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影は密かにこいねがう  作者: 宍戸浩
4/5

ある影の話

ジークフリート視点の話です。

 ジークフリートがその人に出会ったのは、ある晴れた日のことだった。


 帝国の『影』、つまり密偵としてウルキア王国の宮殿の下働きになり、宮殿に潜ってはや一カ月。

離宮の掃除を命じられ、窓を拭いていたジークフリートは、視界の端に一人の男をとらえた。

普通なら見逃してしまうような男の挙動だが、ジークフリートの『影』としての勘が自身に訴えかける。

(間者か。)

周囲をそれとなく気にして、気配を消しながら歩く姿は、同業者のそれだ。

(甘いな。)

見逃そうと思った。

自分は帝国の『影』であって、ウルキア王国に仕えているわけではない。

変にちょっかいなど出さず、静観するのが最良である。

しかし、男の懐のわずかな膨らみが、その考えを捨てさせた。

(短剣⁉)

バケツの水を新しくするフリをして、一階に降りると、男を追う。

(どこに向かっているんだ、こいつは。)


 男はジークフリートに気づかずに、庭の端にあるバラ園に踏み入った。

あまり手入れされていないバラ園は、赤と白のバラが狂ったように咲いていて、やけに毒々しい。

さらに男は奥へ奥へと進むと、今はもう誰も使用していない温室の扉をくぐる。

(誰かいる。でもこんな場所に誰が。)

いぶかしんだ瞬間、男の背中の動きで、彼が懐の短剣に手をのばしたのが分かった。

「お命、頂戴します!」

男の叫びに身体が反応し、咄嗟にジークフリートは扉から室内に飛び込むと、男にあて身をくらわした。

(遅い。)

そのまま、短剣を取り上げると、男を組み伏せる。

「ぐああ!」

抵抗されるのを防ぐために、男の右肘の関節を破壊すると、断末魔のような絶叫が室内にこだました。

その直後、男の全身から力が抜けた。

あまりの痛みに、どうやら男は失神したようだ。

ボウタイで男を拘束し終わって、ジークフリートは初めて我に返った。

(しまった・・・。)

そうしてゆっくりと、男が襲いかかろうとした相手に視線をやる。

(やっぱり。)


 冷静に考えれば、このさびれた離宮で狙われるような立場の人間は一人しかいない。

ウルキア王国に、人質同然に嫁いできた、北方のエルド国の王女にして、絶世の美女。

そして、現在はこの国の女性の中で最高の地位に就く女性。


「ご無事でしたか、王妃殿下。」

男が狙っていたのは、エルヴィラ王妃だった。


「あなた、強いのね。」

怯える様子を微塵も見せずに、エルヴィラは優雅に笑った。

「いえ、王妃殿下が危ないと、無我夢中でしたので。」

自分でも、こんな風に人を倒せるのかと驚いています、と告げると、エルヴィラは形の良い眉をくいっとあげて、

「そう。」

とだけ返した。

(つかみどころのない女だ。)

「すぐに近衛兵を呼んでまいります。」

男を担ごうとするジークフリートを、エルヴィラは手で制止した。

「あなた、名前は?」

「いえ、わたくしはただのしがない下働きでして、名乗るほどでは・・・」

「王妃が名を尋ねているの。拒否権があって?」

妙に威厳のある声で再度質問され、ジークフリートは渋々偽名を口にした。

「ミハイルです。」


「ミハイル、素敵な名前ね。」

「お褒めいただき、光栄です。」

内心、さっさとこの場を離れたいのを我慢して、ジークフリートは頭を下げた。

しかし、エルヴィラから次に紡ぎだされた言葉に、思わず頭を上げることとなる。


「ミハイル、あなた、私の専属の執事にならない?」


「え?」

「いえ、命令よ。ミハイル、あなたを私の専属の執事に任命するわ。」

思いがけない展開に、頭がついていかずミハイルは狼狽した。

そんな彼をよそに、エルヴィラはゆっくりと語りだす。

「おかしいと思わない?なぜ私の周りに警護の者はおろか、メイドの一人もいないのか。」

「それは・・・」

「私がただのお飾りの王妃だからよ。」

質問しておきながら、エルヴィラは勝手に答えを言うと、足元に横たわっている男を見つめた。

「その男は、おそらくパシュー侯爵家からの刺客よ。実質的な王妃の座に座っておきながら、側室様は、まだ足りないようね。」

パシュー侯爵家は、現国王の側室の実家である。

国王が側室にうつつを抜かし、王妃をないがしろにしているのは周知の事実で、ジークフリートは何とも言えない気持ちになった。

「どうせ誰も私のことなど気にも留めないわ。その私が、入れ代わり立ち代わりしている、『専属』と名ばかりの従者の中に、あなた一人を加えたことで、なんの問題もなくて?」

