消えゆく影
「何故ですか?何故こんなことを?」
ミレーネは、プラチナブロンドの髪を振り乱し、およそ公爵令嬢らしからぬ声を上げた。
エメラルドの双眸から涙が溢れる。
「私はこれほど公爵家のために身を捧げたというのに!」
ここは、ヴィルカドル公爵家の大広間。
私兵に取り押さえられた哀れなミレーネを、数歩離れた場所から、冷ややかな目線で見つめているのはこの家の当主一家である。
「何故!どうしてですか⁉」
「贅沢な暮らしに慣れ、自分を公爵令嬢と勘違いしたか?」
ヴィルカドル公爵が一歩、ミレーネに近づいた。
「お父様!」
「貴様に父と呼ばれる筋合いはない!下賤なお前にそう呼ばれるだけで虫酸が走るわ!」
そう叫ぶなり、ミレーネの腹を公爵は硬い革靴で容赦なく蹴り上げた。
「きゃあ!」
ゲホゲホと咳き込む彼女に浴びせられたのは、冷たい蔑むような笑い声だった。
「これでようやくお前と同じ空気を吸わなくてすむな。」
一番上の兄、カルロスに二番目の兄エルセイドが大袈裟にうなずく。
「こいつが横を通るたびに息を止めるのは大変だったからな。」
(そばを通り過ぎるたびに毎度、わざわざ足を引っ掛けて来たくせに。)
「でも、これも今日で終わりだわ。」
長姉シアンナが赤い口紅が塗られた唇を、三日月形に吊り上げた。
「本当の「ミレーネ」が見つかったのだから。」
ヴィルカドル公爵夫人から大切そうに肩を抱かれ、ミレーネを楽しそうに見下ろす少女。
その髪と瞳は、公爵家の人間、そしてミレーネと同じ色だった。
床で惨めに跪く彼女は、公爵令嬢「ミレーネ」ではない。
メイヴィス、それがこの憐れな少女の本当の名だ。
メイヴィスは、孤児だ。
古びた指輪とともに捨てられたらしい。
彼女は貧民窟で、育て親である老人と暮らしていた。
全てが変わったのは彼女が12歳のとき。
いつもどおりに仕事を終わらせ、家へ急いでいた彼女は、不意に男三人に囲まれた。
「騒ぐな、おとなしくしろ。」
そうして、剣を突きつけられ脅され、あれよあれよという間に公爵邸に連れて行かれて。
カタカタと震える彼女に、公爵は高圧的にこう言った。
「お前には、いなくなったミレーネの代わりになってもらおう。この公爵家の一員となれること、ありがたく思え。」
拒否権などなかった。
ヴィルカドル公爵家は、ウルキア王国でも由緒正しく、莫大な富を持つ。
その公爵家には、12歳になったばかりの公爵令嬢ミレーネがいた。
彼女は、大国であるエルギア帝国の第4皇子のもとへ、生まれたときから輿入れすることが決定していた。
ところが、彼女は、一家全員で領地に避暑へでかけた際に失踪してしまったのである。
公爵は、手を尽くして彼女を探し回ったが、見つからない。
誘拐なども視野に捜査したが、だめだった。
公爵家がミレーネを死亡したと公表に踏み切れないのには、わけがあった。
エルギア帝国への嫁入りである。
この婚約によって、ウルキア王国はエルギア帝国から軍事面での支援を受けることになっていた。つまるところ、軍事同盟だ。
だが、この婚約は、それだけでない。
エルギア帝国の第4皇子と結婚するということは、すなわち、エルギア帝国の皇族の縁戚になれるということだ。
この地位は、王国の貴族の誰もが喉から手が出るほど欲しがるもの。
故に、ヴィルカドル公爵家は、この栄光を手放したくなかったのだ。
プラチナブロンドの髪にエメラルドの瞳という色は、この国では大変珍しい。
彼女の代わりの少女を、ヴィルカドル公爵家は血眼になって探し回り、ようやく見つけたのが、メイヴィスだったのだ。
それから、地獄のような日々が始まった。
本来四歳から施される教育に追いつくために、日が昇る前から勉強を強いられ、自分たちから招き入れたくせに、公爵家の人間は同じ空気を吸うことを厭い、彼女の姿を見れば、罵詈雑言を吐く。
公爵家の使用人も、愛しい「ミレーネ」の代わりを汚い平民がするのが、嫌だったのだろう、手を上げることなど日常茶飯事。
(なんのために私は、生きているの?)
