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第十二話:奥様と至高の晩餐(ざまぁ味)後編

第十二話:奥様と至高の晩餐(ざまぁ味)後編


 料理長の命を賭した宣言と、それを静かに肯定する奥様、エヴァ・アマルガムの放つ凄まじい気迫。

 晩餐の間に座す者たちは、もはや高みの見物どころか、抜き身の真剣を突きつけられたかのような極度の緊張感に支配されていた。


 先程までの好奇心は恐怖に変わり、誰もが息を潜め、これから何が起こるのかと身を硬くしている。

 それはまるで、二何の準備もなく剣の達人の前に引きずり出され、木刀片手に「試合開始!」と宣告された罪人の心境に近いかもしれない。

 奥様を筆頭に、その背後に控えるメイドの一人一人に至るまで、その瞳には揺るぎない覚悟の色が宿っていた。


 この場の空気は、もはや料理の試食会などという生易しいものではない。

 まさに、威信と命を賭けた決闘の場であった。

 その張り詰めた空気の中、給仕たちが静かに、しかし一糸乱れぬ動きで、各テーブルの銀のクロッシュへと手を伸ばす。そして――。


 一斉にクロッシュが持ち上げられた瞬間、凝縮されていた香りが爆発するように解き放たれた。

 それは、いまだかつて誰も経験したことのない、芳醇かつ深遠、そして官能的ですらある香りであった。


 星屑茸の神秘的な土の香りと、アンギャラス・マチュアードが持つであろう凝縮された旨味の香りが複雑に絡み合い、嗅覚を刺激するだけでは収まらず、脳髄を直接揺さぶるかのような衝撃を与える。


 広間にいた人々は、その香りを吸い込んだ途端、まるで美しい幻覚を見ているかのような陶然とした表情を浮かべた。

 ある者はうっとりと目を閉じ、ある者は天を仰いで恍惚の溜息を漏らし、またある者は、頬に一筋の涙を伝わせながら、ただただその場に立ち尽くす。

 それはまさしく、料理の域を超えた、魂に訴えかける芸術であった。

 そんな中、ただ一人、その感動の輪から外れた者がいた。


「ふ、ふざけるなッ!!!」

 怒りと絶望、そして裏切られたという激情がないまぜになったアノン赤爵の絶叫が、夢見心地だった広間の空気を切り裂いた。


 何事かと人々が彼に注目すると、アノン赤爵の目の前の皿には、美しく磨き上げられてはいるものの、肝心の料理が影も形もなかったのである。

 あるのは、空虚な純白の陶器だけ。


 アノン赤爵は、顔を真っ赤にしてわなわなと震え、今にも泣き出しそうな、しかしそれ以上に怒りに燃える瞳で奥様を睨みつけた。


「ど、どういうことだ、エヴァ・アマルガムッ!?ワシの皿には、料理が、料理が無いではないかッ!約束が違う!断じて約束が違うぞッ!!」

 その声は、彼がかつてこれほどの大声を出したことがないのではないかと思われるほどの凄まじい声量で、部屋中に響き渡った。

 これほどまでに期待感を高められ、美食家としての魂を揺さぶられた挙句のこの仕打ちは、彼にとって筆舌に尽くしがたい屈辱であった。


 しかし、奥様は少しも動じない。それどころか、その美しい唇に、薄く、そしてどこか楽しげな笑みを浮かべて、小首を傾げた。


「あら? いかがなさいましたの、アノン赤爵? 何か問題でも?」

 その声は、春の小川のせせらぎのように穏やかだが、アノン赤爵にとっては悪魔の囁きにも等しかった。


「も、問題でも、だと…!?しらばっくれるな!ワシの料理はどうした!この、アマルガム家の女狐め!」

「あらあら、言葉がお悪いこと。どういうことだも何も、私は確かにアノン赤爵に『究極の料理をお見せします』とは申しましたけれど、ただの一言たりとも『ご馳走します』などと申した覚えはございませんわ? うふふ」

 奥様の言葉に、アノン赤爵は完全に絶句した。

 その顔は怒りから一転、信じられないという表情で奥様を見つめ、やがてわなわなと震え始めた。


「ば、馬鹿にするのも…いい加減に…しろぉぉぉっ!!」

  怒りのあまり、アノン赤爵の顔はもはや茹でダコを通り越して、憤怒の溶岩のように赤黒く変色している。

 その太い首筋には血管が浮き上がり、今にもはち切れんばかりであった。

 その様は、憤怒の形相もかくやというほどに、凄まじいものであった。


 逆上したアノン赤爵は、傍にあった銀の水差しを掴むと、奥様めがけて投げつけようと振りかぶった!

