それぞれ
千尋編
幼心に覚えている。あの日の光景を。野球がしたくてたまらない少女の無念の泣き顔を。あの時、「どうして女の子は男の子に勝てないの?」という素朴な疑問を両親にぶつけた。お父さんもお母さんも「そんなことはない」と言っていたが、幼稚園に入ると「女の子だから」「女の子には」と言う言葉をたくさん聞いた。私はその言葉がとても嫌いだった。
高野連が女性に参加資格を与えた時、私は野球を始めた。最初の頃は男の子にも負けないぐらい練習して、試合でも活躍した。しかし、高学年になってくると男子の遅れてきた成長期にあっと言う間に抜かれてしまった。試合にはなんとか出ることが出来たが、9番ライトとしてでやりたかったキャッチャーは出来なかった。
悔しくて悔しくて練習をたくさんした。しかし、男子との差は縮まらない。だから、私は野球を誰よりも勉強した。ルールはもちろん。プレイヤーの心理、守備の立ち回り方、打率などの計算、野球の全てが知りたかった。お父さんにもたくさん教えてもらった。
小学校6年になった時、ウチのエースはそれほど球が速くないので、よく打たれた。そしたら、監督が私にキャッチャーをやらせてくれた。見事にそのピッチャーの持ち味のコントロールを生かすリードで打者を打ちとった。打者を見て、守備位置も変えていった。そしたら、バッティングもケースを考えられるようになり、ヒットは出なくてもチームに貢献できるようになった。
キャッチングの時に大きな声で「はいたっー」というのが名物になった。
私は女の子だけど、声の大きさと野球の知識は誰にも負けない!!
渚編
私には父がいない。だけどおじいちゃんがいた。おじいちゃんは昔プロ野球選手だった。おじいちゃんは自分にも他人にも厳しい人で言葉数も少なかった。子供の頃、そんなおじいちゃんから教わったのは野球だけ。物心ついた時からおじいちゃんと野球ばっかりしていた。昔から負けず嫌いだった私はおじいちゃんが厳しくすればするほど、がむしゃらに野球をがんばった。小学校に入って、少年野球団に入った時も常にチームのトップでチームを引っ張ってきた。周りからは「あの子は天才だ」「女の子じゃなきゃプロ入りは間違いない」と言われてきた。その言葉が私をもっとやる気にさせた。絶対にプロ野球選手になってやる。なれなくてもプロ野球選手より野球がうまい人がいる。そんな選手をプロにさせられないと後悔させてやる。
私は誰よりも野球を上手くなってやる!
忍編
私は小さな頃は大人しい女の子だった。休み時間はいつも本を読んでいて、何を言われても、耐え忍ぶ名前通りの子だった。そんな私が野球を始めたきっかけはたまたまチケットが余って困っていた千尋に野球場に行かないかと声をかけられた時。何事にもいいよいいよと言ってしまう私はその時もいいよと言ってしまった。言ってしまった後に「私、野球なんて全然分かんないよ」と思った。球場に着くとみんなが大きな声を出して選手を応援していた。最初の方は興味本意で観ていたが次第に飽きてきてしまった。
そんな私がたまたま顔を上げ、グランドを観た瞬間、左バッターが引っ張った打球はそのままライトスタンドに消えていった。会場は大歓声に包まれた。この大歓声が1人に向かって浴びせていると気づいた時、なぜかすごく感動した。後から、千尋に聞くと赤田という選手がサヨナラ満塁ホームランを打ったそうだった。果たしてサヨナラ満塁ホームランがどれだけすごいことかは分からなかったが、自然と私は千尋に「私も野球やりたい」と言っていた。いつも受け身の私が初めて「やりたい」と言った。
「いいよ」と言った後、後悔することが多かった。でも、この言葉に後悔は全くない!
ルナ編
私の誇りはやはり父と母。母はもう引退しちゃったけど、昔は短距離走の日本代表だった。そして当時、父は大リーグでホームラン王に何回も輝く、アメリカのスターだった。そんな父に憧れて、私は野球を始めた。メジャーリーガーの子供、しかも女の子がすごい打球を飛ばすということで周りからすごく注目されていた。昔から注目されるのは好きだった。
小学3年生の時に父が引退して日本に来ることになった時は少し残念だった。でも、野球の世界大会でアメリカが日本に敗れるのを観て、日本の野球に興味を持った。日本でも野球をやるために日本語や日本の文化を猛勉強した。そして、日本でも私の野球が通用することを知った時、私はもっと野球が楽しくなった。最初は苦手だったバントや守備も徐々に上手くなってきた。
中学時代は野球の全国大会にも出た。父からはお前がプロに入ったら.240 10本ぐらい出来るんじゃないかと本気で言われた。
千晶編
小学校の時のあだ名は「デブタ」。太っていてブタの様だったからだ。当時の私はその名前で呼ばれるのが本当に嫌だった。
小6を迎えた私に転機が訪れた。家族で西武ドームに野球を観に行った。スポーツはとても詳しいという訳ではなかったがどのスポーツにも一定の知識はあった。野球では4番がチームで1番打てる人。中村という選手が西武では4番を打っていた。よく見るとその体系はとても丸く、野球選手というよりは力士の様な体系だった。4番というだけあっていきなりホームランをかっ飛ばした。そして次の打席でもホームランを打った。そのことをみんな「おかわり」と言っていた。父親にその理由を聞くと「彼はよく食べるからあだ名がおかわり君なんだ。しかも、彼は太っているのにすごく足が速いんだぞ」。確かに体系からは想像できない俊敏な動きをした。
「私も動けるデブになりたい」
その日から私は体をたくさん動かした。そしてその分たくさん食べた。周りから「デブタ」と言われても全然気にならなくなった。中学に入ってついた「おかわりちゃん」というあだ名に至ってはかなり気に入っている。
動けるデブになってやる。
ともみ編
周りからは「マイペースだね」「ふわふわした感じだね」とよく言われる。確かに私は特に何も考えないで生きていることの方が多い。考えて行動するのは面倒くさいからだ。私は幼い頃から野球をやっていた。父親が少年野球の監督で、野球をやらせたら少しは考えて動くのでは?と考えたらしい。昔から考えるのは嫌いだったが、手先は器用だった。その器用さ故のコントロールを買われピッチャーを任された。何も考えずにただただ投げる。相手に考える暇を与えないピッチングスタイルが意外とうまくいき、いいピッチングが続いた。しかし、中学になるとなぜか簡単に弾き返される。さすがにダメかと思い、変化球もたくさん投げられるように練習した。しかし、それでも打たれる。結局中学校の最後の試合は中継ぎ起用だった。しかし、先発のピッチャーが早々とノックアウトされ中学野球の幕を閉じた。
引退して、顧問の先生にこっそり聞かされた「君はしっかりとリードしてくれる捕手に出会えれば必ず輝ける」
中学時代から千尋の噂は耳にしていた。千尋と野球がしたい…その思いから夏海高校に行くため、一生分の勉強をして、なんとか入学できた。
高校ではあの人に私の球を受けてもらうんだ!