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短編

私たちはただゆっくり離れていく関係

作者: 待鳥月見

「今月のぶんのお金、まだ振り込まれてないわよ」


「いまいちおう自習中だから電話切るね」


「ちょっとそれはないんじゃないの!」


 続く怒声の内容を聞かないまま、私は電話を一方的に切った。


 しとしとと雨の音がする。幾度となく大粒の雨が窓ガラスを打つ。無音の研究室は雨の音が満たされていた。

 私はマグカップを手に取り、すっかり冷めたココアを啜った。机の上に広げられたパソコンの画面は少し前から変わっていない。文章を書くのは嫌いではない。ただ先行研究をなぞるだけの論文に価値を見出せない。


「はあ」


 嘆息がやけに大きく研究室に響く。


 メモ帳には先行研究の内容の箇条書きとともに、誕生日に自分で自分に贈るためのプレゼントリストがいつの間にか作られていた。自分で自分に物を贈るという行為が、生活必需品を購入する行為と何が違うのか他人に理解してもらえるだろうかという思考がよぎる。

 正直なところ、理解してもらわなくてもいい。人が誤解なく理解しあえる世界を信じているなんて、ばかみたい。この世界ぜんぶクソだし、人間は人間が思っている以上に醜く汚らわしい生き物だ。俯瞰したように考えてしまうけれど、他人を愚かで卑しいと毛嫌いする私もその人間の一人であることを忘れてはいけない。バイトをしないと生きていけないし、大学を卒業しないとこの先の人生に困ってしまう、ただの一般人である。


 くだらない。


 親のような人間になりたくない。


 研究室の主である教授は授業のため席を外している。教授や他の生徒がいれば、電話なんて出なかっただろう。私は重い体を引きずるようにして、スマートフォンと財布を持って研究室を後にした。自然と、私の足は大学から歩いて十分ほどの知人と遭遇しづらい場所にあるコンビニへと向かっていた。運命の出会いなどを求めていたわけではないが、そこで私は遭遇してしまう。


「ちょっと。すみません、あなた、紫原正華さんじゃないですか?」


 レジで会計が終わり、店を出ていこうとした私を呼び止めたのは、同じような年恰好の男だった。髪は金髪で、カラフルなジャンパーを羽織っている。女性に受けそうな甘い笑顔。なんだかどこかで見たことのある顔だった。ただどこで見たのか思い出せない。

 バイト先でのお客様だったのかもしれないし、大学構内ですれ違う別学科の生徒かもしれなかった。

 こうして声をかけられた理由は不明だけど。

 私がなにも言わずに立ち止まると、男は慌てたように自分を指した。


「あの、覚えていませんか? あ、おれ、佐野です。佐野幸太郎」

「……同じ大学? 高校や中学の同級生?」


 私は一歩後退する。

 私が警戒するのを見て、男は慌てたようにオーバーなリアクションで手を振った。


「違いますよ。ええっと、こういったらわかりますかね。正華さんとあったころのハンドルネームは、アルモです。ほら女装アカウントの」

「聞き覚えはある。中学生のころに……仲良くしていた、アーモンドさん?」


 ようやく私は男の正体を思い出す。ネットのSNSで知り合った男だ。そのとき使っていたハンドルネームだけではなく、本名も知るほど仲が良かった。佐野幸太郎。あまりに平凡な名前で記憶に埋没していた。知り合ったとき佐野はSNSで女装を披露する学生だった。SNSの枠を超えて会ったのは三回ほど。お互いの学園祭と、ほかに交流していた人を交えたオフ会である。


「思いだしてくれましたか? 改めて、おひさしぶりです! アリスさん!」 


 店内から出て喫煙者のための軒下のベンチの近くで立ち話をすることにした。寒いけど、数年ぶりの予期しない再開は興味深かった。


「本当に久しぶりだね。佐野くん。まだ女装とかコスとかしてるの?」


「あ、まだコスプレなんかもしていますよ。そこそこ有名になって、今度DVDも発売されるんですよ」


 どのような内容のDVDかは尋ねない。コスプレから有名になって成人向けのアンダーグラウンドに流れてしまう人たちも多いという噂を数年前は聞いていたし、つまりそういうことなのだと私は勝手に脳内で完結させた。


