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最後の朝食

16.最後の朝食


 8月10日、金曜日。

翌日からは、多くの人たちが夏期休暇にはいる。

今泉も本来なら11日から19日まで休暇を取り、カナダに行くつもりでいた。

しかし、気になる患者が一人いた。

その患者は、最後の一瞬まで自分であることを選び、その結果、間もなく最後のときを迎えようとしている。

今泉の見立てが間違ってなければ、ちょうどこの夏期休暇中には…

彼は医者としてではなく、一人の男として彼女の最後を見届ける決心をしていた。

彼女には、夫も子供もいることは、もちろん承知していた。

今泉の心がときめく女性には、例外なくこのような運命が付きまとう。

今日は、今いちばん心ときめいている女性がやって来ることになっている。


 百合子は楓を香織に任せて、久しぶりに今泉を訪ねることにした。

今、こうして見た目には普通に健康な人たちと変わらなくいられることは、奇跡といってよかった。

本来なら、あの時、マザー牧場の丘の木陰で命の炎は尽きていたのだから。

 正面玄関から中に入ると、エレベーターホールへ向かい、エレベーターに乗った。

エレベーターを降りると、まっすぐ今泉の部屋へ向かった。

部屋の前まで来ると、目を閉じて大きく深呼吸をした。

そして、目を閉じたままドアをノックした。

中から「どうぞ。」と声がした。

百合子は、目を開けるとドアの取っ手を見つめた。

そして、レバーハンドルを掴むと、静かにドアを押した。

今泉は笑顔で百合子を迎えてくれた。


 今泉は、百合子と向かい合って座り、一通り百合子を見た。

少し痩せているようだ。

それに、血色もよくない。

程よく日焼けしているから、普通の人が見ても気が付くまい。

いくらか脈が弱く感じられる。

「どうですか?」

「はい。やっぱり、もう限界みたいです。」

「そうですか。」

「ええ、もう準備は出来ています。」

「ご主人の夏期休暇はいつからですか?」

「明日からです。」

「そうですか。それでは、幸村さん、明日からは入院しましょうね…」

百合子の顔が悲しそうな表情になった。

今泉は、穏やかな口調で続けた。

「…もっとも、ここに入院したら、あなたの望みを叶えてあげることが出来なくなりますから、ここに隣接している産婦人科の病棟に入ってもらいます。とりあえず、初期の子宮筋腫ということにしておきましょう。本当の病気のことは、最後まで隠しておきましょうね。」