 その瞬間、奥様の背後に控えていた伊勢馬場の空気が変わった。

 発情期のチンパンジーの腰使いで見えない糸を操って、飛来してくるであろう水差しを見えない糸を絡めようとしたのだ。


 次の刹那!

 伊勢馬場の珍妙な舞が本格的に始まるよりも早く、アノン赤爵の振り上げた腕が、まるで不可視の力に絡め取られたかのように空中でピタリと止まった。

 彼の顔には苦悶の色が浮かび、どれだけ力を込めようとも、腕は微動だにしない。

 何が起きたのか理解できず、ただ目を見開く赤爵。


 奥様や他の客たちも、一瞬何が起こったのか分からず、伊勢馬場の動き出しの奇妙な気配と、赤爵の突然の硬直を交互に見るばかりであった。


 ただ、伊勢馬場だけは、天井の梁の暗がりに、ほんの一瞬、数匹の小さな、黒曜石のような輝きを放つ蜘蛛たちが、音もなく赤爵の腕に極細の糸を絡め取り、そして再び闇に消えるのを目撃していた。

 それは、深淵の狩人の眷属たちであった。狩人もまた、どこか遠い場所から、あるいはその小さな蜘蛛たちの目を通して、この晩餐の顛末を静かに観察しているのかもしれない。


「あら?わたくし、何か間違ったことをしてしまいましたかしら?皆様、何か心当たりはございますこと?伊勢馬場、あなたはどう思う?」

 少しだけわざとらしく、しかし有無を言わせぬ威圧感を込めて問いかける奥様に、伊勢馬場は(内心の安堵と、ほんの少しの出番を奪われたような複雑な感情を完璧に隠しつつ)恭しく一礼し、淀みなく答えた。


「いえ、エヴァ様のお言葉に、一点の曇りもございません。それは、あの日あの場におられました全ての皆様が、明確にご記憶されておられることと確信いたします」

 伊勢馬場の言葉と同時に、アノン赤爵の腕から力が抜け、水差しが床に落ちて甲高い音を立てた。赤爵は、ぜえぜえと肩で息をしながら、もはや何が何だか分からないといった表情で、奥様と伊勢馬場を交互に見る。


「そうよね、良かったわ、安心した。――ところで、アノン赤爵、いかがでしたでしょうか?わたくしが全身全霊をかけてご用意いたしました『究極の一品』の香り、そしてその存在感は。お気に召していただけましたかしら?どうやら、先程は感動のあまり、涙までお流しになられていたご様子。きっと、ご満足いただけたのでしょうね?」

 奥様のその笑顔には、先程までの遊ぶような色合いは消え、代わりに氷のような凄みが加わっていた。


「ご安心くださいませ、アノン赤爵。ちゃんと、あなたの分の料理もご用意はしておりますわ。…ただし」

 奥様は、そこで一度言葉を切り、その鋭い琥珀色の瞳でアノン赤爵を射抜いた。


「あなたは、このわたくしと、歴史あるアマルガム家を『成り上がりの小娘』と貶め、我が料理長が魂を込めてお出しした料理を『残飯』と言って、その食材の価値すら理解しようとせず唾棄し、そして何より、この地で懸命に生きる私の大切な領民たちの誇りを侮辱なさいました」

 その声は静かだが、一つ一つの言葉が重く、アノン赤爵の心に突き刺さる。


「まずは、その三つの大罪に対し、この場で、心の底からの謝罪をなさい。そして、この私と、アマルガム家、料理長、並びに全領民に対し、二度とそのような不遜な態度を取らないと、神に誓いなさいな」

「……ッ!!き、貴様ごとき小娘の戯言に、このワシが…!」

 アノン赤爵は、屈辱に顔を歪ませながらも、最後の抵抗を試みようと声を絞り出す。しかし、奥様は冷ややかに言い放った。


「戯言、ですって?では、この『アンギャラス・マチュアード』は、永遠に貴方の口に入ることはございませんわね。皆様は、この後、歴史に残るであろうお料理を堪能なさいますのに、美食家としてそれを指を加えて見ているしか無いなんて…本当にお可哀想」


