最後のお別れ
18.最後のお別れ
久しぶりに、百合子の方のお爺ちゃんとお婆ちゃんに会えて楓は喜んでいた。
「ママのお見舞いに来たの?」
「ああ、そうだよ。ジジもババもいつ死んじゃうかわからないからねえ。だけど、こんな時でなければ、なかなか会いにも来られないからね。」
百合子の両親は楓を挟むようにして、応接のソファに座っていた。
百合明は廊下を歩いてくる間に、気持ちを切り替えていた。
「なんだ、元気そうじゃないか。親父とお袋が、どうしても連れて行けと泣いて頼むから、今にも死にそうなのかと思ったのに。」
「どこに行ってたんだい?」
百合子の母親が、「こんな時に何をやっているんだ。」と、言わんばかりに、百合明に聞いた。
「いやあ、ちょっと一服にね。何しろ、運転中はずっと我慢してたんだから。」
百合明は、必死で、感情を押し殺そうと努めた。
百合子は、雅俊が両親たちを呼んだということは、すべて理解しているのだと気がついた。
「さすがに、最後まで隠しておくなんてことは無理だったみたいね。」
百合子は雅俊の王を見て、心の中でそうつぶやいた。
そして、雅俊に告げた。
「ねえ、しばらくの間だけ、うちのものだけにしてくれないかしら?」
「ああ、わかった。」
雅俊はそう返事をして、香織と楓をつれて、部屋を出た。
「私も外しましょうか?」
有紀も気を利かして席をはずそうかと言ったが、百合子は首を振って居てもいいと意思表示した。
百合子は大きく深呼吸して天井を見上げた。
「もう、あの人から聞いているのね?」
「あんた、自分の病気のことを知っているのかい?」
「知っているも何も自分の体ですから。私は、最後まで病気のことは隠しておくつもりだったのだけれど、最後の最後でばれちゃったみたいだわ。」
「冗談じゃないわよ。残された人のことを考えたら、突然いなくなってしまうなんて、とんでもない話だよ。」
「あの人には私のために、貴重な時間を無駄にしてほしくなかったの。だから、あの人が知ってしまう前に、すべてやっておきたかったの。あの人のことも、楓のことも。そして、全て終わったわ。やり残したことはもうないの。しいて言えば、お父さんとお母さんのことだけが心残りだったけれど、百合明がいるし、あの人もきっと力になってくれるわ。それから、香織ちゃんのことだけど、私がいなくなってしまったら、あの子が雅俊さんの妻であり、楓の母親になってくれるわ。いいえ、これだけは、あの子にしかできなのよ。だから、あの子が雅俊さんのお嫁さんになっても喜んで祝ってあげて欲しいの。私と香織ちゃんで決めたことなの。だから、私が病気だと分かってから、彼女は、ずっと辛い役回りをすべてこなしてきたのよ。彼女だから、私はあえて辛い役廻りを任せられたのよ。彼女は私の分身、いいえ、私が彼女の分身だったのかもしれないわね。私はもう、とっくの昔に、一度、死んでしまっているの。その時はまだ、準備ができていなかったから、神様がもう少し時間をくださったわ。そして、今はもう、やり残したことは何もない。だから悲しまないでちょうだい。私はずっと幸せだったから。そして、これからも、みんなの心の中で、幸せに暮らしていけるわ。百合明、あなたには苦労をかけるけれど、今お付き合いしている人はちゃんと幸せにしてあげなきゃダメよ。お父さんたちのことは雅俊さんが力になってくれるわ。」
「姉貴!」
百合明は、もはや、感情を押さえつけることはできなかった。
拭っても、拭っても、涙が止まることはなかった。
父親は、ただ黙って百合子の話を聞いているだけだった。
「私たちより先に逝ってしまうなんて、親不孝だよぉ。」
母親は泣き崩れてまともな音を発音することすらままならなくなっていた。
「ごめんなさいね。だけど、泣かないで。私はもう、起きている間だけしかここにいられないの。だから、みんなの笑顔を見ながら眠りたいの。だから、お願い。私も最後まで微笑んでいたいから。」
今まで黙っていた父親が立ち上がって口を開いた。
「わかった。百合子の言う通りだ。俺達よりも雅俊君や香織さんの方が何倍も辛いはずだ。お前たちも、もう、泣くのはやめろ。もう、そろそろ楓が戻ってくるぞ。楓に余計な心配をさせるんじゃない。」
父親の言葉に、母親も百合明も頷いて、涙を振り絞った。
百合明は天井を見上げて、涙を押しこんだ。
4人の会話を聞いていた有紀は、その場から立ち去ってしまいたいと思ったが、百合子の最後の決意を悟って、心の中の感情を凍結させた。
有紀を含めて、百合子以外の4人がこ餅をようやく落ち着かせた時、部屋のドアが開いた。
「お話は終わった?」
楓が雅俊と香織と一緒に戻ってきた。
百合明たちは、どうにか笑顔を繕って、楓を見た。
屈託のない笑顔。
母親が死んでしまうなんてことなど、考えたことはないだろう。
まだ、小学校二年生の女の子に、母親の死はどう映るのだろうか?
