バレない浮気なんてあるわけない
8.バレない浮気なんてあるわけない
大事な見積書を届けてくれた夕子と食事をした次の日、雅俊は改めて正式な契約をするために、上司の取締役と一緒に再び渋谷の本社に訪れていた。
無事に契約を終えると、取締役は雅俊の功績を認め、褒美としてたった今から三日間の休暇をやると言った。
取締役と別れると雅俊は早速携帯電話を取り出し、アドレス帳から一人を選択してダイヤルした。
夕子はいつものように出社して仕事をしていた。
もともと派遣社員の彼女は、一つの部署で一つの仕事をするだけではなく、状況に応じて各部署の応援に回ることが多い。
通常は受付に座り、来客の応対や電話の受け答えをしている。
今の派遣会社に来る前は、NTTのダイヤル案内の仕事をしていた。
夕子は、この日も受付に座っていた。
受付には、もう一人、同じ派遣会社の同僚が座っていた。
夕子は同僚に、昨日の出来事を話していた。
すると夕子の携帯電話が震えた。
夕子は、制服のベストの左側のポケットから携帯を取り出すと、外から見えないようにカウンターの中にしゃがみこんで電話に出た。
「ハイ、浅井です。」
電話の向こうから聞こえてきた声に夕子は思わず顔がほころび、声のトーンを上げた。
雅俊は、一旦、家に帰ると、百合子に告げた。
「急に出張になっちゃって…帰りは明後日の夜だなあ。」
小さめのボストンバッグに二日分の下着の着替えと洗面用具等を詰め込んで支度を整えると、百合子にキスをして家を出た。
「気を付けて行ってらっしゃい。」
百合子は笑顔で雅俊を見送った。
新宿駅のホームには16:00発の特急“あずさ”が既に発車準備を整えて停まっている。
夕子はホームで誰かを待っていた。
しかし、発車のベルがない響いた。
その瞬間、雅俊がホームへの階段を駆け上がってきた。
雅俊は何か叫んで、電車を指差している。
夕子は頷いて電車に飛び乗った。
それを確認すると、雅俊も電車に飛び乗った。
間一髪で電車のドアが閉まる。
雅俊と夕子は互いに電車の中を進んでいき、1両を通り過ぎたデッキで会った。
二人はいちばん近い自由席の車両まで行き空席を探した。
二席とも空いている座席はすぐに見つかった。
雅俊は夕子を窓際に座らせた。
「こんなにドキドキしたのは初めてですよ。」
夕子は胸に手を当て、息を切らしながら、しかし、声を弾ませて雅俊を見た。
「わるい、わるい!ホームを間違えちゃって。気が付いたら違うホームに君がいて僕達が乗るはずの電車まで…焦ったよ。階段の途中で発車のベルが鳴ったときには生きた心地がしなかったよ。でも、冷静に考えれば、君が一人で電車に乗る理由もないし、次の電車を待てばいいだけなのにな。」
そこまで話すと雅俊はようやく落ち着いた。
そして夕子を見て微笑んだ。
「良く来られたなあ。」
「誘っておいてよく言いますね。おかげで父が危篤になってしまいました。」
「ああ、それは気の毒なことをした。」
「まっ!幸村さんったら!」
夕子は雅俊に身を寄せた。
19:48松本駅に到着。
思いつきで、急に来ることにしたので、宿の手配も何もしていなかった。
駅前に観光案内所があるが、この時間ではもうやっていない。
腹も減っていたが、とりあえず、泊まる場所を確保しようと、雅俊は、公衆電話コーナーで電話帳を広げ片っ端からホテルに電話を掛けてみることにした。
明日の予定を考えると、駅に近いほうがいい。
駅のすぐそばにある、東急インでツインルームが取れた。
雅俊と夕子は、一旦、ホテルにチェックインした。
「さてと、せっかく松本まで来たんだ。本来なら信州そばでも食いたいところだが、この辺りの有名店はけっこう閉まるのが早いんだ。もう8:00を回っているから今日は難しいなあ。」
「私は、少しお酒も飲みたいから、おそばじゃなくてもかまわないですよ。」
「よしっ!じゃあ、いいところがある。まかせてくれるかい?」
「はい。」
ホテルを出ると、雅俊はタクシーを拾った。
「“しづか”って居酒屋分かりますか?お城のそばの…」
タクシーの運転手は左手を挙げて、「了解!」と言い、車を出した。
店には10分とかからずに到着した。
“しづか”の店内は黒光りする梁や柱が趣のある雰囲気を醸し出している。
テーブルや椅子は、松本民芸家具で統一されている。
「素敵なお店ですね。」
「そうだろう!ここは、初代女将が4坪の店から始めたそうなんだ。」
雅俊は、まず、ビールと馬刺を頼んだ。
雅俊は二本目のビールを頼むとき、“しづか”定食に鯉こくをつけてを作ってくれるようにお願いした。
この“しづか”定食には、地鶏の焼鳥屋おでんが着いたこの店の名物料理だ。
二人は満足して店を出た。
帰りは二人でゆっくり歩いた。