 その言葉に、周囲の貴族たちは、先程までの恍惚とした表情から一転、アノン赤爵を冷ややかな目で見つめ始めた。

 究極の料理を前にして、アノン赤爵の傲慢さに付き合う気は、誰にもなかったのだ。

 アノン赤爵が他の赤爵に助けを求めるように視線を送るが、彼らは気まずそうに目をそらすか、あるいは奥様の威光に恐れをなしてか、ただ黙り込んでいる。

「あなたの心からの誠意を見せてくれれば、この『アンギャラス・マチュアード』を食す権利を差し上げてもよろしくてよ?」


 奥様の言葉は、甘美な罠のようにアノン赤爵に囁きかける。

 アノン赤爵の顔は、怒りと屈辱と、そして抗いがたい食欲とで、赤くなったり青くなったりを繰り返している。

 彼が何かを叫ぼうと大きく口を開きかけた、その刹那――。


「私たちは、この一皿に、赤爵である私の進退と、この奇跡の料理を作り上げた料理人の腕と舌、その料理人生命そのものを賭けましたわ。アノン赤爵、あなたはこの『アンギャラス・マチュアード』を食するにあたり、一体、何を賭けてくださいますの?」

 奥様のその言葉は、決定的な一撃となってアノン赤爵に叩きつけられた。


 彼の口から、もはや意味のある言葉は出てこない。

 ただ、はくはくと酸素を求める魚のように、虚しく唇を動かすだけであった。


 しばらくの葛藤の末、アノン赤爵は涙と共に、絞り出すような声で、屈辱にまみれた謝罪の言葉と、二度と非礼を働かないという誓いの言葉を、床に頭を擦り付けるようにして述べたのである。

 その姿は、もはや赤爵の威厳など微塵も感じさせない、哀れなものであった。



 夜も更け、喧騒が過ぎ去った執務室。

 窓の外には双子の月が静かに輝き、室内に柔らかな光を投げかけている。


 奥様は、長椅子にゆったりと身を預け、満足げなため息を漏らした。

 傍らには、いつものように完璧な所作で紅茶を淹れる伊勢馬場の姿がある。

 先程までの晩餐の興奮と緊張が嘘のように、穏やかな時間が流れていた。


 伊勢馬場は、奥様に紅茶を差し出しながら、ふと先程の晩餐での出来事を思い返すように、しかしあくまで独り言のように呟いた。

「それにしても、奥様。先程、ほんの少しだけ味見をさせていただきました『アンギャラス・マチュアード』…あれは、実に見事なお味でございましたな。深淵の狩人…いえ、我が友の協力の賜物とはいえ、まさに究極の一皿と呼ぶにふさわしい。生涯忘れ得ぬ感動を賜りました」

 その言葉に、奥様は悪戯っぽく微笑んだ。


「あら、伊勢馬場。確かに、あれは筆舌に尽くしがたいほど美味ではあったけれど…でも、わたくしにとっては、あれは生涯で二番目に美味しかった料理だったわ」

「ほう…? 奥様、それは意外なお言葉。もし差し支えなければ、あの『アンギャラス・マチュアード』を超える至高の一品とは、一体どのようなものか、この伊勢馬場にお教え願えますでしょうか?」

 伊勢馬場の問いに、奥様はうふふと可憐に笑うと、彼の目をじっと見つめて言った。


「わたくしにとって、一番美味しかった料理はね…あの日、あなたが作ってくれた、あのポムポム草のポタージュよ」


 それを聞いた瞬間、伊勢馬場はハッと息を呑み、全ての言葉を飲み込んだ。

 彼の脳裏に、あの絶望の逃避行の日々、そして、傷だらけの手で差し出した温かなスープの記憶が鮮やかに蘇る。


「あはは…それは、ようございました。この伊勢馬場、奥様の今のお言葉、生涯忘れることはございませんでしょう」

  彼の完璧な執事としての仮面が、ほんのわずかに揺らぎ、その目じりには、月の光を受けてきらりと光る、一粒の涙が浮かんでいた。


 奥様の玲瓏な笑い声と、伊勢馬場の低く、しかし温かな笑い声が、再び執務室に響き渡る。

 それは、どこまでも心地よく、そして優しく、その場の全てを包み込んでいくのであった。



 あん子「今回は本当に無理!!有給使ってやる!!絶対!使ってやるから!!」


書ききった、自分なりのざまぁを形にできたと思います。

ありがとう、すべてにありがとう。


次回予告

奥様は盤上遊戯ボードゲームをするようです

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