第十話:奥様と至高の晩餐(ざまぁ味)前編
第十話:奥様と至高の晩餐(ざまぁ味)前編
静まり返っていたはずの壮麗な晩餐室に、突如として雷鳴のような怒号が轟いた。
「シェフを呼べッ!この料理を作ったものを、今すぐワシの前に引きずり出せ!」
声の主は、上座にふんぞり返るアノン赤爵。
その顔は憤怒で真っ赤に染まり、額には青筋が浮き出ている。
銀食器が虚しく輝くテーブルには、手つかずの料理が並んでいたが、そのうちの一皿は無残にも床に叩きつけられ、見るも無惨な残骸を晒していた。
晩餐に陪席していた領主館の重臣たちは息を呑み、誰もが次の瞬間に何が起こるのかと固唾を飲んで見守る。
空気は張り詰め、まるで薄氷の上を歩くような緊張感が支配していた。
ややあって、厨房から現れたのは奥様専属の料理長であった。
年の頃は五十代、長年厨房を預かってきたであろうその男は、普段の自信に満ちた姿は見る影もなく、血の気を失い、まるで絞首台へ向かう罪人のように青白い顔で足元もおぼつかない。
アノン赤爵は、その哀れな料理長を一瞥するや、テーブルに残っていた一皿――繊細な盛り付けが施された魚料理――を乱暴に掴むと、躊躇うことなく料理長の顔面めがけてぶちまけた。
ソースと魚の身が、料理長の白いコックコートと顔に飛び散り、無残な染みを作る。
「ぐっ…!」
料理長は短い呻き声を上げ、屈辱と恐怖に震える。
しかし、声を発することも、身動き一つすることもできない。
「こ、これは…!」
「なんという暴挙…!」
唖然とする一同から、か細い驚愕の声が漏れる。
誰もがアノン赤爵のあまりの狼藉に言葉を失っていた。
「この料理はなんだ!ワシの目と舌を汚すにも程があるわ!こんな残飯をワシに食えと言うのか!」
まるで活火山の噴火のように喚き散らすアノン赤爵。
その唾棄すべき言葉の刃が、晩餐室の華やかな装飾を切り裂いていく。
その時、凛とした声が響いた。
「いかがなさいました、アノン赤爵?何かお気に召さないことでもございましたでしょうか」
声の主は、この領地の若き女領主、奥様であった。
彼女は席を立ち、アノン赤爵の前に進み出ていた。
その表情は平静を装いながらも、柳眉は微かに寄せられ、琥珀色の瞳の奥には怒りの炎が静かに揺らめいている。
「ふん!小娘が!ワシを愚弄するのも大概にせよ!何だこの料理は、芋や草ばかりではないか!肉が出たかと思えば、そこらの市場で売っているような庶民が食らう安物!これほどまでにワシをコケにするとは、良い度胸だ!」
どうやら、アノン赤爵は、料理に使われている材料がことのほかお気に召さなかったらしい。
美食家としてその名を轟かせ、一度の晩餐で小城が建つほどの金銭を湯水のように使うと噂されるほどのアノン赤爵にとって、この質素とも言える料理は、侮辱以外の何物でもなかったのだ。
しかし、実際には領内で採れる最高の食材を厳選し、丹精込めて調理されたどこに出しても恥ずかしくない、それどころか、食通で知られる帝都の紳士淑女たちですら、その繊細かつ深遠な味わいに感嘆の声を漏らしたであろうほどの逸品であった。
彼は奥様を侮蔑の眼差しで見下ろし、嘲るように言葉を続ける。
「やはり、栄光ある我らが赤爵家の席に、お前のような成り上がりの小娘には荷が重すぎるわ!お前がしがみついておるその席は、伝統と格式を解する真の貴族にこそふさわしいのだ!」
奥様の背筋が、ぴんと伸びる。
「お言葉ではございますが、アノン赤爵。今回の貴殿の非公式なご訪問に際し、私どもは様々な無理を承知の上で、出来うる限りの便宜を図らせていただきました。この晩餐も、その一つにございます。それにも関わらず、この仕打ちはあまりといえばあまりなものではございませんか!」
その声は震えることなく、しかし確かな怒気を含んで晩餐室に響き渡った。
「ふん、これだから田舎貴族の小娘は困る!貴族たる者、いついかなる時も万全の態勢で客人を迎えるもの!その者の器量は、このような予期せぬ些少の混乱にこそ浮き彫りになるのだ!僅かな手違いで、このような粗末な料理しか出せぬとは…この領も、そしてお前という小娘の器も、所詮はその程度ということよ!先が見えておるわ!」
