ることは叶わなかった。


  だが、この「ニコニコひまわり園」が始まってまだ半年も経っていないというのに、この地獄と呼ばれた監獄の空気は、明らかに変わりつつあった。

 絶望ではなく、別の種類の、もっと根源的な恐怖が支配し始めている。

 名前と方針を変えただけ。

 余計な経費もかかっていない。

 むしろ、この試みが成功すれば、大幅なコスト削減に繋がる可能性すらある。


 これが、為政者の深遠なる計算なのか、それともただの気まぐれなのか。

「園長代理 くまさん」は、吐き出した紫煙の行方を目で追いながら、ただ静かにその答えを探し続けるのであった。

 その表情は、長年連れ添った妻に先立たれた時よりも、さらに深い苦悩を湛えていた。



 あん子:「私、このニコニコひまわり園より酷い辱めを、日々奥様から受けてる気がするニャン…」


アイフォンからアンドロイドに乗り換えたけど

なじまない記念での投稿

もう一度買いなおすのはバカバカしいけど、どうすんだこれ?


次回予告

ニコニコひまわり園の恐るべき秘密が明かされるかも?


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