第2話 運命の遭逢
心地いい風が頬をなでた。
「ん」
その風にのってやってきた独特の芳香が雄輝の意識を覚醒させる。
それは最近知らずに口にして、思わず吐き出してしまった香草によく似ていた。普通に生活するうえでは出会うことのない匂い。せっかく変わった料理を用意してくれた母には悪いが、脳が拒否したが故の反応だ。大目に見てほしい。
ゆっくりと目を開く。生い茂った枝葉の隙間から、青く、澄み渡った空が見えた。穏やかな陽光が枝葉の隙間から差している。
その光には見覚えがあった。一度、神社の大木の側で寝っ転がったことがある。眼前の景色は、その時に見えた絵とよく似ていた。
と、いうことはだ。どうやら、自分は仰向けに倒れているらしい。
現状を把握し、雄輝はまだ覚醒しきってない頭を振って起き上がった。
「えっ」
言葉を失う。雄輝の眼前には、全く見覚えのない光景が広がっていた。
雄輝がいるのは小高い丘の上。丈の短い草が緩やかな風に吹かれ揺れていた。それが、またあの強い芳香を運んできた。香りのする方向、風上を目で追ってみれば緑の草の中に一輪の花が咲いている。大きさは手のひらほど。花びらはまるで、絵の具で塗りたくったかのような原色の赤で、周囲の緑から浮かび上がっていた。
その強烈な違和感に脳が誤作動からの痛みを発しだす。思わず視線をそらせば、背後には見慣れた大樹が雄輝を見下ろしていた。
全身を安堵が撫でる。状況が変わったわけではないのに、緊張が緩和した。ただ、足元に「例の箱」があったことで、険しい顔に戻ったわけだが。
確か朝の登校時間中の寄り道だったはずだが、実は目覚めていなくてずっと夢でも見ているのだろうか。だが、夢だとしても全く見覚えのない空間に一人いると、どうしようもない不安が襲ってくる。
「……なんだ、ここ」
誰に言うこともない呟き。だが、意外なことに返事があった。
「ようこそ、 シルヴァランドへ!」
「どわっ」
急に上から降ってきた声と人物に、雄輝は後ろに飛び退いた。
内側から叩いてくる心臓。呼吸は荒く、息苦しい。雄輝は頭上から飛び降りてきた、自身の苦しさの元凶を睨みつけた。
目に映るのは紅の鋼をまとった少女だ。桃色の長い髪が、草原をかける風になびいている。幼さの残る容貌は雄輝と同じく中学生くらいに見えるのに、彼と違うのはその雰囲気だ。ただ立っているだけなのに彼女がまとっている凛とした佇まいは非常に大人びていた。
(あれ?)
雄輝は不可解な感覚を覚える。彼女の姿に「何か」が足りないと思えた。
(ああ、そうか。羽がはえてないのか)
純白の翼を広げる彼女の姿を思い浮かべると非常にしっくりときた。そこでようやく、神社の大木で一瞬だけ見えた少女と眼前の彼女が結びついた。
まだ落ち着いていない息をできるかぎり悟られぬよう、雄輝は彼女に向ける視線を強くした。
「いきなり何だよ。あんたは」
そんな彼の視線を気にすることなく、少女は屈託のない笑みを浮かべていた。
「私はクレアルージュ・シアンフィールド。お気軽にクレアとお呼びください、ユウキ様」
クレアは両手を広げ、歓迎の意を示している。何がそんなに面白いのか、にこにこという擬態語が目に見えるようだ。
そんな彼女が放つ空気に流されそうになったが、雄輝にとって看過できない言葉があった。
「ちょっと待て、何でおまえは俺の名前を知ってるんだ?」
「え、だって出ていますし」
クレアは右手の人差指で、自身の頭上に死角を描く。
「マジで!?」
驚いて見上げる雄輝の目には何も映らない。そんな彼の姿に微笑むと、クレアは「私にしか見えませんが」と大したことがないように呟いた。
「大丈夫ですよ。何でも見えるわけではないですから」
「いや、名前を知られてるってだけで、そうとうに気持ちが悪い」
立て続けに起こった理解しがたい出来事に頭痛を覚える雄輝。彼の思いを知ってか知らずか、クレアは尚嬉しそうに笑顔を浮かべている。
「はぁ、帰りたい」
これならば退屈な学校生活の方がマシだろうと、雄輝は大きく息を吐く。
「お帰りでしたら、また箱の中に戻れば帰れますよ」
「あ、そうなの。ご親切にどうも」
夢なら早く覚めてしまえばいいと、クレアを素通りして箱に近づこうとする雄輝を見て、ようやく彼女から笑顔が消えた。
「ま、待ってください。せめて、お話だけでも聞いてくださいよ」
がしっと腕をつかんだ腕は、女の子とは思えないほどに力強く雄輝はそこから一歩も動けない。慌てているせいか力加減を考えていないクレアは、必要以上の強さでぎゅうぎゅうと握りしめている。
「痛い痛い、分かった、分かったから離してくれっ」
「あ、申し訳ありません」
ぱっ、と急に離されて雄輝は勢いよく地面に転がった。草が柔らかく受け止めてくれたからか身体にダメージは少ない。
だが、心が少し痛かった。
「それで、何かあるの?」
草の上に座り込んだ雄輝は指の跡が残った腕を見て眉根を寄せる。視線を上げると、クレアは深呼吸していた。初めて見る表情。
どうやら緊張しているらしい。
「ユウキ様」
真っ直ぐな視線。背景の空と同じく、彼女の瞳は蒼く蒼く澄んでいた。
――綺麗だな。
その輝きを見た雄輝は純粋にそう思えた。
「どうか、私と一緒にこの世界を救ってください」
一息で言い切ったクレアの瞳は、さらに強く輝き出す。ようやく口にすることのできた台詞。彼女の胸に歓喜が踊る。
クレアは高揚した気分で雄輝が口を開くのを待つ。やっと動き出せるのだと。だが、色々と頭の中で想定した答えとは、全く違うものが彼の口から飛び出した。
「なんで?」
「な、なんで?」
まさか理由を聞かれるとは思ってもみなかったクレアは狼狽する。
「いや、だっておまえ、急に言われて『はい。そうですか』と言えるお願いなのか。それは」
なぜ自分なのかという疑問もあるが、そもそもこの世界がよく分かっていないのに救ってくれときた。そして、雄輝自身これが夢だと感じているから、彼女の言葉に真剣さを感じない。
クレアにとっては一世一代の一言だっただけにうろたえ方が酷かった。あちらこちらとフラフラする姿を見ていると、当初感じていた大人っぽい印象は消え年相応に思える。
「そ、そうか。ユウキ様が異界の人だってこと忘れてました。それだと、この後の計画も全部真っ白に」
そんな彼女の姿を見て、雄輝は頭を抱えた。
ああ、夢ならば本当に早く覚めてほしい……。