百合子の両親は、たった一人の孫のことを思うと、切なくて、胸が張り裂けそうになった。
百合明と両親たちは、昼食を取っていなかったので、先ほど、百合子が手配した入館証明証を付けて、食堂へ行った。
百合子はVAIOを立ち上げて、画面を見つめた。
そして、キーボードを叩き始めた。
いったい何を打っているんだろう?雅俊はさっきから気になっていたが、百合子はどうも見られたくないようなので、気に留めないようにしていた。
楓は、好奇心から百合子に近づき、画面をのぞいたが、すぐに、そばを離れた。
「字ばかりでつまんない。」
字ばかり?
まさか遺言でもしたためているのだろうか…
「気になる?教えてあげましょうか?」
香織がうしろから、顔を近付け、雅俊の耳元でささやいた。
「エッセイを書いているのよ。」
「エッセイ?」
「知らなかったでしょう?女性誌で何度か紹介されたこともあるのよ。」
「そうなのか?」
「ええ。とは言ってもユリさんはそのことは知らないと思うわ。一度見せてもらったとき、あまりにも感動して、私が勝手に応募したの。もちろんユリさんの名前でよ。そしたら、結構、評判になっちゃって。」
「そいつは、全部お前が持っているのか?」
「そうよ。」
「それ、コピーしてもらってもいいか?」
「ええ、もちろんよ。でも、どうするの?」
「本にしてもらう。出版社に、少しばかりコネがあるんだ。」
「でも、著作権はその女性誌にあるのよ。」
「まあ、なんとかなるさ。」
百合子のキーボードを叩く音が止まった。
百合子は両手を思いっきり上に突き上げ、伸びをした。
VAIOの電源を落とした。
楓は、そろそろ病院にいることに飽きてきたようだ。
「ねえ、パパ?何時に帰るの?」
「パパは今日は、ここにお泊りするから、香織ママと先に帰るか?」
楓は百合子の方をチラッと見た。
百合子はやさしく微笑んで、「大丈夫よ。」という風に頷いた。
「じゃあ、そうする。」
香織も頷いて、応じた。
「じゃあ、楓を頼む。もしもの時はすぐに連絡する。」
「わかったわ。」
百合明たちも、一旦、引き上げることにし、雅俊の家に泊まることになった。
百合子の両親は、楽に座れる雅俊のワンボックスに乗せてもらうことにした。
ワンボックスは香織が運転して帰った。
百合明は、一人で、スカイラインのセダンに乗り込み、ワンボックスの後ろをついて行った。
みんなが引き揚げると、病室は急に静かになった。
雅俊は、ずっと賑やかにしていた方が、百合子も長く起きていられるかもしれないと思ったが、風船がしぼんでいくように、百合子の肉体がみるみるしぼんでいるような気がして、少しでも早く楽にしてやりたいと思った。
あとは、百合子が自分でその時を決めればいい。
「今日はなんだか、とても賑やかだったわね。」
「疲れたんじゃないか?」
「まあ、あなたったら、人をまるで病人みたいに言って!」
「だって、そうだろう?」
「違うわよ。病気はもうなくなったわ。これからは、病気にもならないし、年もとらない。あなたが長生きしてお爺ちゃんになっても、私は今のままよ。だけど、私はお爺ちゃんになったあなたを、きっと愛しているわ。」
「そいつはありがたい。だけど、いきなり爺さんになった俺が君のそばに現れたら、君は俺だと気づかないかもしれないよ。」
「そんなことはないわ。私はずっと、あなたを見続けているから。」
「爺さんになった俺を見たら、がっかりしてしまうかもよ。」
「たとえ、年をとっても、あなたはあなた。いくつになっても心をときめかしているに違いないわ。」
雅俊は笑いながら、百合子のそばに立ち、肩に手を添えた。