「アリスさんは大学生ですか?」


「そうだよ。そこの大学に通ってる」


「やっぱり頭良かったんですね」


「ううん、炎上してから……猛勉強を強いられたんだよ」


「あー炎上……。そのことなんですけど……」


 なにか言いづらそうに視線を傾け、佐野は腕組みをした。


「いいよ、言わなくて。もう黒歴史だし……」


 私の名前は紫原正華。中学時代の固定ハンドルネームはアリス。現代では現実の顔、現実には出てこないネットの顔、二通り持っている人がいるだろう。私のSNSでの顔は現実嫌いのアリス。承認欲求と自己顕示欲のかたまり。佐野という女装コスプレイヤーと知り合いという点からもわかる通り、私はある種のニッチな界隈で活動してそれなり有名人だった。


 なぜ有名だったかといえば、脱ぐからだ。裸になったわけではない。非常に布地の少ない下着姿やコスプレ――当時流行していたアニメの登場人物の露出過多な恰好を真似て撮った写真や動画を公衆の面前で晒していた。私が成人済みの人間であれば、ネット上にそうした自分の動画や写真を公開しても猥褻物の域まではいかなければ許容範囲だったが、中学生でそういう格好をするのはそれを閲覧した人を児童ポルノに抵触させる可能性を与え、また教育的な観点での意見を刺激した。迂遠な表現をしたが、「中学生の子供がそんなことをしていいのでしょうか?」という意見が集まって炎上したのだ。ネット上で仲間内でやり取りしていた幼稚な言動をアンチに高校を特定されて、無粋で下劣で汚い大人が学校前まで駆け付けた。校門前でカメラを構える野次馬たちの姿を覚えている。


 私は非常に不思議だった。下着姿やコスプレ姿を可愛いと褒めてくれていた人たちが、手のひらを返したように見えたからだ。


 私のSNSの炎上は学校内で取り上げられた。集会が開かれて注意を受けた。校内新聞にもSNSの使い方の注意の例として取り上げられて、本名は出なかったが、私に近い人が読めばそれとわかるような書き方だった。多くの生徒は一瞬見て、一時間後には忘れていそうな事件だったけれど、私や私に近い人間はもちろん忘れたことはない。


 中学校では炎上があってから、SNSのアカウントを知っていた生徒にそれを理由にいじめられた。高校でもその過去が暴かれるのを恐れて気配を消すことに必死になって過ごした。


「うーん、おれ、あんなことがあっても、アリスさんが好きでした。アリスさんは格好いい。おれの話聞いてくれたし本当に憧れてて」


「それはお互い様じゃない? 思春期だったんだよ。中二病だったんだ。黒歴史」


「……もう撮影はやらないんですか?」


「うん、もうやらない」


 炎上の一件のあと、家庭はひっくり返したみたいにめちゃくちゃになった。

 祖父は私の父を殴った。あの縁側で猫と戯れているだけの祖父が、スーツ姿の父を怒鳴り散らしていた。その光景は衝撃的だった。


「正華がこんなふうになってしまったのは、実の親が正華に教育を施さなかったからだ。正華を守り彼女の心を正しく成長させてあげられるのは親だけなのに、その両親が教育を放棄していたからこうなった。十五歳で親の手を離れて社会から人格を否定される罰を受けるなんて、どんなに正華の心を傷つけたことか。お前らは子供の心を守れなかった」


 両親は苦々しい表情で沈黙して叱責を受けていた。


 私の胸に祖父の言葉は重く響いた。罪を犯した私が責められるのではなく、両親が痛めつけられていることが心苦しかった。私はとりかえしのつかない失敗をしたことをそこで初めて認識した。