アノン赤爵は、せせら笑いながら奥様を指差す。
奥様の琥珀色の瞳が、カッと見開かれた。
その鋭い眼差しが、アノン赤爵を射抜く。
「――よろしいでしょう。そこまで仰せならば、お見せいたしますわ」
一度、深く息を吸い込み、そして、きっぱりと言い放った。
「一週間!たった一週間だけお時間を頂戴いたします!その後に、改めていらっしゃってください!アノン赤爵、貴方が真にご納得なさる、最高の料理を必ずやお見せしてみせますわ!!」
「ほう、このアノンが納得する料理だと? ククク…面白い!小娘、吐いた唾は飲めんぞ!」
アノン赤爵は、意外な申し出に一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの傲岸な笑みを浮かべた。
「よかろう!だが、もしワシが納得できなんだ場合は…お主、その若さで手に入れた赤爵の座を、潔く降りてもらうぞ!その覚悟があるならば、受けて立とうではないか!」
「望むところでございますわ!」
奥様は一歩も引かない。
「その時は、お気に召すままに!今、この場におられる全ての皆様が証人です!一週間後、必ずやアノン赤爵にご満足いただける料理をご用意してみせると、ここに宣言いたしますわ!」
その声は、若き領主の誇りと決意に満ち溢れていた。
「グハハハハ!面白い!実に面白いぞ、小娘!よう言うたわ!そこまで言うならば、一週間後、存分に楽しませてもらうとしよう!」
アノン赤爵は、満足げに高笑いを響かせると、従者たちを引き連れて嵐のように屋敷を後にした。
後に残された晩餐室は、しばし水を打ったような静寂に包まれた。
奥様は、静かに床に崩折れたままの料理長の元へと歩み寄る。
そして、懐から取り出した純白のハンカチで、彼の顔についたソースを優しく拭いながら、労いの言葉をかけた。
「…辛い思いをさせましたね。ですが、もう大丈夫。あなたの名誉は、必ずや私が取り戻します」
その声は、春の陽だまりのように温かい。
そして、傍らに控えていた伊勢馬場へと向き直ると、その瞳には先程までの穏やかさとは打って変わって、鋼のような強い光が宿っていた。
「伊勢馬場!」
「はっ」
「アノン赤爵が、そして世界中の誰であろうと、文句のつけようのない究極の食材を調達してきなさい!これは、領主命令ですわ!」
「はっ!この伊勢馬場、我が身命に代えましても、奥様のご期待に必ずやお応えしてご覧にいれましょう!」
伊勢馬場は、深く、そして恭しく一礼した。
その完璧な執事服の影で、彼の瞳が静かに、しかし確実に燃え始めたのを、奥様は見逃さらなかった。
「――って、こんな事があったんです」
と、伊勢馬場は今までの経緯を、目の前の深淵の狩人の蜘蛛に身振り手振りを交えて熱く語った。
その黒曜石のような瞳は、奥様への揺るぎない忠誠と、目前の難題に対する静かな闘志に燃えている。
彼の背後には、道中無理やり同行させられ、今は疲労困憊でぐったりとしているあん子の姿があったが、狩人の注意を引くには至らない。
「事情はわかったが、何故、ここに来た?」
深淵の狩人は未来すら見通す、無数の複眼全てに純粋な困惑の色を浮かべた。
その声は、地底の奥深くから響く風のように、伊勢馬場の鼓膜を震わせる。
人の世界の、それも「料理の食材」ごときで、この奈落の主に何用か、と。
伊勢馬場は、狩人のその問いに、恭しく、しかし断固たる口調で応じた。
「お察しの通り、アノン赤爵を真に納得させるには、人の世の常識を遥かに超えた『何か』が必要となります。それは、ただ珍しい、あるいは高価であるというだけでは不十分。食した者の魂の根源を揺さぶり、世界の理すら一瞬忘れさせるほどの…いわば『禁断』とも呼べるべき食材。そのような代物を知り得るお方、そして、その在処を示唆し得るお方は、この広大な世界広しといえども、貴殿をおいて他にないと、この伊勢馬場、確信いたしました故!」
狩人は、伊勢馬場の言葉を聞き、その巨大な顎を微かに動かした。
まるで、人間という不可解な生き物の行動原理を、改めて分析しているかのようだ。
(フン、下らぬ。我が関知することではない。料理の食材だと? 馬鹿馬鹿しい…そもそも、人間と我では味覚が違うのでは無いのか?)