百合子は、ゆっくりと雅俊を見上げ、穏やかに笑った。
雅俊は、百合子を抱き上げた。
百合子の体は風船のように軽かった。
「君を選んで間違いなかった。」
雅俊は百合子の瞳を見つめて、そっと唇を寄せた。
「みんなのことは任せろ。だから、もう、無理するな。いつでも、好きな時に行けばいい。」
「ありがとう。あなたでよかった。」
百合子はそう言うと微笑んで瞳を閉じた。
雅俊は眠りについた百合子をそっとベッドに横たわらせた。
百合子は静かに寝息を立てて、深い眠りに落ちて行った。
百合子をベッドに移すと、雅俊は有紀に向って深く頭を下げた。
そして、感謝をこめて礼の言葉を述べた。
有紀は、たった二日一緒にいただけなのに、ずいぶん前から面倒を見させてもらっていたように思えた。
それも、ひとえに百合子の人柄故のことなのだろうと思った。
百合子たちと一緒にいると、自分も家族の一員のような錯覚にさえ陥った。
有紀は頷いて、百合子の脈をとった。
百合子の血液は、まだ、しっかりと脈打って動き回っていたが、次第にゆっくりとした流れになってきた。
その後は、しばらくそんな状態のまま落ち着いていた。
やがて、日が暮れ、辺りを暗闇が覆い出した。
有紀は、一旦、部屋を出てナースステーションへ戻った。
内線電話で今泉に連絡した。
今泉は受話器を置くと、立ちあがり、白衣を羽織った。
そして、部屋を出る際、書棚の中のコニャックにチラッと眼をやった。
百合子の部屋に、心電図を測る機械や、人工呼吸機などの機材が次々と運ばれてきた。
技師たちは次々と機会をセットした。
今泉は技師たちに的確に指示を出し、すべての準備が終了すると、有紀と果歩以外の人間を引き揚げさせた。
心電図には弱々しいが、確かに命の痕跡が映し出されている。
この状況で今泉は何をするわけではないが、ただ百合子の手を取り脈を見ながら心電図と百合子の顔を交互に見ている。
雅俊はそんな今泉を黙って見ている。
百合子は、いつかの草原に来ていた。
遠くには空に向かって伸びている光の柱が見えた。
「今度はちゃんと行けるわ。」
そう呟いて光の柱を目指し、ひたすら歩いた。
柱のそばに辿り着くと、そこのはさつきの姿があった。
「あなたは、さつきさんね。」
さつきは黙ってうなずいた。
そして、百合子に手を差し出した。
「さあ、最後のお別れに行きましょう。」
「最後のお別れ?」
「ええ、そうです。楓ちゃんのところへ。」
楓は、百合子と雅俊の寝室で、百合子の両親と一緒に眠っていた。
香織と百合明は万が一のために、寝ずに起きていた。
時計の針がカタッと動いて12を差した。
扉が開いてハトが飛び出し12回鳴いた。
楓が一瞬、目を覚ますと、そこには百合子の姿があった。
楓は体を起こすと、目をこすりながら百合子を見た。
「ママ?帰ってきたの?お病気は治ったの?」
「楓ちゃん。よく聞いてちょうだいね。ママはもうここには帰ってこられなくなったわ。だけど、楓ちゃんがママのことを忘れなければ、ママはずっと楓ちゃんのそばにいられるから。ずっと楓ちゃんを見守っていてあげるから、安心してちょうだい。それからパパと新しいママの言うことをよく聞いて、いい子でいるのよ。」
「香織ママだね。」
「そう。香織ママ。これからは香織ママが楓ちゃんのママよ。これを香織ママに渡してちょうだい。」
百合子は楓に自分の結婚指輪を渡した。
「うん。わかった。じゃあママは、ずっと病院にいるの?病院に行けばママに会えるの?」
百合子は首を横に振って、楓を抱きしめようとした。
しかし、それは叶わなかった。
