第21話 夢か現か
雄輝は図書館で一人、ぼんやりと天井を見つめていた。座っているのは利用届を出せば使うことのできる共用のパソコン前。
画面は先程から変化していない。最初に触ったきり、雄輝は手を頭の後ろに置いて、物思いにふけっているだけなのだから当たり前だ。
何に集中しているわけではないので、ピントが合わずに視界は歪む。顔は上に向けているのに、彼の思考はどんどん深いところに沈んでいく。
目が覚めたとき、いつもだったら何を考えているのだろう。あらためて思い出そうとしても、そんな記憶がはっきり残っているはずがない。
例えば、こんな夢を見たとしよう。目の前に楽園が広がっていた。その甘美を貪り尽くし、この世の天国を味わった。ああ、最高だと余韻に浸っていると、ふとした拍子に目が覚めて、今までの出来事が全て目の前から消え去ってしまったとしたら。
その時の絶望は如何程になるだろう。
馬鹿馬鹿しい、と雄輝は己の想像に対して首を横に振る。想像もつかない。そもそも、想像することではないのだ。
まず、前提が間違っている。今、考えなければいけないことは夢の話ではない。確かに存在した現実の話。いきなり全て無くなってしまう、そんなことは起こるはずがない。
しかし、今のぼんやりとした感覚をあえて言葉にしようとするのなら。
今までのことが夢ではないかと疑うくらいには不確かで。現実だと言い聞かせなければいけないほどに、ふんわりと記憶から抜け落ちていってしまっている。
その焦燥が、雄輝に変な想像をさせているのだ。
(なんか、はっきりしないのは事実なんだよな)
あれだけ濃い、文字通り体に刻み込まれている経験が、たった三日、間を開けただけで薄れていってしまっている。
これも、彼女の思惑通りだったわけだが。
(きっと、だいじょぶ。なんてな)
クレアの口調をまねてみて、しっかり言い方まで再生できたことに安堵した。
その時は、そんな単純な問題ではないと思った。しかし、現実はこうして平らな感情で過ごしている。あの日は、あんなに荒ぶっていたというのに。
このまま、元の日常だけを過ごせば。シルヴァランドのことは記憶から抜けてしまって。
あいつのことも、忘れてしまうかもしれない。
「それは、嫌だな」
ポツリと、雄輝の口から本音が飛び出した。口に出した瞬間、恐ろしささえ感じて、思い出そうと目を閉じる。
――良かった。ようやく、出会えました。
初めて彼女と出会った光景。目の前に広がるのは、風に靡く桃色の髪と純白の翼。その出会いが退屈な日常を全て吹き飛ばした。
これまでの日々を振り返れば、楽しかったと言えるのか。自分にこんな感情があるのか、と高揚した。クレアが褒めたたえるから調子に乗ったのかもしれない。
気づけば、最初は恐ろしく感じていた敵も慣れてきた。勇者だと救世主だと持ち上げてくる民衆からの声も、恥は残しつつ受け止められるようになってきた。
怠惰に過ごしていた前までの雄輝からは感じられない変化。それでも。
(俺は、やっぱ違っていた)
彼の本質は勇者ではなく、こちらの世界の一般人に過ぎなかったのだ。
あの日も、途中までは順調だった。相対したのは神魔七柱の一つ、『水魔エレル』。見た目は足のついたクジラのような獣だった。
見た目は鈍重。しかし、雄輝は沼に足をとられる戦場で、その巨躯で泥の中を駆け巡る。本来であれば、その速度と圧力だけで脅威に感じるだろう。
でも、これくらいなら。
雄輝はクレアのサポートを受けて立ち回る。沼の上に薄く張られた力場を渡り歩き、エレルの猛攻をかわし続けた。経験が、勇気の背中を押す。足は止まらない。
狙うは腹。大技を狙って、跳ねたところを貫く。クレアから伝えられた作戦を、雄輝は冷静に実行した。
響く悲鳴。これまでの神魔狩りで何度も聞いたそれは、しかし、その時だけ様子が違っていた。
――イヤだ、イヤだ、何で、何で、何で!
その悲鳴が雄輝の脳を揺さぶってきた。はっきりした、悲痛な叫びが意味を持って襲い掛かってくる。高めな声が、子どものそれを連想させて、それも彼の心をえぐる。
――死にたくない、終わりたくないっ!
一際大きな断末魔が、通り過ぎた。悶え苦しんでいたエレルが動きを止めた。戦いの終わり。
しかし、雄輝は動けず、その場に立ち尽くしていた。手の平にしっかりとした感触が残っている。それが、たまらなく気持ち悪かった。
エレンは無慈悲な殺りく兵器ではなく、意思の疎通ができる動物だった。いや、もしかしたら、今まで気づかないだけで、そういう魔物がいたのかもしれない。
頭が真っ白になる。もう、動かなくなった巨体。そこから彼は目が離せない。
雄輝は知らなかった。いや、知ろうとしなかった。相手はクレア達の敵だと心に蓋をし、感じ取ろうとしなかったのだ。
敵も、生きているという事実を。その命を、自分が奪っているのだという現実を。
上手くいったことで安堵した雄輝に突き刺さる怒りと悲しみ。それは、本来であれば動物の命を奪うことすらしてこなかった雄輝の心を壊すには十分だった。
(あれから、どうしたんだっけ)
その辺りの記憶は曖昧だ。糸が切れた凧のように動けず、気づけば街に戻っていた。きっと、クレアが何とかして連れ帰ってくれたのだろう。
それからの雄輝は酷かった。ことあるごとにあの断末魔が耳によみがえってくるのだ。その都度、命を奪う重みに耐え切れず叫んだ。そうでもしないと、本当に壊れてしまいそうだった。
クレアと対峙することでさえ、戦士としての顔をしていた彼女を思い出し、自分との違いに恐怖した。
何より、彼女をそんな目で見てしまう自分が嫌だった。
――ユウキさん、私達と距離を取りましょう。
そんな彼に、クレアは失望もせず、穏やかな表情を崩さずに言った。
――本音を言えば、ずっと一緒に戦いたいのですが、ユウキさんのそんな顔を見るのは嫌です。だから、ユウキさんを送った後、宝箱を閉じます。
宝箱を閉じる。それは、シルヴァランドへの道を閉ざすことを意味する。つまりは、クレア達との繋がりがなくなるのだ。
雄輝は全力で首を横に振った、つもりだった。ここから離れたい、その気持ちが否定の意思を弱くした。
そんな彼に、クレアは微笑んだ。
――だいじょぶです。私一人でも頑張りますし、入り口が閉じればユウキさんも落ち着きますから。
それから無理やり宝箱に突っ込まれて、別れを口に出す暇もなく元の世界に戻されたのだ。
(そっから記憶がはっきりしてるよな)
取り乱していたのが嘘みたいに、雄輝の心は静けさを取り戻した。同時に、シルヴァランドの出来事がまるで夢であったかのようにぼんやりとしはじめた。
こうして思い出してみても、輪郭がはっきりとしない。雄輝はもどかしく思う。
ただ、はっきりと思い出したこともある。
――だいじょぶ、だいじょぶ。ユウキさんに会えたんだから。
宝箱に突き飛ばすクレアが呟いた最後の声。震えていた、明らかに小さな声。
雄輝にではなく、自分自身に言い聞かせるかのような、クレアのか細い声を。
――もしこのまま終わらなかったとしても、私はまだ頑張れる。