内心ではそう毒づきながらも、狩人の複眼のいくつかは、伊勢馬場のその真摯すぎる眼差しに、奇妙な興味を惹かれているのもまた事実であった。
かつて、この男が見せた常識外れの戦闘能力と、あの「見えざる糸」への執着。
そして今また、女領主への絶対的な忠誠心から、途方もない食材を求めて己の前に臆面もなく立っている。
(この男の行動は、常に我が予測の斜め上を行く…実に、滑稽で、そして…飽きさせぬ)
しばしの沈黙の後、狩人は重々しく口を開いた。
「伊勢馬場、貴様自身は、どのような物を好んで食するのだ?参考までに聞かせてもらおうか」
伊勢馬場は、一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにいつもの完璧な執事の表情に戻り、恭しく答えた。
「はっ。わたくし個人が好むもの、でございますか。左様でございますね…強いて申し上げるならば、奥様がお手ずから淹れてくださった『まどろみカモミールのハーブティー』、それから、知り合いの屋台でたまに食します『じっくり煮込んだ崩れかけのオデン』、あとは…そう、『アンギャーの照り焼き』なども、なかなか乙なものかと」
「アンギャー…とは?」
狩人の複眼が、興味深そうにきらめいた。
伊勢馬場は、記憶を探るように僅かに宙を仰ぎ、そして説明を始めた。
「はい。それは、主に深き森に生息する、体長60センチから1メートルほどの爬虫類型の獣でございます。特徴といたしましては、やや丸みを帯びた愛嬌のある体躯に、瑞々しい苔色の鱗を持ち、危険を察知いたしますと『アンギャー!アンギャー!』と、赤子のようなか細い声で鳴き威嚇しながら逃げるのでございます。その容姿は…そうですね、例えるならば、少々ぽっちゃりとした、どこか間の抜けたトカゲ、とでも申しましょうか」
狩人は、伊勢馬場の説明を聞き、しばし沈黙した後、ポンと何かを合点したように、その巨大な節足の一つで地面を叩いた。
「あぁ…!それならば知っておるぞ。それは、もしや『婆娑羅曼荼羅蜥蜴』のことではないか? あの、捕まえようとすると妙に騒がしく、しかし、丁寧に火を通すと、えもいわれぬ芳香と、舌の上でとろけるような甘美な肉質を現す…あれか!」
狩人の声は、明らかに弾んでいる。
「うむ、確かにあれは美味よな。香草と共にじっくり焼くもよし、辛味のある木の実と食すもよし…ふむ。案外、我ら深淵の住人と人間の味覚というものは、そうかけ離れてはおらぬのかもしれぬな」
(婆娑羅曼荼羅蜥蜴ですと?魔獣に食材のネーミングセンスで負けているとは、何か負けた気がしますな)
伊勢馬場は内心で、そんな場違いな感想を抱いていた。
狩人は、どこか満足げに頷くと、伊勢馬場に向き直った。
「それならば、話は別だ。伊勢馬場、貴様のその舌が『婆娑羅曼荼羅蜥蜴』を美味と感ずるならば…我がとっておきを授けてやろう。無論、相応の覚悟は必要となるがな。…ついてこい」
そう言うと、狩人は今まで身じろぎもしなかった禍々しい巨体をゆっくりと持ち上げた。
八本の巨大な脚が大地を踏みしめるたびに、奈落の底が微かに震動する。
そして、深淵のさらに奥深く、光すら届かぬ本当の闇へと、伊勢馬場を誘うのであった。
伊勢馬場の背後で、それまで気絶したふりを貫いていたあん子が、わなわなと震えながら、か細い声で呟いた。
「わ、私…絶対、いらない存在ですよね? ねぇ? ここで待ってても…いいんですよねぇ!?」
涙ながらに訴えるあん子
「もちろんですが、こちらは深淵の最深部ですので、一人でお待ちになる方がかえって危険かもしれません。」
伊勢馬場のセリフに、声にならない絶望を吐き出しながら、膝を崩していくあん子。
彼女の語尾が、今回はいつもの「ニャ」を完全に忘れていること、そしてそのことを注意しないだけの伊勢馬場の優しさがそこには有った。
(前編 了)
ざまぁを書いてみたくて書いてみたお話
自分的にすごく良いざまぁが書けた気がします。
なんとなく知っておけば良い知識
この世界の貴族の中には、色を持つ貴族が居ます。
色は序列を表して
黒<白<黄<赤<青<紫
の順で偉くなっていきます。
色を持っているだけで、貴族の中の勝ち組です。
奥様は赤爵で、色爵の中でもまぁまぁ偉いです。
冠位十二階を参考にしました。
次回予告
奥様が用意した究極の料理とは?