百合子の表情が一転して、感謝の色に染まっていった。

「先生、お気遣いありがとうございます。」

「後で病気のことがご主人にばれたら、ボクは訴えられるかもしれませんね。」

今泉はそう言って、笑った。

百合子は「この人でよかった。」心からそう思った。


 香織は、この日から、夏期休暇をもらうことにして店を休んだ。

陽子は快く休みをくれた。

幸村家での百合子の最後の夜をともに過ごすために。

幸村には、百合子から、「入院することになった。」と連絡を入れていた。

幸村は、「今日は早めに仕事を切り上げて帰る。」といった。

香織は百合子と一緒に最後の晩餐の準備をした。

楓も手伝った。

「今日の晩ご飯はすごいね。誰かな誕生日だっけ?」

百合子は、まさか今日がこの家での最後の食事になるとはさすがにいえなかった。

そして、不意に思いついたことを口からしぼり出した。

幸い、8月8日は幸村の誕生日だった。

「あら、この子ったら、おとといがパパの誕生日だったのを忘れたの?」

「あっ!そうだった。どうしよう…プレゼントの用意何もしてないよ。」

楓がすごく困った顔をしていたので、香織はおかしくなった。

「楓ちゃん、大丈夫だよ。お姉ちゃんと一緒にケーキを作ろう!」

「ケーキ!作る作る!」

香織と楓は二人でケーキを作り始めた。

百合子は、楽しそうにケーキを作っている二人を、しばらくの間眺めていた。

そして、決心した。

「ねえ、楓ちゃん。ママね、明日から少しの間、入院するのよ。」

楓は、一瞬、びっくりしたような顔をした。

「えっ?ママ病気なの?」

「そうじゃないけれど、少し疲れたから、お休みするの。だから、心配しなくてもいいのよ。明日から少しの間だけ、香織お姉ちゃんがママの代わりよ。」

「本当?じゃあ、明日からカエデにはママが二人になるんだね。」

「そうね。」

「わーい!ママが二人だ。」

楓はうれしそうに飛び上がった。

 まさに、最後の晩餐だった。

テーブルの上には所狭しとご馳走が並んでいた。

真ん中には、楓と香織が作ったケーキが置かれていた。

ホワイトチョコのプレートには“パパ誕生日おめでとう”そして、“ママ早く良くなって”と書かれていた。

準備が整ったときに、ちょうど雅俊が帰ってきた。

「こりゃあ、すごいなあ!まるで、誕生日とクリスマスが一緒にきたみたいだ。」

雅俊は上着を居間のソファに放り投げると、ブルーチーズを1枚つまんで、口に放り込んだ。

「あー!パパずるい。まだ、いただきますしてないのに!」

「ごめ…」

謝ろうとした雅俊の後頭部を、香織は菜箸でひっぱたいた。

「子供の見ている前でなんてことするの!」

その様子を見ていた百合子は、クスッと笑って、呟いた。

「まあ、香織ちゃんったら、まるで、奥さんみたいね。」

雅俊は、百合子に向かって、冗談じゃないと言うように文句を言った。

「人ごとみたいに言うなよ。大体、こいつはいつになったら、新しい部屋を見つけるんだ?」

「あら、もう見つけたわ。」

「だったら、早く引っ越してくれ。」

「ブー!ユリさんが入院している間、楓ちゃんのお守りがあるのよ。」

「チェッ!じゃあ、俺のお守りは誰がするんだ?」

「なによ!私じゃ不満なの?」

「えっ?」

「私がユリさんの代わりじゃ、不満ですか?」

「いや、その…」

雅俊は百合子と香織を交互に見ながら、席に着いた。

百合子は、今にも吹き出しそうにしながら、冷蔵庫からシャンパンを出した。

香織は、ふくれっ面ながら、少し照れくさそうにそっぽを向いている。

楓は、雅俊の隣に座って、「早く、いただきますしよう。」と言わんばかりに、みんなを見ている。

百合子がみんなにグラスを配って、シャンパンを注いだ。

楓には、カルピスを作った。

みんながグラスを差し出しと、楓が口を開いた。

「パパ!お誕生日おめでとう。ママ!早く良くなってね。香織お姉ちゃん!ママの代わり頑張ってね。それじゃあ、乾杯!」

みんな「乾杯!」と言ってグラスを掲げた。


 食事が終わると、雅俊は楓を風呂に入れた。

香織は百合子に休むように言って、後片付けを始めた。

後片付けが終わると、雅俊と楓が風呂から上がってきた。

交代で、百合子が風呂に入った。

香織は楓を寝かしてくると言って、楓を連れて、二階の子供部屋へ上がっていった。

雅俊は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、プルトップをひねった。

さっき、ソファに放った上着をもって、寝室に行くとクローゼットに掛けて台所に戻った。

香織が、つまみ用に出しておいた、チーズの盛り合わせを持って、居間のソファに腰掛けた。

テレビのリモコンを持つと、赤いボタンを押した。

テレビの画面が明るくなって、キャスターが夏期休暇の混雑予想を観光地別に解説していた。

雅俊は缶ビールの中身が空になると、二本目のビールを取りに行こうとした。

すると、楓を寝かしつけた香織が、グラスと缶ビールを持って来た。

グラスにビールを注ぐと、残りを雅俊に差し出した。

香織は雅俊の向かい側に腰を下ろした。

雅俊は黙って香織を見た。

そして缶ビールを一口飲んだ。

「なあ、香織。君はどこまで知っているんだ?」

「全部よ!」

「本当のことはどうなんだ?」

「言えないわ。ユリさんと約束したから。」