 私が悪かった。私が愚かだった。


 不出来な娘を両親が愛してくれないのは当然だった。


 それから両親はネットの回線契約を切って、私を勉強道具とともに部屋に閉じ込めた。


「そのころから連絡が途絶えていたよね。あれから、佐野君は進学できたの?」


「高校はちょっと行ったけど、途中から学費払えなくなって。いまはバイトしながら、生活してる。あ、そういえば見てください」


 佐野が背負っていたボストンバッグを開けて、中を見せてくれる。中には札束が詰まっていた。

 さすがにぎょっとして、私は佐野を見た。


「すごい羽振りのいい仕事についてて。これ、給料です。ようやく親と離れられそうなんですよね」


「そうなんだ。一人暮らし、良かったね」


 私は薄っぺらな笑顔を浮かべた。深くは訊かない。トラブルの匂いがする。

 人間はくだらないとか、世界が汚いとか言っていても、ただひねくれてそう言っているだけだ。中二病は治っていない。根本は臆病。醜い人間、それが私。


「てか、このあと、飯、行きませんか? おごります」


 私が首を振ると、佐野は項垂れた。


「わかりました。アリスさん。とりあえずTwitterのアカウント教えてください」


「Twitterはやってないんだ。Lineも。今スマホ持ってないの。佐野のアカウントを教えてよ。私のほうから連絡するよ」


「必ず、必ず、連絡してくださいね!」


 佐野は念押ししてメモを渡してきた。

 私はそれを受け取りひらひらと振った。



 佐野がどんな人間なのかよく知らないが、中学生のころの佐野の悩みは知っている。


 いわく、母親に女装のまねごとをさせられて、録画をされる。それを売って佐野の母親は生活している、と。


 佐野幸太郎は可哀そうな人間だ。


 彼は私と思春期の孤独を共有した人間だ。彼の親は最低だった。私の両親は放任だった。佐野がされていたことを私は知っているし、私の家庭内の事情を彼も知っている。でも互いの家庭環境に憐れみを持ったり、共感したりしたところで、なんの進歩もない。私たちは別々の人生を歩んでいる。私たちの関係に進展は生まれない。


「正華、お前が何をしても、たとえ人を殺してしまったとしても、だれかを不幸にしても正華を受け入れるよ。正華は優しい子だから、理由なくそんなことをする子ではないと思っている。生きたいように生きなさい」


 祖父が亡くなる前にそう言ってくれたから、人として正しい道を歩もうと決意した。だから私はふつうの大学生を演じる。


 大学構内に戻りカフェテリアに入ると、他学科の顔見知りの生徒に絡まれた。彼女たちはいつも派手な服装でブランド物を持ち歩いて言動が自信に満ち溢れている。その姿はとても眩しい。私が欲しても与えらることはないものを彼女たちは持っている。


「あー、セーカちゃんじゃん。さぼり?」


「違うよ、ちゃんと調べもの。そのついでにコンビニ行ってきただけ」


「ねー関係ないけど、マジでセーカちゃん、モデルみたいな体型だね。羨ましい」


「そんなことないよ」


「前から訊きたかったんだけど。セーカちゃんってスキンケアどうしているの? なんでこんな肌が白いの」


「かわいいとかまたー、褒めたってなにもでないよ。私は最近韓国の美容パック使ってる。インスタでモデルさんが紹介してたやつ」


 内心とは裏腹に、私の口は軽快に動く。服装も持ち物も化粧も話し方も、流行や人の目を気にしたものをすべて作っている。彼らが私の外見を褒めるのは、想定内。あらかじめ用意していた会話をこなし、常にどんなふうに見られているか意識して立つ。


「あ、そろそろ研究室戻らなきゃ」


「残念、またね! セーカちゃん」


 私は適当なところで、彼女たちと別れた。

 論文は進まないが研究室には戻らないといけない。

 退屈な日常に戻る。




 その夜のことだった。学校から帰る頃には雨はひどくなり、雷鳴が聞こえた。


「アリスさん、お帰りなさい」


 アパートの家の扉の前に佐野がいた。ちょうど近くに雷が落ちて、佐野が一瞬まぶしい光に照らされる。


「えっ、ストーカー?」


「違いますよ、アリスさん。ストーカーじゃなくても今どき本名と在学している大学がわかれば、伝手を使って住所くらいなら割り出せるんです」


「まじか。それが本当なら通報しなきゃな、ってかなにが目的なの」


 身を竦ませる私に佐野は笑った。


「なにも。ただ泊めてください。追いかけられているんです、おれ」


 そう言って、ボストンバッグを指さした。


「嫌だと言ったらどうするの」


「アリスさんの恥ずかしい写真、全部保存しています。この写真をどこかにアップします。写真はインターネットタトゥといわれるくらいですし、消しても消えないでしょうね。援助希望とか文章添えたら、個人情報また割り出されるかもしれないですね」


