今夜は強い酒が必要になる
17.今夜は強い酒が必要になる
8月12日。日曜日。入院二日目。
百合子は、グレーのスウェットのパンツに真っ白のTシャツを着て朝食をとっていた。
産婦人科病棟に入院している、他の妊婦さんたちと同じメニューの食事だった。
まだ、ベッドから起きて、テーブルで食事をする元気はあった。
しかし、入院してからは、起きていられる時間が急速に少なくなっていた。
入院前日の二日前では、12時間程度は、起きて家事をこなすことが出来た。
入院初日の昨日は、家事をする必要もなかったが、みんなが帰った3時過ぎには、ベッドに横になって、夕食の6時まで熟睡した。
夕食が終わると、シャワーを浴びて、ラジオを聞きながら、香織にメールを送った。
それから、日記をつけて8時前には、就寝した。
今朝は、目がさめたのが9時過ぎだった。
用意された食事は、ほぼ完食した。
10時になると、香織が楓を連れてやってきた。
「ママ、寂しくなかった?」
楓は、百合子を気遣って、尋ねた。
「楓ちゃんはどうだった?」
「お姉ちゃんがいたから平気だよ。」
香織は、楓の頭を撫でながら、百合子を見た。
一晩会わなかっただけなのに、ずいぶん衰弱したように思えた。
香織たちが見舞いにきたのとほぼ同時に、今泉と横山有紀が診察に来た。
今泉が有紀に合図をした。
有紀は頷いた。
「ねえ、楓ちゃん。お姉ちゃんと病院の中を探検しに行かない?」
「本当?行きたい!」
そう言って、百合子の方を見た。
「いいわよ。言ってらっしゃい。お姉ちゃんのいう事をちゃんと聞くのよ。」
百合子は笑顔でいうと、有紀に「よろしく。」という風に、頭を下げた。
「どうですか?」
今泉は百合子の脈を取りながら、尋ねた。
「そろそろお迎えが来るような気がしているんですよ。」
「そんな冗談が言えるようなら、まだ大丈夫ですね。」
「あら、冗談を言っているつもりはないんですよ。」
そう言いながらも、百合子の目には希望に溢れた光が宿っていた。
1年余計に生きるために、苦しい治療に絶えてきた患者の悲壮感とはまったく違った、すがすがしささえ漂っていた。
今泉は百合子の表情を見て、胸の中からこみ上げてくるものを押さえつけた。
「今晩から横山君と島田君を交代で付き添わせますからね。私もしばらく当直なので会いたくなったらいつでも声を掛けてください。」
そういうと今泉は百合子にウインクした。
部屋を出る際、香織に合図をした。
香織は、頷いて、今泉を見送るふりをして、一緒に部屋を出た。
今泉は香織に、小声で耳打ちした。
「あなたのことは、百合子さんから聞いています。ご主人は百合子さんのことをご存知ないんですよね?」
「きちんとは話していませんが、気付いていると思います。」
「そうですか。それならいい。出来れば、今夜からご主人にも一緒に泊まってもらったほうがいい。」
「えっ?」
「昨日ここにきたとき、既に百合子さんの体は、もう、生きていられる状態ではありませんでした。今、ここにいるのは、もはや百合子さんの魂だけだといっても過言ではないでしょう。ご主人は今日は?」
「間もなく来ると思いますが…」
「では、ちょうど良かった。来たら、私に連絡するよう横山君に伝えて下さい。あなたも、ずいぶん辛い役目を負いましたね。」
今泉は香織の肩をポンと叩いて、香織を励ました。
香織は目から熱いものがもみ上げそうになったが、今泉の目から涙があふれているのを見て、何とか我慢した。
「先生…」
今泉を見送ると香織は部屋に戻った。
「入院したら、安心して一気にやつれたんじゃないですか?」
香織は百合子に、冗談っぽく言った。
「そうね、もうやり残したこともないし、ここに来て、張り詰めていたものが途切れた感じがしているのは事実ね。」
百合子は応接セットのソファにもたれて、けだるそうに話していた。
「雅俊さんは、ちょっと買い物してから来るって。」
「あら、香織ちゃん、あの人のことを名前で呼ぶようにしたのね?」