松本城を見ながら本町通から千歳橋をわたって、本町通から駅前大通りを歩き、ホテルに戻った。
翌朝は、ホテルで朝食を取ると、松本駅から松本電鉄で新島々まで行き、観光タクシーに乗った。
雅俊はベージュの綿パンにフレッドペリーのポロシャツ、ホーキンスのウォーキングシューズ。
夕子はカーキ色のショートパンツにチェック柄のシャツ、コンバースのバスケットシューズ。
河童橋まで、タクシーで来ると上高地のハイキングコースを歩くことにした。
まず、河童橋から明神池までを散策し、明神橋を渡って再び河童橋へ。
「大丈夫?疲れてない?もう少しゆっくり歩こうか?」
「大丈夫です。それより本当に空気が美味しいし、廻りの景色も素敵!私はこういうところには、初めて来たけれど、なんだか病みつきになりそうです。」
「これからは少し暑くなりそうだから、ゆっくり行こう。大正池に着く頃には、お昼を過ぎているから大正池ホテルで食事をして休憩にしよう。」
二人は再び、歩き始めた。
大正池へ向かう途中、ウエストン碑を見た。
「これが有名なウエストン碑ね。」
「ああ、そうだ。良く知っていたね。」
「ええ、上高地と言えば河童橋とウエストン碑でしょう?」
「まあ、そうだね。でも、それがどうした?って感じだよね。実際に来て見てみると。」
「そうですね。で、その…ウエストンって何した人ですか?」
「俺もよくは知らないけど、この上高地を世界に紹介してとか何とかって、ガイドブックに書いてあったのを見たような気がする。さあ、行こうか?そろそろ腹が減ってきた。」
二人は、田代橋を渡り、梓川沿いに進んでいった。
大正池ホテルに着いたときには午後1時を過ぎた頃だった。
ホテルのレストランで二人はカレーライスを食べ、30分ほど休憩した。
今度は今来た道を引き返したあと、林間コースを歩き、再び田代橋に出たが、橋は渡らず、カラマツ林を通り河童橋まで戻ってきた。
二人はゆっくり約8時間かけて、上高地のハイキングコースを散策してきた。
二人とも心地よい疲労感を味わいながら、バスの時間まで五千尺ホテルの喫茶室で一休みすることにした。
「ここの手作りケーキは絶品らしいよ。」
雅俊は夕子に五千尺ホテル自慢の手作りケーキと紅茶をすすめ、自分はコーヒーを飲んだ。
それから、バスで新島々まで戻ると、再び松本電鉄で松本まで戻ってきた。
松本に戻ると、バスターミナルから浅間温泉へ向かった。
前日、東急インから予約を入れておいた“ホテル玉ノ湯”にチェックインした。
落ち着いた数寄屋風のたたずまいは、疲れた気持ちを即座に癒してくれた。
二人は早速温泉に浸かることにした。
大浴場には総檜づくりの露天風呂が併設されている。
雅俊はゆっくりと湯に浸かり、今日の疲れを癒した。
夕子は汗を流して、入念に身体を洗った。
風呂から上がると、“車坐”といわれる古民家風の板の間で地元の音楽家によるコンサートが開かれていた。
二人はしばらくコンサートを聴きながら、火照った身体を冷ましてから部屋に戻った。
部屋に戻ると、食事の支度が終わったところだった。
部屋係の女性が、地元の素材にこだわった懐石料理だと言って簡単にメニューを紹介してくれた。
そして、二人のグラスにビールを注ぐと、挨拶をして下がっていった。
二人は、まずは乾杯してから料理を堪能した。
信州牛のステーキは絶品だったし、念願の手打ちそばも旨かった。
食事が終わると、夜の温泉街を二人で歩いた。
1時間ほどかけて、ゆっくり歩いた。
ホテルに戻ると、今度は屋上の展望露天風呂に入った。
展望露天風呂からの松本平の夜景が美しかった。
雅俊は風呂から上がると、夕子が出てくるまで待って部屋に戻った。
部屋には布団が二組敷かれてあった。
雅俊と夕子は、顔を見合わせて、クスッと笑った。
ドラマなどで良く見るシュチエイションの通りだったからだ。
雅俊は、とりあえず、コップを二つ持って冷蔵庫の間ビールを出して窓際の椅子に座った。
夕子は洗面所で乳液か何かを塗っているようだった。
しばらくすると夕子も椅子に座った。
雅俊は夕子にもビールを注いだ。
軽くコップを逢わせて乾杯した。
テレビからは地元の放送局のニュース番組が流れていた。
缶ビールを二本飲んで、二人は床についた。
最初は二人別々の床についたが、しばらくすると雅俊は夕子の布団に潜り込んだ。
次の日は松本市内の観光をした。
松本城から休暇一学校まで足を延ばし、上土町通りからナワテ通に入り、“弁天本店”で昼食をとることにした。
二人でざるそばを三枚たいらげた。
それから、六九商店街を歩き、紙館島勇で友禅染の千代紙を買った。
さらに、開智橋を渡り公園通りの中島酒店で“さすいちワイン”の赤と白を1本ずつ買った。