「ママは、天国に行かなくてはならないの。残念だけど、病気が治らなかったの。でも悲しまないでね。ママは、いつも楓ちゃんのそばにいるわ。いいわね。約束よ。」
「うん。約束する。」
楓は小指を立てて、百合子の方へ差し出した。
百合子は自分の小指をからめようとしたが、すり抜けてしまった。
もういちど、意識を楓の小指に集中させて指をからめた。
百合子の指は楓の指にしっかりとからみついた。
「指切りげんまんウソついたら針千本飲〜ます。」
楓が言い終わると同時に百合子の姿はゆっくりと消えていった。
楓は、百合子がた場所をずっと見つめていた。
「ママ。さようなら…」
香織は台所に行ってコーヒーを入れていた。
百合明の分と二人分のコーヒーを入れて、居間に運んだ。
すると、そこへ楓が起きてきた。
「あら、楓ちゃん、どうしたの?眠れないの?」
「香織ママ、今、ママが帰ってきたの。」
「まあ、夢でも見たのね。」
「夢じゃないよ。ほら。ママがこれを香織ママにあげるって。」
そう言って、楓は百合子の指輪を香織に渡した。
香織はそれを受け取って、よく眺めた。
百合子の結婚指輪だった。
「そんな!まさか!」
「ママはもうおうちには帰ってこられないんだって。天国に行っちゃうの。」
香織と百合明は驚いた表情で顔を見合せた。
香織は急いで電話の受話器を取ると、壁に貼ってある百合子の病室の電話番号を順番に押していった。
百合子とさつきは、光の柱まで戻ってくると、二人で手をつないで光の中へ入って行った。
光の中に入ると、二人の体はふわっと浮き上がり、空に向って登って行った。
心電図の中の緑色の線が徐々に平らになろうとしていた。
そして、一本の直線がツーッと流れ始めると、二度と波打つことはなかった。
今泉は最後に脈をとると、雅俊の方を振り返り、頷いた。
雅俊は深く頭を下げて、今泉に礼を言った。
その時、部屋の電話が鳴った。
雅俊は受話器をとった。
「はい。…香織?」
呼び出し音が鳴ると、すぐに雅俊が出た。
「雅俊さん?私、香織。ユリさんはどう?」
「こんな時間にどうしたんだ。」
「ユリさんが楓ちゃんにお別れを言いに来たみたいなの。」
「まさか。」
「ううん、百合さんの左手を見て。結婚指を楓ちゃんに渡しに来たのよ。」
「そんなバカな。」
雅俊はそう言うと、百合子の左手の指を確かめた。
確かに指輪がなくなっている。
そして指輪の跡がくっきりと残っていた。
「驚いたよ。たった今指輪をはずしたみたいだ。」
「それで、ユリさんはどうなったの?」
「たった今、天国に召されたよ。」
「…」
「香織?大丈夫かい?ボクの声が聞こえているか?」
香織は、気持ちを奮い立たせ、雅俊の声を聞いた。
「大丈夫よ。」
「いいかい、どっちにしても、もうこんな時間だ。明日の朝一番でみんなを連れて来てくれ。だから、今夜は君もゆっくり休んでくれ。いいね!」
「わかったわ。おやすみなさい。」
「ああ、おやすみ。」
受話器を置くと、香織はその場にへたへたと座り込んだ。
百合明はそんな香織を見て立ち上がった。
「香織さん?」
香織は下を向いたまま向き直った。
床には、香織の涙がポツリポツリとこぼれ落ちている。
百合明はその場に座って頭を抱えた。
「ねえ、香織ママにおじちゃん。泣いちゃだめだよ。ママと約束したもん。」
楓は香織にそう言うと、香織の頭をなでて慰めようとしている。
香織は楓を抱きしめて、涙をぬぐった。
「そうね。泣いたらダメだよね。楓はえらいなあ。」
いつの間にか百合子の両親も起きてきていた。
香織と楓の様子を見て、二人は百合子の死を悟った。
歯を食いしばって立っている父親に、母親はすがりつくようにして泣いていた。