「幸村さんの家に一緒に住んでて、幸村さんって呼んでたらみんな幸村さんだから誰だか分からないって楓ちゃんが言うもんだから。」
「まあ、楓もいつの間にか大人になっているのね。」
百合子は、自分が入院してことで、最後の仕上が完成したことを確信した。
自分がいない幸村家の生活を。
確かに、今、自分が死んでしまえば、雅俊も楓も悲しむだろう。
しかし、そんな一瞬の出来事は時間が忘れさせてくれるはずだ。
一時、悲しくても、しっかり生きていけるはずだ。
楓は、香織を本当の母親として慕ってくれるに違いない。
雅俊は、相変わらず、ときめいて生きていくだろう。
いちばん苦労を掛けることになるのは香織だが、百合子の見込みでは、きっとそんなことを苦労とも思わずに雅俊の尻をたたき、楓の教育にも思いっきり口を出してくれるだろ。
確かに、百合子とは違ったタイプだが、妻としてふさわしいのは香織の方だと思っていた。
これからの百合子はそっとみんなを見守っていくのだ。
それぞれの心の中で。
雅俊は飯田橋にある出版社に来ていた。
実は金曜日の午後、雅俊の電話があった。
電話の主は真野公平、カメラマンだった。
「覚えてらっしゃいますか?マザー牧場でお会いしました。」
雅俊はよく覚えていた。
「ああ、あのときの!」
「実は、あのときの写真がことのほかよく取れているので、どうしても見ていただきたくて。」
公平は、数多く撮った写真の中から、幸村家の写真でコンクールに応募することに決めたと話してくれた。
百合子が土曜日に入院すると連絡を受けた後だったので、日曜日の午前中に行くと約束をした。
その出版社は、間口が二軒ほどで三階建ての小さなビルにあった。
階段を上がって、2階のすぐに入り口が会った。
ドアを開けると、応接セットのソファに腰掛けて、足を組んでいる公平の姿があった。
公平はすぐに雅俊に気づいて、立ち上がった。
軽く頭を下げて挨拶をすると、向かい側のソファを指し示し、そこに掛けるように促した。
雅俊がそこに腰をおろすと、公平は改めて挨拶した。
「わざわざ、ご足労いただきありがとうございます。奥様の具合はいかがですか?」
「ああ、ご心配ありがとうございます。ちょっと疲れ気味みたいで。」
「そうですか。」
そう言って公平は、封筒を手にして、中から5枚の写真を出して見せた。
雅俊は写真を手にとって、じっくりと見た。
どの写真も本当によく撮れていた。
雅俊は、写真を封筒にしまって公平に返した。
公平は手を振って、受け取るのを拒否した。
「それは差し上げます。お礼です。どうぞお持ち帰りください。そのためにお越しいただいたんですから。」
「そうですか。ありがとうございます。それでは遠慮なく頂いていきます。百合子もきっと喜ぶと思います。」
そう言って、雅俊は立ち上がり、出版社を後にした。
雅俊が産婦人科病棟二階のエレベーターホールまで来ると、有紀と一緒にいる楓を見つけた。
「楓!」
楓が振り向くと、手を振って合図した。
楓は、有紀に何か一言言って走り出した。
有紀は雅俊にお辞儀をして楓の後をついて来る。
楓は雅俊に飛びついた。
「お姉ちゃんと病院の探検をしてたの。」
「そうか。ママのところに戻るか?」
「うん!」
雅俊は有紀に礼を言った。
エレベーターのランプが点滅して扉が開いた。
三人はエレベーターに乗り、有紀が“7”のボタンを押した。
「楓ちゃんはお利口さんですね。よく言うことを聞くし、一度通った場所は忘れないんですよ。逆に私が教えられてしまうくらいなんですよ。」
「お転婆ですから…それより百合子はどうですか?」
「お元気ですよ。今朝も朝ごはんはほぼ完食でした。」
「そうですか。」
“7”のランプが点滅して扉が開いた。
三人はエレベータを降りた。
雅俊が病室に着いたのは、11時頃だった。
百合子は、VAIOを開いて、何やら書き込みをしている。
香織が、そばで、あれこれ教えているようだ。
雅俊が来たことに気づくと、百合子は、そのノートパソコンを閉じて何か意味のありげな笑顔を雅俊に向けた。
