第27話 最後のわがまま
雄輝はしばらく、一面の白い花を前に立ち尽くしていた。
「ん?」
風で花が揺れる。その風にのって、微かな音が雄輝にまで届いた。まるで、その音に合わせて花が踊っているかのようだ。
「歌?」
耳をすます。澄んだ声は、雄輝の疲れた心に、すっと染み入った。その声に導かれるように、雄輝は足を進める。
開けた場所に出た。花に囲まれ、そこだけステージのように盛り上がった丘に彼女はいた。
「ああ」
声が漏れた。こんな、美しい光景を生涯で初めて見た。雄輝は息を飲む。そして、吸い込まれるように彼女の方へと歩いて行った。
歌声の正体はクレアだった。伸びやかなその声は、雄輝以外の誰もいない丘に響き渡っている。
その桃色の髪がふわりと揺れた。くるり、くるりと足を動かす。白い裾が、そのリズムに合わせて舞っていた。
クレアはその羽をしまい、蒼い鎧も脱いでいた。雄輝は初めて見る。クレアの戦士としてではなく、一人の少女としての姿を。
その光景を見て、これが本来のクレアルージュ・シアンフィールドなのだと雄輝は悟った。
幼い頃から使命感に燃え、その技術を磨き上げた。魔導騎士として、王国の存亡のために立ち上がった。そして、「終わり」のない戦いの日々に心をすり減らしても、それでも前を向いて走り続けた。全ては皆のために。幸せな「終わり」のために。
クレアがまとう白いワンピース。それは、雄輝が心奪われた彼女の白い羽よりも、もっと白く輝いている。
彼女の、戦士になる前の無垢な心。雄輝は、初めてそれに触れた気がした。
「ああ、マズい」
胸がきゅっとなった。涙が出そうになる。クレアに近づく度に、己の中に生まれる複雑な感情を全て叫びたくなる。
泣くな、雄輝。自分に言い聞かせる。涙が出れば、このクレアを胸に焼き付けることができなくなる。
彼女を支えたいと。共に歩きたいと。できるなら、未来を一緒に作りたいと。
そんな相手、クレアとの最後の思い出を涙に邪魔はされたくない。雄輝は、右腕であふれた涙を拭って、笑顔をつくって、クレアの元へと走った。
「ユウキさん!」
クレアは、そんな雄輝の下手くそな笑顔に満面の笑みを返す。そして、軽い足取りで近づいてくると、雄輝の手をとった。
クレアの急な行動に驚きながらも、その温もりを感じて、雄輝の笑みから固さが消えた。
雄輝はそのままクレアに丘の一番高いところまで連れて行かれた。
「おお」
白い花びらが風に舞った。ネメシオンを倒すまで暗い色しかなかったそこは、太陽の輝きで命をきらめかせていた。
クレアは雄輝の手を、ゆっくりと離した。名残惜しそうな表情は一瞬だけ。そのまま、雄輝の視界の前にふわりと現れる。
「私は、この景色が見たかった」
もはや、繰り返しすぎて忘れていた戦乱の前のシルヴァランド。生命の光に満ちた、美しい世界。
クレアは、ようやく、それを思い出すことができた。この光景を取り戻すこと、それが目標だったことを思い出せた。
「ありがとうございます。ユウキさん」
ぺこり、と頭を下げる。その力強さに、桃色の髪が勢いよく舞った。
クレアが思い出すのは、雄輝と初めて出会った日のこと。世界を渡るも、誰も自分のことを認識してくれないことに絶望していたクレアの前に現れた、微かで、確かな希望。
「貴方と出会えて、本当によかった」
雄輝がいたから、再び走り出すことができた。雄輝と一緒だから、何度も一人で立ち向かった旅路も楽しかった。
彼がいなかった頃を、クレアはもうほとんど思い出せなくなっていた。それだけ、積み重ねた繰り返しの中で、大切だった時間。
それが、もうすぐ、終わる。その予感が、胸を苦しめる。その蒼い目が、悲しみに少し揺れる。
(ああ、でも、だからこそ、伝えきらないと)
それでも、決めていた。最後は笑っていようと。そして、言いたいことを言ってしまおうと。
これはクレアなりのわがままだ。常に他の人の幸せのために飛んだ、無垢なる翼を持つ少女が、『終わり』の先を望んだ。そんな、ただの欲望の吐露。
――どうか、私を助けてください。
雄輝はクレアが彼女自身を対象とした願いを好んだ。だから、自分らしくいこう。クレアはニコッと笑う。
「本当は、貴方の物語の続きを見てみたかった」
最初は巻き込んだ申し訳なさでいっぱいだった。実際に、会ったばかりの雄輝はシルヴァランドのために戦うことを嫌がった。
無理も無い。雄輝の世界を歩き回っていた時に、彼の世界のことを少しは知った。明日が来ることを信じられる、平和な理想郷。
そこで育った彼には、とても酷なことを頼んだとクレアはずっと後悔していた。
「でも、それは叶わない夢なんです。それでも、ユウキさんには覚えておいてほしい」
それでも、雄輝は何度心折れそうになっても、戦い続けた。生まれながらに戦士として育てられたクレアとは違う、平和な世界の少年だ。時々、どうしてそこまで、とクレアも疑問に思うほどに、彼は一心不乱に剣を振るった。
それが最初は分からなかった。しかし、今なら、分かる。
――いいな、それ。やる気が出てきた。
(ユウキさんは私のために戦ってくれていた)
いつの間にか、そんな彼に惹かれていた。
この想いに未来は無い。だから、これはわがままなのだ。
誰かのためではなく、自分のために願う。『終わり』だからこそ、許された。そんな最初で最後のわがまま。
クレアは少しだけ目を閉じる。頷いてから、目を開けて微笑んだ。
「このシルヴァランドがここにあったことを。そして、私がここにいたことを。……どうか、覚えておいてください」
思い人との未来を見れないのなら、せめて、思い出には残りたい。そんな、彼女としては精一杯の、純粋すぎる恋心の発露。
「忘れるわけ、ないだろ」
そんな想いをぶつけられ、雄輝の目からは耐えていた涙がこぼれ落ちる。
「俺は絶対に忘れない」
感極まって、雄輝はクレアを抱きしめた。初めて触れた彼女の体は、思っていたよりも細く、確かな熱を感じた。
一瞬、驚いた顔を見せたものの、クレアはそのまま雄輝に身を任せた。
忘れない。絶対に忘れない。たとえ、世界がクレアを無かったことにしようとしても、この心に刻まれた旅路の記憶は永遠のものだ。
クレアはここにいる。夢物語ではなく、確かな温もりがここにある。
「本当に、貴方に出会えてよかった」
耳元のクレアの声が、途中から薄くなる。徐々に、視界が白く染まっていく。これが『終わり』なのだと思うと、クレアを抱きしめる力が強くなった。抗うように。
しかし、その感触も少しずつ消えていく。指先から少しずつ薄れていき、音も遠くなっていく。抱きしめようとしても、腕に力が入らない。温もりは、少しずつこぼれ落ちていく。
ふと、クレアが笑った気配がした。
「ユウキさん、私、貴方のことが大好きです」
詰まった声で、雄輝は振り絞って答える。
「……俺もだ」
その声は風に消え、閃く光にすべて溶けていった。
その光の中、消えていく温もりを抱きしめながら、雄輝の心はただ彼女の名を叫び続けていた。
そして、物語は幕を閉じたのだった。




