19 大蛇
大蛇の体が動きだした。
ものすごい速さで結晶の森をはいずる怪物。
アンナはふり落とされないよう、必死でぬるつく胴体をつかんだ。
たちまち、鋭い結晶の刃が、少女の顔や腕をかすめていく。
(……はなすもんか!)
やっと、ここまできたのだ。
ニックを見つけだし、ふたりで家へ帰るまで、死ぬわけにはいかない。
しかしその時。ふいに、大蛇の動きがとまった。
不思議に思うまもなく、濃厚な影が、アンナの頭上へと落ちてくる。
とたんに背筋へ怖気がはしり、少女はそくざに身をおこした。
あおぎ見れば、巨大な大蛇の頭が、太陽を背にしてジッとこちらを見おろしている。
ヘビ特有の長く細い舌が、チロチロと潮風をなめ、血のように紅い眼球がギョロリと動いた。
その瞳にとらえられた瞬間、アンナの体は、石になったかのように硬直した。
死が、圧倒的な恐怖と緊張をともなって、アンナの眼前にせまっている。
直後、シュララララ――と、肉の内側から骨をなめられるような鳴き声がして、大蛇の巨大な体が少女へと襲いかかった。
刹那――アンナの脳裏に、ニックとおばあちゃん、そしておとうさんとおかあさんの姿がよぎった。
(――あきらめるなッ!!)
アンナはほとんど本能的に、腰へさした父のナイフを抜きはなった。
凶悪な顎ががばりと開いて、真っ赤ななまなましい口が、アンナを丸呑みにしようとおおいかぶさってくる。
すんでのところで身をひるがえし、すれちがいざまに、アンナはナイフをふりかぶった。
「わぁあああっ!!」
少女の体より大きな目玉へ、ナイフの刃を突きおろす。
耳をつんざくような絶叫が、天へと吹きあがり、大蛇はいきおいよくのけぞった。
もんどりうって暴れだした巨体の上で、アンナは突き刺さったナイフをにぎりしめ、大蛇の胴体へしがみついた。
(――絶対にはなさない!!)
右へ左へ、めちゃくちゃに走りだした大蛇の上で、アンナは奥歯をかみしめた。
(――生きて、ニックといっしょに帰る! 絶対にッ!!)
大蛇が結晶へとぶつかり、激しい衝撃が少女を襲った。
それでも、アンナはけっして手足の力をゆるめなかった。
しかしながら、その抵抗も、いよいよ限界がちかづいていた。
結晶の刃は、暴れる大蛇のぶあつい鱗をすべり、アンナの腕や背中をかすめていく。
みるみるうちに、少女の体は、痛々しい切り傷だらけになった。
しだいに、腕がしびれて指先の感覚がなくなっていく。
(――ニック、ニック、ニック!!)
アンナは心のなかで、なんどもさけんだ。
この手を離したら、本当に、すべてが終わってしまう。
ニックに会うことも、ふたりで冒険へいく夢も、すべてが叶わなくなってしまう。
『――ッ!!』
その時だ。アンナは、うすれていく意識のなかで、だれかの声を聞いた。
『――、――ッ!!』
潮風にのって、なつかしいその声は、アンナの耳にたしかに届いた。
「――――っ、アンナぁああッ!!」
少女は、金色の瞳を大きく見開いた。
「……、……ニック?」
幻聴だろうか。いや、かけがえのない弟の声を、聞きまちがえるはずがない。
アンナは声のしたほうへ、けんめいに顔をむけた。
黄昏が夜の闇をひきつれて、結晶の森を幻想的にきらめかせている。
その結晶の根もとに、ちいさな人影があった。
「――アンナ! いまそっちへ行くから!!」
深いこげ茶色の髪を、汗で額にはりつけて、ニックが結晶の森をこえてくる。
アンナの瞳に、熱いものがこみあげた。
生きていた。ニックが、生きていた。
それだけで、アンナはもう、なにも怖くなかった。
「アンナ!」
ニックが、大きな袋のようなものを放りなげる。
アンナは反射的にそれをつかんだ。
「袋を破って!」
短く鋭い指示がとぶ。
このふたりに、それ以上の言葉はいらなかった。
一瞬のためらいもなく、アンナは大蛇の目玉からナイフをひき抜くと、ぶあつい袋を切りさいた。
「わっ!?」
たちまち、袋のなかから、ドロリとした油のようなものが流れ出す。
その液体は、大蛇の頭から胴をつたい、あたりに腐肉のような異臭をまきちらした。
ふたたび大蛇が咆哮をあげ、怒りくるったように暴れだす。
たまらずバランスを崩したアンナは、ついに大蛇の体から手をはなしてしまった。
その瞬間――すべての時が、とまったような感覚がした。
「――アンナ、跳んでっ!!」
聞きなれたその声だけが、最後の命綱だった。
考えるよりもはやく、大蛇の胴体を蹴りつけ、アンナは声の方向へと跳んだ。
夕焼けのまばゆい光と、大空に枝葉をひろげた大樹の雄大な姿が、少女の瞳にスローモーションのように焼きついた。
数秒後――ドサリ、とにぶい衝撃とともに、下から「ぐえっ」とカエルがつぶれたような悲鳴があがる。
「ニック!?」
ニックが、アンナのおしりの下で倒れている。
アンナはあわててニックの上から飛びのき、のびている弟を抱きおこした。
「だ、だいじょうぶ?」
「……う、うん! それより、これを!」
「えっ」
「あいつにむかって、射って!」
そういってニックはアンナに、火のついた弓矢をおしつけた。
「はやく!!」
「……わかった!」
猛然とこちらへむかってくる大蛇に、アンナはひるむことなく、ねらいをさだめた。
力強くひきしぼられた弓から、火矢が、宙をひきさいて放たれる。
次の瞬間、炎の柱が天空へと吹きあがった。
油にまみれた大蛇は、まばゆい炎につつまれ、大地を轟かす吠え声をあげながらのたうちまわる。
それは、壮絶な光景だった。
暴れくるう大蛇の尾が、結晶をくだき、火の粉をちらし、そのたびにすさまじい地響きがした。
しかしそのいきおいもじょじょに鈍くなり、ついには、巨大な怪物は動きをとめた。
炎がよわまり、くすぶる巨体から、灰色の煙が高く細くのぼっていく。
その様子を、ふたりはかたく手をつなぎながら、かたずをのんで見守った。




