4.知らない瞳
よろしくお願いします。
その夜。クラウスは、久しぶりに早く帰宅していた。
「ただいま。あれ?……リーセ?」
返事はなかった。
アンネリーゼの部屋のあかりが見えたので、クラウスは半開きの戸をノックしようとして手を止めた。
物音もなかったので、不思議に思い、クラウスは中をそっと覗く。
部屋の奥、鏡の前に立つアンネリーゼは、
ミントグリーンのワンピースをクローゼットにかけたところで、止まっていた。
鏡のなかの彼女は、ワンピースのまま、
じっと、自分の姿を見つめていた。
その目は、娘のものではなかった。
クラウスの背筋は凍った。
何か、得体の知れないものに触れているような――
理屈のつかない寒気が、首筋を撫でた。
けれど、その視線はすぐにふっと柔らぎ、
アンネリーゼは振り返って、いつもの笑顔で言った。
「あれ?パパ、おかえり。今日、ちょっと早いね。疲れちゃったの?」
クラウスは、一歩だけ踏み出しかけた足を引いた。
「ああ、キリがよくてな。持ち帰れる資料だったんだ。ただいま。」
「うん」
あの目?
いや、気のせいだったのだろう。
春は、誰にだって不安定になる。
娘も成長期なのだ。そういう時期なのだ――
クラウスは自分にそう言い聞かせ、
ドアを閉めた。
夜遅く、プロジェクトの資料を読みながら、クラウスはふと窓の外に目をやった。
書斎の窓から見えるのは、建設中の再開発エリア。
無機質なクレーンと足場が、月明かりの下に静かに佇んでいる。
その風景に、違和感があった。
――誰か、いるような気がした。
暗がりの中に、わずかに人影のようなものが見えた気がして、
クラウスは思わず立ち上がった。
けれど、目を凝らしても、そこには誰もいない。
ただ風が、ガードフェンスを揺らしているだけだった。
(……気のせいだ)
そう自分に言い聞かせたが、
背中にうっすらと汗をかいているのを感じた。
戻って椅子に腰を下ろすと、
机の上に置いた写真立てに目がとまった。
写っているのは、数年前のアンネリーゼ。
その服は、もうサイズが合わない。
――それなのに、今の彼女の姿が、
なぜかうまく思い出せなかった。
つい昨日、向かい合って食事をしたはずなのに。
いや、つい先ほど挨拶を交わしたのに。
笑い声も、口調も、少しずつ“現在”の彼女からズレているような感覚。
「……なんだ、これ」
何かが、ずれている。
時間か、記憶か、存在そのものか。
クラウスはわからなかった。