楓は、部屋に入ると手を洗って、香織の方を見た。
「いいわよ。」
香織は笑顔で楓に頷いた。
楓はテーブルの上のリモコンを手に取ると、テレビに向かって赤いボタンを押した。
日曜日の11時からは、BS放送で楓の好きなアニメ番組をやっていることを香織は知っているのだ。
百合子も雅俊も、二人のやり取りを見て本当の親子みたいだと思った。
百合子の表情からは、満足感さえ感じられた。
香織は、有紀に雅俊が来たら今泉に連絡するよう言われていると告げた。
有紀は「わかった。」といって、一旦部屋から出た。
昼に近くなったので、百合子はナースステーションに3人分の入館証明証を手配した。
百合子には、病院の食事があるので、「外には行けない。」というと、楓は、「だったら、カエデもここで食べる。」と言った。
「じゃあ、下のコンビニでお弁当を買ってきてみんなでここで食べましょう。」
香織の提案にみんな賛成した。
すると、その時、部屋の電話が鳴った。
雅俊が受話器をとった。
今泉からだった。
話しておきたいことがあるということだったので、2階のブースであことにした。
「誰から?先生?」
百合子が尋ねた。
「ああ、食事に誘われたんだが、今日はここでみんなで弁当を買ってきて食うと言った。」
「そう。」
雅俊は、ある程度、話の内容については察しているつもりだった。
そのうえで、こうして平常心でいられる自分を少なからず軽蔑さえしていた。
だから、こうして、改まって呼び出されたことで得体の知れない恐怖心に支配されていく自分に安堵感を覚えた。
「じゃあ、俺が適当に何か買ってくるから。」
そう言って、部屋を出ようとすると、うしろから、楓の声で「ハンバーグ!」と聞こえたので、雅俊は振り向かずに、左手を上げ、「わかった。」と合図し、ドアを開けた。
エレベーターが2階まで雅俊を運ぶと、今泉と看護師の有紀が待っていた。
雅俊は有紀に楓はハンバーグがいいと言っていたが、自分と香織の分は何でもいいと言って、財布を渡した。
雅俊と今泉が話している間に、有紀が代わりに買い物をしてくることになっていたのだ。
今泉はエレベーターから一番遠いブースに雅俊を導いた。
ブースの中で二人は向かい合って座り、今泉が先に口を開いた。
「すべてご存じだと思ってお話ししてよろしいですか?」
雅俊は、一瞬たじろいだが、頷いた。
「奥様はもう、すでに亡くなっています。」
「!」
雅俊は驚きのあまり声も出なかったが、今泉の目をしっかりと凝視した。
「確かに、ここにいる奥様はまだ生きておられますが、既に、肉体は無いものと同じ状態です。今の奥様は、何かを見届けるためだけに、魂で、肉体を動かしているにすぎないはずです。そして…」
「そして、それはここにきて達成された。」
今泉の言葉を遮るように雅俊がそう答えた。
「その通りです。ということは、奥様の魂はもうこの世にとどまる必要はなくなった。今度、眠りについたら、再び目を覚ますことはないかもしれません。」
いくら覚悟していたことだとは言っても、実際に面と向って、それが事実だと告げられたら、相当のショックだった。
ただ、百合子の場合は覚悟をする時間がわずかでもあったことに雅俊は感謝した。
さつきの時は、すべてが突然だった。
百合子は、最初、いや、多分今でもこのことは雅俊に隠しとすつもりなのだろう。
考えてみれば、香織が一緒に住み始めたことや夕子やさつきのことを香織が知っていること、偶然にしてはおかしいと思っていた。
今にして思えば、自分がいなくなった時のことを、百合子はずっと考えて準備していたに違いない。
「わかりました。今夜は強い酒が必要になるかもしれませんね。そのときは、先生、付き合って下さいますか?」
「もちろんです!ご主人には云いづらいのですが、私、百合子さんに恋をしてしまいました。だからこそ、彼女の意思を尊重してきたつもりですから。」
雅俊は頷いて、改めて今泉に礼を言った。