「そうですが、なぜ?」

「名前が、同じだから。」

またしても想定外の答えに、ジークフリートは困惑した。

「兄さまと同じなのよ、名前が。エルド国王太子である、私の兄の名前も『ミハイル』なの。」

愕然とした。

(そうか。)


 目の前のうら若き王妃は、寂しがっているのだ。


 わずか16歳にして、たった一人で、はるか遠い国に嫁いできたはいいものの、周囲は自分に驚くほど無関心で。

国民にお披露目されることもなく、この空虚な後宮で孤独に過ごすしかなくて。

(なんとも残酷だ。)

ジークフリートは、そっと視線を床に落とすことしかできなかった。


 男を近衛兵に引き渡す際、このことは黙っておくようにと、近衛兵長に釘を刺され金貨を渡されたことも、エルヴィラへの同情をさらに搔き立てた。

(俺は、エルギア帝国の『影』だ。)

必死に自分に言い聞かせる。


 エルヴィラの専属の執事への異動は、本人が言った通り、拍子抜けするほどあっさりと行われた。

彼女の『専属』になることはさして珍しいことではないらしい。

このとき、ジークフリートは初めてエルヴィラの『専属』が、窓ふきや調度品の支度などの業務と大差のないことを知った。

決まった時間に食事を差し入れ、湯あみの準備をする。

お茶の用意や、身支度の手伝いなどは一切行われない。

(王妃への扱いというよりも、囚人の扱いと同じではないか。)