 雨に濡れて寒さに震えながら、吐き気がこみあげてきた。そんなことになったら警察に対処してもらうとしても、投稿を見た人がどう思うか考えると恐怖しか感じない。また両親を困らせてしまうかもしれない。大学でできた友人が離れていってしまうかもしれない。


 スマートフォンを鞄から取り出したが、その手を佐野に掴まれる。佐野の手は私と同じように冷たく、震えていた。


「……わかった。とりあえず入る前に私に危害を加えないと約束して。あと家の中を荒らさないで。一晩泊まったら出て行って」


「約束します」


「本当に大丈夫かな? 明日の朝、私が死体になってたりしない? そのお金も強盗殺人とか繰り返した成果じゃないでしょうね?」


「それはない。人を殺したことは一度も」


 やや顔色を失ったように見えた。

 扉を開けて招く。佐野は素直に従った。


「あ、このお金は盗らないでくださいよ。事情は話せないですがこのお金はある人に渡さなきゃいけないものなんで」


「とりあえず触らないから、そこの段ボールにでも入れておいて」


 私の部屋は段ボールで溢れかえっている。買い物は通販を利用しているから。衣料品や日用品だけではなく、食料品の買い出しもネットスーパーを利用して、講義のない日に受け取るようにしている。

 部屋は散らかった段ボールを除けば、綺麗といってもいい。家具は最低限しかない。服と荷物は整理整頓されている。個性といえば、かすかにタバコの匂いがする程度だ。


「うわ、汚いわけじゃないけど、段ボール多すぎて足の踏み場が……。それになんか生活感もないです。どういう部屋ですかこれ。友達とか呼ばないんですか?」


「友達はいるけど、家に呼ぶほどじゃない」


「彼氏とかは」


「いるわけないじゃん」


「えぇ、大学って出会いあるでしょ。ちゃんと大学に行けていますか? 留年しそうとかじゃないんですか?」


「そういうわけじゃないけど人と会いたくない。時間使うし、疲れるから。毎日、学校と家の往復だけだよ」


「会社勤めをしている社会人みたいなことを言いますね。まあいいや、今日はおれがごはん作りますよ。一宿一飯の恩義ってことで」


「出ていけ不審者」


「いやだな、まだ来たばっかりっすよ」



 順番に風呂に入り、雨で濡れた体を温めた。

 佐野がアパートの狭い調理場で真剣な表情で野菜を刻む姿は板に着いている。


「この部屋、鍋は?」


「フライパンは万能」


「もう、これだから怠惰な大学生は。じゃがいもばっかり買ってるし生活力低すぎ」


 完成した料理は肉じゃがと、白米と、じゃがいもの味噌汁だった。もちろん肉じゃがはフライパンに盛り付けられている。二人で手を合わせて、さっそく肉じゃがを一口食べた。


「おいしい。けどなんかじゃがいもゴロゴロだね」


「じゃがいもばっかり蓄えていた本人がそれを言うか」


 子供じみたやりとりをして、顔を見合わせて笑った。

 どうしても出ていかないつもりだと分かったので、母親が泊まりに来た際に一度だけ使った来客用の布団を引っ張り出して敷いてあげる。


 私と佐野の布団の間に段ボールの空き箱で壁を作った。電気を消す。


「この壁乗り越えて襲ってきたらマジで警察呼ぶね。覚悟してね」


「警察に金の出所聞かれたら困るから襲わない。約束は守る。だいたい今のアリスさん干物みたいだし、おれ好きな人いるし」


「干物って失礼じゃない? 私まだ二十歳なんですけど。謝ってよ」


「いや、実家の母親ですら着けないような落ち着いた下着の色だなって思って」


「検索 記憶 消し方」


「アハハ、見てないよ! 嘘だよ。本気にしちゃってウケる」


 笑い声が止んで静かになる。私は寝返りを打った。


「アリスさん、おれね、アリスさんと仲良くしてた頃、大人になりたかった」


「……うん、私もそうだったと思う」


「思う?」


「もうあんまり覚えていない」


「ふーん、アリスさんはもう大人になってしまったのか。ねえ、アリスさんから見て今おれは大人になれてる?」


「私は全然大人じゃないよ。でも、少なくとも女の子の家に泊まろうとするのは失礼じゃない? 異性同士でお泊り会してもいいのは小学生まででしょ」


「じゃあ、おれ、今日だけ小学生で」


「こんなデカい小学生いるかっての。明日ちゃんと行くとこ行きなさいよ」


「アリスさん」


「なに」


「段ボールってゴキブリが住みつくのに最適らしいよ」


「……野宿したいの?」


 私の本気のトーンを茶化せば、家を追い出されかねないと思ったのか、そのあとは無言が続いた。私はいつのまにか寝入っていた。


 朝起きると、昨日の土砂降りが嘘ではと思うくらい、今日の空は晴れ渡っていた。


 朝の支度をしながらニュースを見る。化粧して課題のチェックをして持ち物をカバンに詰めて、出かける直前にコーヒーとタバコで一服する。部屋で喫煙はしないので、ベランダで。朝食は抜き。タバコはあまり吸わないけれど、ときどき吸いたくなったときに吸う。マルボロメンソール。本当はラークのアイスミントが良いのだけど、大学で嫌いな女友達がそれを吸っているのを見たので、銘柄を変えた。私の見た目や話し方の印象は友人曰く「清純そう」らしく、タバコはイメージに合わないので周囲には黙っている。その友達だって私が同じタバコを吸っていたことなど、気が付いてすらいないに違いない。