「そういうことか…」

雅俊は、マザー牧場で、まるで死んだように眠っていた百合子のことを思い出した。

そして、大体のことを悟った。

「もう、この家には戻ってくることはない?」

「言えないわ。それより、たまには百合子さんの背中でも洗ってあげたら?最近は一緒にお風呂に入ることなんてないんでしょう?」

「そうだな…そうするか。」

雅俊は缶に残ったビールを一気に飲み干すと、空き缶をギュッと握りつぶした。


 8月11日。土曜日。

その日の朝、百合子は最後の朝食を作った。

このときだけは、香織にも手伝わせずに、一人でやった。

鮭、赤いウインナーソーセージ、黄身をしっかり硬くなるまで焼いた目玉焼き、スライスしたキュウリとマカロニのサラダ、玉ねぎの味噌汁。

雅俊の最高の朝食。

厚切りにしたベーコン、黄身がトロトロの目玉焼き、キャベツの千切りをサッと茹でたもの、トースト、コーンポタージュスープ、リンゴ。

楓が大好きな朝食。

 他にも、ホウレン草のおひたし、納豆、味付けのり、生野菜のサラダ、キュウリと白菜の漬け物があった。

雅俊は両手を合わせて「いただきます。」そう言うと、よく味わって食べた。

 後片付けは、雅俊と楓でやった。

香織は百合子の入院のための荷物をまとめるのを手伝った。

まとめると言っても、2〜3日分の着替えと、洗面用具、携帯用の化粧品セット、そして、ソニーのVAIOにCDラジカセ。

百合子はほとんどテレビを見ることはしなかった。

画面を見ることで動きを制限されるテレビより、家事をこなしながら、聞いていられるラジオを1日中つけっ放しにしておくことの方が多かった。

そういう意味でラジオは百合子の必需品だった。

入院するということは、家事をする必要もなくなるのだからとも思ったが、やはりラジオは手放せなかった。

荷物は、ボストンバッグ一つに収まった。

病院は、個室でホテル並みの設備や備品が備えられていると、今泉から聞いていた。

病院の中では、携帯電話が使えないので、その代りに、直接、外へかけられる電話と光ケーブルが引いてあって、インターネットも使い放題らしい。

雅俊は荷物を車に積み込むと、百合子を後部座席に乗せた。

楓が百合子の隣に乗ったので、香織は助手席に乗った。

後部座席は、マザー牧場に行った時のままになっていた。

雅俊は家の戸締りを確認してから、運転席のドアを開けた。


 聖都大学病院に着くと、今泉と若い女性の看護士が出迎えてくれた。

今泉は、軽く頭を下げてお辞儀をすると、初めて見る百合子の夫に右手を差し出した。

「主治医の今泉です。」

そして、今泉は、早速、部屋へ案内すると言って歩き出した。

玄関を入ると、巨大なスペースに無数のソファが並べれた総合待合室がある。

スピーカーからは順番の患者の名前が途切れることなくアナウンスされている。

そこを横切り、エレベータホールへ行く。

エレベーターで2階に上がると、渡り廊下がある。

産婦人科病棟へはこの渡り廊下を渡っていく。

産婦人科病棟にも、独立した玄関と受付はあるが、駐車場からだと、本館を一回り歩くようになるため病室へ直接向かう場合は、このルートがいちばん近いのだ。

産婦人科病棟のエレベーターホールには面会ブースや喫煙ルーム、自動販売機コーナーなどが設置された、かなり広いスペースになっている。

さらにその奥にはコンビニエンスストアーが見えた。

エレベーターで7階に上がると、広い廊下を右に進む。

最初のコーナーにナースステーションがあった。

ナースステーションを通り過ぎて少し行った左側の733号室の入り口に幸村百合子の名前が書かれたプレートが差し込まれていた。

キョロキョロしながらついて来た楓が、そのプレートを見て叫んだ。

「ママの誕生日といっしょだ。」

すると、今泉は楓の頭をなでながらウインクをした。

「それにナースステーションも近いしね。」

どうやら、百合子の誕生日が3月3日なのでこの部屋を取ってくれたらしい。

医者にしては珍しく、粋な事をする。

雅俊はそう思った。

部屋に入ると、今泉が言ったとおり、ホテルのような内装が施されていた。

入るとすぐに下駄箱があり、そこで靴を脱ぐようになっている。

スリッパは、緑色の薄っぺらいものではなく、イヴサンローランの高級品だった。

もちろん、バス・トイレ付、洗面所には大きな鏡が付いた大理石製の洗面カウンターが備え付けられている。

ゆったりしたベッド、ベッドの周りには可動式のパーテーションが設置さている。

クローゼットもかなり広い。

ベッドの脇には、ライト付きの机と椅子もあった。

見舞いに来た人のための応接セットも雅俊の会社の社長応接室にある物と変わらないような高級品だった。

床は、大理石調の塩ビタイル、壁と天井にはクロスが張られていた。

両開きのガラスのドアの向こうには、広いバルコニーがあり、丸いテーブルとイスが二脚置かれていた。

雅俊は感心した…というより、驚いた。

「これが病院の病室?本当かよ!」

そして、驚きはすぐに不安に変わった。

「いったい、いくらかかるんだ?」

そんな雅俊を見て、今泉は首を横に振った。

「これが他の病棟ならともかく、この産婦人科病棟では、これが標準ですから、特別な料金は一切かかりません。そう…普通のお産と同じくらいですよ。だから、どうぞご安心ください。それに、24時間体制で看護も万全です。」