『専属』の者たちはみな、宮殿の下働きとして仕事をしつつ、呼ばれたら、後宮に赴くだけである。

しかも、国王の寵愛を一身に受ける側室が嫌う王妃の世話など、誰もしたがらず、最低限のことを済ませると、すぐに帰るものがほとんどだ。

だが、ジークフリートだけは、時間があれば後宮に赴き、エルヴィラの話し相手になっていた。


 だから、ジークフリート以外は知らない。

王妃は、気温が上がると体調を崩しやすくなり、ひっそりと苦しんでいることも。

月に一度、義務のようにウルキア国王がエルヴィラの寝所を訪ねた次の朝、彼女が泣きはらした顔をしていることも。


 「ねえ知ってる?」

ハーブティーを淹れていると、エルヴィラが嬉しそうに語りかけてきた。

「何でしょう。」

「侍女たちがお喋りしたのが偶然耳に入ってね。あなた、一部の侍女に人気らしいのよ。」

「はあ。」

何のことやらと、ジークフリートは眉をしかめた。

本来こんな態度をとることは不敬にあたるが、それを咎める者はこの場にはいない。

「でもね、それに対して侍従たちがこう言ってたらしいの。「あんなひ弱そうなやつのどこが良いんだ」ってね。」

「へぇ。」

焼き菓子を差し出しながら、適当に相槌を打つ。

「それが面白くって。」

クスクスと肩を震わせながら、ほれぼれする仕草でエルヴィラはティーカップを傾ける。

「あなた、かなりがっしりした体格のほうなのに。」

女神もかくや、という艶やかな笑顔のエルヴィラに息が止まりそうになった。

ジークフリートは、武術を生業とする者としては線が細い部類にあたる。

だからこそ、密偵として重宝されているのだ。

「みんな、私以上にあなたのことを知らないのよ。」

穏やかな風が、手入れがされているとはお世辞にも言えない庭を吹き抜けていく。

「どうか、そばにいて。」

その声が、ジークフリートに届くことはなかった。


 その年の冬、エルヴィラが懐妊した。

本来祝福で包まれるはずの離宮には、殺伐とした空気が漂っていた。

それはひとえに、彼女が側室よりも早く身ごもったためである。

毎日差し出される食事には、密かに、流産を促す薬が混ぜ込まれた。

そのころには、ジークフリートは、エルヴィラを守ることに躊躇などしなくなっていた。

『影』の長は、ジークフリートがエルヴィラに肩入れしていることを薄々勘づいていたかもしれない。

しかし、密偵としての仕事を完ぺきにこなす彼に、何も言うことはしなかった。

ジークフリートはエルヴィラに、差し出される食事を口にしないよう指示し、自ら食事を作っては持参した。


 「ねえ、私の子よ。女の子。」

額に汗を浮かべ、エルヴィラは微笑んだ。

それは、母性にあふれたもので、彼女が母親になったことをジークフリートに自覚させるには十分で。

産婆と数人の侍女しかいない状態での出産は、困難を極めたが、エルヴィラは無事に女児を授かったのだ。

冷たい後宮の一室に、生命力あふれる赤ん坊の声が響き渡る。

「おめでとうございます、王妃殿下。」

「格式ばった挨拶はよして。」

荒い呼吸を繰り返しながら、エルヴィラは腕の中の女の子を優しいまなざしで見つめる。

「セルフィーネという名前にするわ。」

「素敵なお名前です。」

そう、と嬉しそうに呟くと、エルヴィラは、セルフィーネの額にキスを落とした。

「良かった。女の子で。少なくとも醜い争いには、巻き込まれずに済む。」

本当は、どんな子でも祝福されて当然なのに。

ジークフリートは、歯痒い思いでその様子を見ていることしかできなかった。


 そうして、二年の穏やかな月日が流れた。

エルヴィラは、産後から体調をより一層崩すようになり、小康状態を繰り返していた。

同じころ、側室が懐妊し、国中はおめでたい雰囲気に包まれていた。

忘れ去られた王妃と、祝福される側室。

だが、それでもジークフリートは構わなかった。

エルヴィラとセルフィーネが、穏やかに生きてけさえすれば。

だが、突如として別れは訪れる。

その年の秋にエルヴィラは、風邪に罹患し、あっけなくこの世を去った。

王妃が死にそうだというのに、国王は様子を見に来ることもしない。

死の間際、エルヴィラそばにいたのは、ジークフリートとセルフィーネだけだった。


 「ミハイル。こっちに来て。」

呼ばれて枕元に近づくと、エルヴィラはジークフリートの手を握った。

そのあまりの冷たさに、もうすぐそこに彼女との別れが迫っていることを感じざるを得ない。

静かにその手を握り返すと、エルヴィラは驚くべきことを口にした。

「最後に、あなたの本当の名前を教えて。」

お願い、と弱弱しく笑う彼女に目を見張る。

「気づかないと思って?初めて会ったっときの身のこなしから、ただの下働きではない、ことはわかってたわ。あなたが時々、外部の誰かと連絡を取っていたことも。」

だけど、と言葉が続けられる。

「そんなこと、どうでもよかった。あなたは、私が、唯一信じられる、相手だった。あなたが、どんな人であろと、そばにいてくれたことに、変わりはないから。」

だから、とエルヴィラの眦から一滴の涙がこぼれ落ちた。

「最後に、あなたの、名前を教えてくれない?天国に、持っていきたいの。」

とぎれとぎれの言葉の間に、その切実さが垣間見える。

「ジークフリート。ジークフリート・ゾルゴールです。」

ジークフリート、と何度か口の中で転がした後、エルヴィラは幸せそうに笑った。

「ああ、ミハイルよりもジークフリートのほうがしっくりくるわ。おかしいわね。」

それから、セルフィーネ、とエルヴィラは愛娘の名を呼んだ。

ジークフリートがセルフィーネを抱き上げて、エルヴィラに見せると、エルヴィラはゆっくりとその頭を撫でた。

「どうか、幸せになってね。」

まだ、母親の状態を把握できる齢でないセルフィーネは、不思議そうにエルヴィラを見つめる。

「この子をお願い。」

「命に代えても。お守りいたします。」

ありがとう、と微笑むとエルヴィラは最後にもう一度ジークフリートの手を握った。

「ジークフリート。」

「はい、エルヴィラ様。」

「もし生まれ変わったら、私、あなたの奥さんになりたいわ。それで、セルフィーネと三人で、小さいけど暖かいお家で過ごすの。」

ふふ、と恥ずかしそうに告げると、エルヴィラは目を閉じた。

「言い逃げすること、許してね。」


 それっきり、エルヴィラは目を覚まさなかった。

「わたくしも、あなたをお慕いしておりました、エルヴィラ様。」

告げることの許されなかった言葉を吐き出す。

それが、エルヴィラの18年という短い人生の終わりだった。



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