「あなたが主治医で本当に良かった。百合子も悔いなく残された時間を過ごすことができたはずです。」
そう言って雅俊は立ち上がった。
有紀がコンビニの袋をぶら下げてくるのが見えた。
雅俊は手を振って合図した。
「すみません。お昼時でレジが混んでいたもので。」
そう言って有紀は弁当の入った袋と、飲み物とデザートが入った袋を雅俊に手渡した。
そして、もう一つ手提げ袋を示した。
「私もお弁当買ってきました。一緒に食べてもいいですか?」
有紀は雅俊にそう言うと、チラッと今泉の方に目を移した。
今泉は、手で合図し、「是非そうしなさい。」と言った。
有紀は、両手がふさがった雅俊に代わって、エレベーターの△ボタンを押した。
百合子の実家は都内の郊外にあった。
百合子の両親は、百合子が入院すると雅俊から連絡をもらっていたので、この日、百合子の弟の百合明に頼んで車で聖都大学病院に向かっていた。
自分たちも病気がちで、いつ、逝ってもおかしくないと思っているところへ、雅俊から、百合子がもう退院することはないだろうと聞かされて、老体にムチ打って娘を見舞うことを決めた。
両親の尋常ならぬ懇願に、百合明はただ事ではないと感じ取っていた。
百合子が雅俊に嫁いでからは、百合明が両親と同居して、世話をしていた。
今年、30歳になった百合明には、結婚を前提に付き合っている女性がいたが、両親のこともあって結婚を決めかねていた。
雅俊に相談したら、「うちで引き取ってもいい。」と言ってくれたので、少し、気が楽になったと思っていたところに、百合子が入院したと聞かされた。
両親は詳しいこと話話してくれなかったが、普段から、歩くことさえままならない両親が、「どうしても病院に行かなければならない。」と懇願するので、よっぽどの事態なのだと感じていた。
高速道路は、順調に流れていたが、都心の環状線に入ってからは、なかなか進むことが出来なかった。
それでも、午後の1時すぎには聖都大学病院に着いた。
駐車場に車を止めると、本館をぐるっと回って、産婦人科病棟の受付に来た。
受付で幸村百合子の名を告げると、7階の733号室だと教えてもらった。
三人が病室のドアを開けると、百合子たちは、みんなで食事をしながら楽しそうに談笑していた。
百合明はその光景を目にして、ホッとした。
百合子の両親は息を切らして百合子のそばに歩み寄った。
「まあ、お父さんにお母さん。どうしたんですか?」
まるで他人ごとのように、そんな両親を見てびっくりしてみている百合子をよそに、両親は二人とも「間に合ってよかった。」と涙ぐんでいた。
雅俊は、百合明を伴って、病室の外に出た。
エレベーターホールの喫煙ルームまで行くと、雅俊はセブンスターを1本取り出して火を付けた。
百合明はそんな雅俊を見て、自分が感じたことが間違いではなかったと確信した。
「姉貴は…」
「百合子は最後まで俺に隠しておくつもりだったらしい。だから君もそのつもりで見守ってやってほしい。」
「そんなに悪いんですか?とてもそんな風には見えなかったけど…」
「ああ、もう少し早く知らせてあげられれば良かったが、今度眠りについたら、再び目を覚ますことはないかもしれないそうだ。」
百合明は愕然とした。
ある程度の覚悟はあったが、まさかそれほど、切羽詰まった状態だったとは夢にも思っていなかった。
百合明はその場で椅子に腰を降ろすと両手で頭を抱えて髪の毛をぐしゃぐしゃにかきむしった。
雅俊はかける言葉もなかったが、百合明の肩に手を添えて慰めた。
百合明は、しばらくうなだれていたが、自分なりに気持ちの整理をして立ちあがった。
「1本もらっていいですか?」
雅俊はセブンスターを1本箱から出すと、百合明に差し出し、百合明がそれをつまみだして口にくわえると、ライターに火をつけて百合明の口元に持っていった。
百合明は深く煙を吸い込むと、一気に吐き出して、たばこをもみ消した。
「行きましょうか。時間がなくなってしまいます。」
雅俊は無言でうなずいて、喫煙ルームを後にした。