今泉と雅俊が話している間に、香織は百合子の荷物をクローゼットや机に整理して収納しながら言った。

「ここなら、入院しているって感じしないわね。ホテルで骨休めしていると思えばいいわ。」

「そうね。ドレスのひとつも持ってくるんだったわ。」

百合子は、さっきから、ベッドで楓と遊んでいた。

病院のベッドなのでホテルのベッドのようにクッションはきいてないが、掛け布団はダウン100%でふんわりとしてとても軽かった。

「じゃあ、あとはこの子たちが交代でお世話をしますから、部屋の設備や病院内の施設を案内してもらってください。」

今泉はそういうと、笑顔で手を振り自分の病棟に戻って行った。

「素敵な先生ね。」

香織が、今泉ん去った方を見つめたまま言った。

「ご主人もとても素敵ですよ。」

看護師のひとりが百合子に微笑みかけた。

「横山有紀です。よろしくお願いします。」

背が高くて、女優の上野樹里に似た彼女は長い髪を束ねてポニーテールにしている。

ヒデのヤツがここにいたら、きっと一目ぼれしたに違いないと雅俊は思った。

もう一人の方は少しぽっちゃりした萌系のメガネっ子だった。

「私は島田果歩です。よろしくお願いします。」

二人は、病室の設備を簡単に説明してくれた。

百合子がノートパソコンを取り出すと、島田果歩がインターネットの設定をしてくれた。

「これで、いつでもインターネットができますよ。メールアドレスは今まで使っていたものがそのまま使えますから。」

「ありがとう。」百合子は果歩に礼を言った。

「そろそろ昼だなあ。」

「カエデもお腹すいた。」

「どこか旨いものが食べられるところはありますか?」

雅俊が看護士の二人に尋ねると、有紀と果歩は口をそろえて、病院の食堂を紹介してくれた。

「私たちもお昼休みにしますから、よろしければみなさんご一緒しませんか?」

「それは願ってもないわ。案内して頂けますか?」

香織が聞くと、二人は「はい、喜んで。」と笑顔で答えた。

6人は一度、2階に降りると渡り廊下を戻り、本館のエレベーターで8階に上がった。

そこは、デパートの展望レストランのように、入り口の両側にメニューのサンプルがずらりと並べられていた。

値段が、どれも普通のレストランの半額くらいだったのには雅俊も香織もびっくりした。

「これがいい!」

楓が真っ先に指差したのはお子様ランチだった。

丸く盛られたチキンライスにハンバーグタコとカニの形に刻まれたウインナー、スパゲティーミートソース、クリームコロッケ、サイコロステーキ、フライドポテト、ミックスベジタブル、デザートにイチゴのミニパフェが付いている。

これで¥380なら、大人でも食べたくなるような内容だ。

有紀と果歩は¥490の日替わりランチにすると言った。

もちろん、今日は雅俊がご馳走すると言った。

今日は、和風ハンバーグとフライの盛り合わせだった。ミニサラダも付いている。

百合子はミニサラダ付き明太子とシーフードのスパゲティー、¥400を。

香織は140gのサーロインステーキ¥500とシーザーサラダ¥150を。

雅俊は200gのサーロインステーキのスープセット¥780を頼むことにした。

後はそれぞれ飲み物を加えても、6人で¥3,790。一人平均6¥630ちょっとだった。

「これはある意味、穴場だなあ。」

雅俊が言うと、香織は頷いた。

「でも、誰でもここで食べられるわけではないんですよ。」

有紀が否定した。

「そうなんですか?」

「ええ。ここの職員か患者さんが一緒か、患者さんが申請した入館証明証がないとダメなの。今日は私たちが一緒だからいいけど、次からは、ゆりこさんといっしょか、百合子さんに入館証明証を申請してもらうかしないと入り口の守衛さんに摘み出されてしまうんですよ。証明証はナースステーションに人数を言うだけで簡単にもらえるから大丈夫ですよ。」

「そうだよな。いくら利益主義でなくてもみんなここに来たら、大変だもんな。」

料理は、値段の割にきちんとした量があった。

雅俊たちは、みんな満足した。

食事が終わると、一旦部、屋に戻ってくつろいだ。

ゆっくり休んだら、病院内を案内するから、ナースコールで呼んでくれと言って有紀と果歩はナースステーションに戻って行った。



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