そして、会社にも同じものを土産用に送った。
夕子は、日本酒の“信濃錦”を自分用に1本買った。
夕子の実家は仙台だったので、ここで会社用のお土産を買うことは出来なかった。
松本駅に着くと、いちばん早い新宿行きの“あずさ”で帰京した。
新宿駅に着くと、雅俊は総武線のホームへ、夕子は小田急線の乗り換え口へそれぞれ別れて帰っていった。
次の日、香織は楓が学校のプールに行っている間に、思い切って百合子に聞いてみた。
「幸村さんが二回も浮気をしたなんて私には信じられないんだけど、本当なんですか?」
百合子は洗濯物をたたむ手を休めずに答えてくれた。
「本当よ。そうね、まず最初の浮気の話をしましょうか…相手の人はたぶん取引先の社員だったかしら…大きな契約をまとめてご褒美に休暇をもらったのね。私には出張に行くことになったと言ったけどね…その時、どうやら一緒に信州の方へ旅行に行ったらしいのよ。その後も何度か外泊したから、その頃はきっとその子に夢中だったんでしょうね。」
「どうして分かったんですか?幸村さんに問い詰めたんですか?」
「いいえ、私からは何も聞いていないわ。まず、出張ではなくて休暇だったというのは、あの部下から電話があって分かったの。たぶん会社でそのことを部下から聞いた時はうろたえたでしょうね…」そう言って百合子はいったん手を止めて笑った。
「…それから、信州に行ったというのは、松本の酒屋さんから、送り先の住所が間違ってないか問い合わせがあって分かったの。あの人ったらお土産を会社に送ろうとして住所を間違えて書いたみたいなの。それで、送り主の自宅に電話があって、当然、普段の昼間なんて送り主はいないから私が出たのよ。そしたら、そのお店のご主人が『夫婦でご旅行なんて仲がよろしいんですね。』なんて言うから、最初は何のことかわからなかったけど、しらばっくれて、こんな風に聞きなおしたの。『よく夫婦だと分りましたね。』ってね。そしたらその人こう答えたのよ。『だって奥さんは旦那のことを“あなた”って呼んでいたし、旦那さんも奥さんのことを“ゆうこ”って呼んでらしたじゃないですか。』だって。それにしても、一見の客をよく覚えていたものだわ。よっぽど印象に残るほど仲がいい夫婦に見えたんでしょうね…」
百合子はたたみ終った洗濯物をタンスに運びながら思い出し笑いでもしているように、なんだか楽しそうだった。
香織はけっこうショックだった。
そして百合子の落ち着き払った態度が信じられなかった。
たぶん、既に何年も前の話なのだろうが、百合子は幸村の浮気を楽しんでいるかのようだった。
「ユリさんは、その時、怒ったりしなかったんですか?」
「どうして?」
洗濯物をしまい終えて、百合子はソファーに腰掛けて聞き返した。
香織もソファーに腰をおろして、意見を言った。
「だって浮気でしょう?私だったら、怒って実家に帰ったりとかしたかもしれないわ。それに相手の女にも文句の一つも言わなかったら気が済まないじゃないですか?」
「まあ、テレビのドラマみたいだわ。」
百合子はそういうと手を口に当てて笑った。
「ユリさん、平気だったんですか?」
「平気も何も、あの人はモテるから、浮気の一つや二つ最初から覚悟していたのよ。第一、こんな水商売の女をもらってくれたんですもの。それだけでも感謝しないと罰が当たるわ。それに、浮気をしていても、どこかしら、間の抜けたところがあったりして、それでも、絶対にバレていないと思いこんでいるところなんか、なんだかおもしろくて、おもしろくて…」
そう話しながら、百合子はいろいろと思いだしたのだろう。
次第に笑い声が大きくなって、しまいには、一人で笑い転げてソファーに横たわってしまった。
香織は真剣に心配していた自分が、なんだかばからしくなってきた。
そして、観念した。
「やっぱり、私はユリさんにはなれそうにないわ。」
百合子の言う通り、香織は香織として雅俊と楓を見守ってやるしかない。
百合子は、これからの二人のためには、かえって、その方がいいのだと、改めて香織に言い聞かせた。
なぜなのかはわからないが、死期が近づいてからというものは、本能的にそう思うようになったし、根拠も何もなかったが、決して、それが間違いではないと確信していた。
香織も、きっとこれが運命なのだとしたら、百合子の想いを…そして、自分自身の幸せを真剣に見つめなければならないと思った。
「でも、幸村さんもバカね。バレない浮気なんてあるわけないのに。それで、その人とはどれくらい続いていたんですか?」
百合子はワクワクした表情で香織を見つめてこう言った。
「まだ続いているのよ。きっと!」
「な、なんですって?」
百合子は香織の驚いた表情を見て満足そうに笑った。