 虚飾と演技で周囲から距離をとる。それが私のいまの人との距離の取り方だった。


 思わぬハプニングで佐野はその距離感を詰めてきたが、こんなことはもう起きないだろう。

 ベランダから部屋へ戻ると、佐野は昨日の残りものを温めて一人で朝食を摂っていた。

 チャイムが鳴る。この安い単身者用アパートにはインターホンなんて便利なものはない。


「居候、お前が出ろ」


「はあい、どちらさまですかあ。こんな朝から荷物の配送なんてふつうなくない?」


 居間の扉は開け放しており、玄関まで一直線の廊下なので、その様子はよく見えた。

 男だからか、知らない人の家だからか、佐野はチェーンをかけずに無警戒に玄関の扉を開けた。視線の先には屈強な男が立っていた。いかにも、というような強い目をしている。

 次の瞬間には問答無用で佐野の襟首をつかんでいた。


「ちょ、ちょっと待って」


 何事か言おうとしていた佐野の頬を殴る。唇から血が飛んだ。


「ここにいたのか、佐野。相手先が金を届けにこないから怒っているんだが、金はどこにやった。ここまで来るのは大変だったんだぞ。すぐ出せ」


「んっ、待ってくれ。金はあるから離してほしい。悪いがこの家は全然関係ないナンパしてひっかけた女の子の家なんだ。騒ぎにできない。離してほしい」


 玄関先で突然始まった暴力に恐れ慄いていたが、佐野が私を庇おうとしていることで我に返った。

 気が付けば肉じゃがが少しこびりついたフライパンを持っていた。

 大股で歩いて佐野ばかりに注意を向けている男の顔面をフライパンで殴った。


「なっ、この女っ」


 男が何かを言おうとしたが、少し手が緩んだ隙に佐野は自由になり、私の手からフライパンを奪いとり男をフライパンで殴打した。


「アリスさんに危害を加えるな!」


 ゴッと、鈍い音がした。玄関扉がしっかりと閉まっていなかったようで、男が後ろに、外の通路へと倒れた。呻いて頭を抑えているので、命に別状はなさそうだ。


「こいつ、見てくれは頑丈そうだからグループから抜けようとしたやつを捕まえたり、猟犬みたいなことしているんだけど弱くてさ。……来たのがこいつだけで命拾いしたね」


 そのとき隣室のアパートの扉が開き、ちょうどゴミ袋を携えた隣人が、私たちと倒れている男の姿を見た。寝間着姿の隣人は目を見開いて、私と佐野を凝視している。

 とっさに私は困った表情を作った。


「すいませんが、通報頼みます。私、どうしてもすぐに家をでなくちゃいけなくて。大学の講義があるんです」


 隣人は引きつった顔でうなづいた。怪我人らしき男より、加害者らしく見える私たちのことを警戒しているようだ。

 あまり急いでいない様子だったから、通報などの対処はしてくれるだろう。あとはあの隣人が余計な話を聞いていないことを祈る。


「佐野、はやく出よう」


 鞄を手に早々に現場を後にする。


「出るってどこへ。っていうか、応援はありがたいけど突然どうしたの」


「なんかやらないといけない気がして、つい」