何度も自問自答し、しかし、死ぬことは許されない。
大切な人との約束があるから。
彼女は、完璧な公女となった。
社交界の華といわれるほどに。
なのに。だというのに。
一ヶ月前に現れた少女「ミレーネ」が全てを壊したのだ。
彼女によると、避暑に出かけた際、誤って湖に落ち、親切な老夫婦に拾ってもらったという。
記憶喪失になっていた彼女を、老婦人は愛情たっぷりに育ててくれたらしい。
そうして穏やかに育った彼女だが、ある日突然記憶をとりもどした、というのだ。
彼女の言葉の整合性から、公爵は、彼女が本物のミレーネだと判断した。
それからは、早かった。
公爵は、いとも簡単に影として育てたメイヴィスを切り捨てたのだ。
嘲り笑いながら。
「連れて行け」
「お父様!どうか、命だけは!」
身を投げ出し、無様に命乞いをする「ミレーネ」だった少女の見事なプラチナブロンドの髪を、私兵が容赦なく掴み、引きずり倒す。
「いい光景だ。」
ヴィルカドル公爵は、元娘だったものの醜態に目を細めた。
「ぬかるなよ?」
「全て手筈通りに。」
私兵の長に、鷹揚に頷くと、公爵は本物の「ミレーネ」を振り返った。
「さあ、今夜は待ちに待った、お前の婚約者である皇太子殿下との初謁見だ。大陸中の王族、貴族が集う。その主役に相応しい準備をしなくては。」
「はい、お父様。」
ふわりと花がほころぶような笑顔に、公爵は相好を崩す。
閉められた大広間の扉の外で叫ぶ「ミレーネ」の影だったものの声など、彼の耳には届いていなかった。
どれくらい走っただろうか。
(どこへ向かっているのかしら?)
公爵邸の大広間から引きずり出されたあと、ミレーネ、いやもはやメイヴィスに戻った少女は、囚人更迭用の馬車に押し込められた。
手足には、枷がはめられ、その先は馬車の支柱に繋がっている。
乱暴な運転のせいで、固い座席のあちこちに身体がぶつかり、正直地味に痛い。
親の唯一の形見である、古びた指輪をぎゅと握る。
この指輪だけは誰にも取られたくなくて、メイヴィスは肌見離さずもっていた。
まあ、誰もこんな流行遅れのデザインの指輪など見向きもしないのだが。
先程から振り始めていた雨が粗末なガラス窓を打ち付ける。
水滴の伝う窓に映る上質なプラチナブロンドの髪に、最高級の輝きを放つエメラルドの瞳。
本当のミレーネとは異なり、左目の下の泣きぼくろが特徴的なメイヴィスの顔つきは艶やかで冷たい印象を抱かれることが多い。
なおかつ、男を誘うような肉感的な身体つき。
公爵家の人間には「まるで娼婦のようだ」と蔑まれた。
「私は、使い捨てのオモチャでしかなかったのね。」
誘拐にも等しい方法で自由を奪われ、好きなように利用して、挙げ句にこの仕打ち。
「なにが、公爵家の人間だと勘違いしたか?よ。」
一度も、彼らを家族とは思ったことがない。
たとえ血がつながっていたとしても、あんな人間たちとは家族にはなりたくなかった。
ガタンッと馬車がとまった。
(何?)
扉がギィッと開いた。
「?」
入ってきたヴィルカドル公爵家の私兵が、メイヴィスの顎を持ち、頭を壁に押し付ける。
「何をなさるのです!?」
「公爵閣下からの命だ。ミレーネ様の名を騙り、公爵家を欺いた毒婦には、苦しみの果ての死を、とな。」
公爵家の紋章が入った制服の懐から硝子の小瓶が取り出される。
(毒⁉)
「やめて!何故こんなひどい仕打ちが出来るの?」
「黙れ、平民風情が。」
口にとろりとした液体が流し込まれる。
「んー!んんー!!!」
無理やり嚥下させられた毒が食道を伝って胃に落ちるのが分かった。
(許さない。)
薄れゆく意識の中で、メイヴィスは公爵家の紋章を睨みつけた。