 人と距離感をとっているのが今の私のはずなのに、自分でもわからない。ただ体が動いた。


「とりあえず走ろう。電車かバスに乗って、どこ行くかはそれから」


 駅まで走った。パトカーが駆けつける想定をして遠回りしながら急いだ。道中、幸いなことにパトカーは見かけなかった。


「行くところないなら海に行きたい。あの有名なところがいい。ずっと行ってみたかった」


「なんで海なの?」


「海って青春っぽくない? そしてそのままそこで解散しよう。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかないし」


 佐野が穏やかに笑うので、なんだか私も安心して、提案に乗ることにした。電車で揺られて一時間ほど。天気は晴れており、少し汗ばむ陽気とはいえ、季節はまだ春。美しい白い砂浜を散歩をする人や、波内際近くでウェットスーツを着用してサーフィンを試みている人はいるが、観光客らしき人影はない。

 太陽の光を受けて輝く海を砂浜から二人で静かに海を見ていた。


「そういえばここ、昔、佐野が行きたいって言ってた?」


「そう、撮影場所としてね。アリスさん、少しはほっとした? 学校さぼって海なんて、いまのアリスさんはこんな息抜きすらしなさそう。切羽詰まったような顔、いつもしてるんじゃない?」


「私ももう大学生だから」


「もうお互いに仲良くしてたあの頃とは変わったんだってことはわかるけど、変わってないところもあるよ」


 私の本心を見透かしたように佐野はそう言った。私は返答に窮していると、佐野は自分から語り始めた。


「おれは結婚詐欺をしてたんだ。いま追っかけてきたのは詐欺のグループの人。より正確に言うと、交際詐欺みたいな……グループで、アイドルの追っかけみたいなことをしている女性をひっかけて支援してもらうっていうような詐欺なんだけど、おれイケメンじゃん? だから積極的に人を騙す商材だったの」


「男性アイドルが出資を募る詐欺?」


「それ。同人上がりの男性アイドル的なやつ。DVDが出るっていうのもそれで」


「アダルトなDVDが出るのかと想像してたんだけど違ったんだね」


「やめて。虫唾が走る」


 真顔で否定されてしまった。思わず口元が綻ぶと同時に、安堵した。


「あ、それでこのお金、このお金は返しに行く途中なんだよ。実はいま、好きな女性がいてさ。心から愛しているから、生涯をかけてついていきたい。その人が汚いこととか非合法なことするの嫌いって言うから、だからおれ、この罪を償うつもりで、騙していた人たちに謝りに行く。おれの給料って嘘ついたのは謝るよ。組織を抜けた時点で給料じゃない。これは被害者から騙し取ったお金。おれの罪」


 佐野の声は震えていた。


「……よく素直に言う気になったね」


「昔からアリスさんはおれの話を聞いてくれたよね。ありがとう。あと、アリスさんにも謝りたいことがひとつあって。アリスさんを炎上させたの、実はおれなんです。ごめんなさい」


 佐野は私に向かって深々と頭を下げた。半ば予想していたことだったので今更驚きはしない。ただ面と向かって謝罪されることは想定していなかった。


「そうだと思っていたよ。SNSで絡んでいる人が掲示板に詳しい情報載せたんだろうなって察していたよ。どうしてそんなことをしたの?」


「アリスさんが好きで。好きすぎて。俺の想いが届かないなら、いっそのこと、傷つけたくて。どうしても振り向いてほしくて。考えてほしくて」


「気持ち悪いな。さすが私のストーカー」


 私は笑う。同時に情けなくなった。あの頃の私はたしかにストレス発散のためにSNSを利用して、世間的に見れば間違ったことをした。けれどSNSでの振る舞いには偽らない自分の本音を吐き出せて気持ちよかった。可愛い服に着替えて撮影するのは楽しかった。人の目を気にせず趣味に没頭する時間は、私の心にゆとりと輝きをもたらした。いまの私は輝いているだろうか。


「アリスさん、怒っていますよね?」


「当時は怒っていたけど、ゆるすよ。もう私の中でそのことは過去だから。もとはといえば、現実の寂しさをネットの交流に求めた私が悪かった。自己顕示欲求も制御できないお子様だった自分にも責任がある」


 ポケットに無意識に突っ込んでいたタバコを取り出して火をつけた。ここなら大学の知り合いに見られる心配はない。遮蔽物のないのない広い空間で吸うタバコは美味しく感じるのだと初めて知った。

 佐野はうつむく。そして、顔をもう一度上げたときには、力強い光が目に宿っていた。


「おれ、こんな生活から足を洗います」


「数年前のことをわざわざ謝りに来た今の佐野ならできるんじゃない。大人になれるよ。だから辛いことがあっても、頑張って進もうね。困難があっても諦めずに……」


 なぜかわからない、私の声は震えた。おかしい、タバコの煙が急に肺に沁みたよう。重苦しい説教なんてするつもりはなかったのに、唇が勝手に動く。


「私は祖父と同じような人を許せる大人になりたいなって思ったの。私が子供だったから起こしてしまったあやまちをお祖父ちゃんが大人の目線でゆるしてくれたから。佐野も、自分がなりたいような人になれるといいね。そのために努力したいよね。それが人生を輝かせるということだと思う」


「はい。アリスさんも、自分の思うように生きてください」


 私は空のタバコの箱に吸い殻を入れた。


「そうする。葛藤にけじめがついたし、家に戻ったら段ボールを片付けるよ」


「……アリスさん」


「なに」


「正華さんって呼んでいいですか?」


「べつに。いまさらって感じ。呼び名なんて好きにしていいよ」


 私がふてくされたようにそう言えば、佐野は笑った。


「正華さん、友達、作ったほうがいいですよ。おれがいなくなったら、だれがあなたの理解者になれるんですか?」


「友達はいる。余計なお世話。それに恋人がいる男に、孤独の心配なんかされたくない」


「まあ、おれが愛している人とはまだ交際もしていない状況なんですが」


「その子にフラれても、こっち来ないでね」


「器の大きい女性なので、おれの犯罪がバレたとして簡単に捨てはしないと思います」


「のろけか……。佐野は料理上手だから、女心を胃袋から掴めばいいんじゃない?」


「あぁ、それ、いいですね」


「幸せになってね」


「こんな不審な男を家に招いてくれてありがとう。元気でね。正華さん」


「佐野も元気でね」


 そうして佐野とは別れた。私は駅へ。佐野は騙した人の元へ。私たちはゆっくり離れていく。頬にあたる潮風とさざめく波の音を、佐野も感じていることだろう。この奇妙な清々しさを共有しながらも、きっとお互いに別のことを考えている。


 私は立ち止まって、振り返った。


 佐野は振り返らない。


「佐野!」


 大きい声に驚いて佐野は振り返った。浜辺で犬を連れて散歩していた人も何事かと私を注視している。

 私は精一杯声が届くよう手を添えて叫んだ。


「会いに来てくれてありがとう!」


 佐野は手を振って応え、歩きだす。小さくなる背を私は手を振りながら見送った。

 午後から研究室に戻ろう。そこが今の私の現実だ。もし警察に今朝のことを追求されたら、佐野にナンパされて一晩泊めたと言おう。それ以上追求されても、関係はないのだから説明のしようがない。

 もう佐野と私が会うことはない。そして、それはきっと悲しいだけの別離じゃない。


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