魂の導き
15.魂の導き
その女は、自分が幸村の浮気相手だと公言した。
香織にしてみれば、今、いちばんけりをつけなければいけない問題の根源がやってきたのだ。
これは考えようによっては願ってもなおことだった。
すきを見て、幸村にはメールを入れたので、幸村はすぐにやってくるだろう。
その前の確認しておかなくてはならないことがある。
おそらく、彼女もここに来たのにはわけがあるのだろう。
香織は幸村のボトルを出して、彼女の前に置いた。
VSOPのボトルにはまだ半分ほど入っているブランデーが金色に輝いている。
彼女はそのボトルを眺めて、フフッと笑った。
幸村のボトルには、店の女の子や常連客達が書いた落書きが所狭しと書かれていた。
その落書きをひとつひとつ見ている。
「たぶん大丈夫ですから、おつくりしましょうか?」
香織は、彼女がこのボトルのブランデーを飲んでも問題ないと思ったので、そう尋ねた。
「はい。お願いします。」
彼女はそう言って微笑んだ。
香織も微笑み返して、ブランデーの水割りを作って彼女の前に置いた。
「どうもありがとう。あなたもいかがですか?」
「ええ、それじゃあ、遠慮なく。」
二人はグラスを合わせて乾杯した。
「申し遅れましたが、私、浅井夕子ともいします。先ほどは失礼なことを申しましてすみません。」
「いいんですよ。たぶんあなた達は、世間一般が言う浮気というようなお付き合いではないはずですよね。」
「わかりますか?まず、幸村さんの辞書には浮気という文字がないんですよね。だから、彼自身が浮気をしていると思っていないんです。私にしてみれば、妻子ある男性と知っていてお付き合いさせていただいているので充分浮気の相手なんですけれど…」
「あなたは幸村さんのことをどう思っているのかしら?」
「そうね。きっと、あなたには知る権利があるわね。」
夕子は、香織が幸村にはなくてはならない女性の一人であることを直感的に察していた。
「もちろん、愛しているのよ。一緒にいると楽しいし、癒されるわ。セックスはそれほど上手ではないけれど、やさしくてとても思いやりがあるのよ。だけど、私は結婚願望とか独占願望とか、そういうものは最初から持っていないの。だから案してください。彼の家庭や社会的立場をを壊してまで、お付き合いを続けるつもりはないのよ。もう、六年間お付き合いさせていただいているし、わたしも、もう37ですもの。若い人たちにはかなわないわ。若い人っていうのには、もちろん彼の奥さんも含まれているのよ。」
「今日、ここへ来たのは…」
「あなたに会うためよ。ええと…」
「香織です。」
「香織さん。お気付きですか?」
「えっ?」
「今、幸村さんの心の中には4人の女性がいるわ。みんな彼にはなくてはならない人よ。自分で言うのもなんだけど、もちろん私もその中の一人よ。」
「4人ですか?」
「ええ。まずは、奥さん。奥さんは幸村さんにとっては一番の大きな柱だわ。どんなことがあっても、彼は奥さんを第一に思っているわ。この柱が倒れたら、きっと幸村さんは大変なことになるわね…」
香織は夕子の話を聞きながら、色々考えていた。
さすがに六年をつきあっているだけあって、的確に幸村のことを分析しているようだ。
そして、理解している。
しかし、夕子は4人の女性と言った。
香織にはいくら考えても3人しか思い浮かばない。
百合子にさつき、そして今ここにいる夕子。
百合子も他の女性のことは話してくれなかった。
もしかして、百合子も知らない女性がまだいるのか…
「…そして、森本さつきさん。彼女のことで、幸村さんはずいぶん傷ついていたけれど、そのことで、さつきさんは、幸村さんの中の大きな柱の一つになっているわ。この柱は、決して壊れることはないけれど、奥さんの柱の代わりになることはできないわね…」
香織は頷きながら話を聞いている。
夕子も、当然香織がさつきのことも自分のことも知っているはずだと確信したうえで話していることが香織には分かった。
「…そして、わたし。わたしは、柱というよりは、そうね…窓かしら。必要がなければ閉じて行けばいいし、開けたくなったら開ければいい。だから、私は幸村さんの愛人というよりはほとんど友人に近いと言った方がいいかもしれない。本当はちょっぴり悔しいけれど、他の人とお付き合いするくらいなら、それでも幸村さんと一緒にいられることの方が、私にとっては幸せなの…」
香織は、「なるほど。」と思った。
37歳といえば、幸村より一つ上か、誕生日の差による同じ年になる。
伊達に長く付き合っていない。
そして、もう一人は誰なのか…
香織は、生唾をごくりと飲み込んだ。
陽子とみゆきも、二人の会話をただ黙って聞くしかなかった。
他の客がいなかったのは幸いだった。
陽子はそう思った。
「…そして4人目。たぶんこの女性は奥様と同じくらい大きな柱だわ。この人はたぶん、影となり、表となり幸村さんを支えているわ。」
それを聞いた香織はショックだった。
幸村にそんな女性がいたなんて。
「夕子さんは、他の3人をみんな知っているんですね。」
「そうよ。幸村さんはみんな話してくれたわ。一人をのぞいて、実際にお会いしたわけではないけれど…もっとも会えるわけがないんですけどね。ただ、お仕事の関係でさつきさんの葬儀には、私も上司に連れられて行ったから、お写真だけは拝見したわ。」
香織は考えた。
一人には会っているといううことなら、会っているのは、百合子か、4人目の女性ということになる。
百合子からは、そんな話は聞いていないので、おそらく、夕子が会ったことがあるのは4人目の女性なのだろうと香織は推測して、夕子に尋ねた。
「一人とは会ったんですか?」
「ええ、今日初めて、ここで。」
そう言って微笑む夕子の顔には、百合子と同じ穏やかなオーラが感じられた。
雅俊は家を出ると、“スウィートメモリー”へ走った。
途中でタクシーを拾うつもりだったが、こういう時に限ってなかなかつかまらない。
このまま走り続ければ20分で着くが雅俊には、20分も走り続けられるほどの体力はなかった。
10分も走るとヘトヘトになって、立ち止まり、電柱に片手を着いて、ゼーゼーと呼吸を乱した。
ちょうどその時、後方から車のライトが照りつけた。
振り向くと、タクシーがこちらに向かって走ってきた。
しかし、『賃走』の緑色の文字を光らせていた。
雅俊は結局、40分掛けて“スウィートメモリー”にたどり着いた。
香織は苦笑いして夕子を見た。
「そんな…どうして?」
「香織さんはまだ気が付いていないみたいね。幸村さんはずっとあなたのことを愛しているわ。もっとも、幸村さん本人も気が付いていないかもしれないわね。そして、今日あなたに会ってはっきりしたわ。私は、きっと奥様の方に似ているタイプなのだと思うわ。そして、あなたは、さつきさんによく似ているのよ。」
まただ。
香織にはよく分からなかった。
幸村に想いを寄せる人たちは、皆、自分はさつきに似ているという。
森本さつき…その存在の大きさを、香織は改めて思い知った。
カウンターの中では、陽子とみゆきが呆気にとられて、ただただ二人を見ていた。
陽子は自分の知らないところで、幸村と百合子の廻りに起こっていることがものすごい早さで動き出していることを実感していた。
みゆきにしてみれば、香織が幸村の家に居候していることしか知らないので、今日の出来事は寝耳に水だったし、決して他言してはならない話しなのだと自分に言い聞かせて、ママの陽子に確認を求めた。
陽子は、頷いた。
香織はそんな二人の説明しておかなければならないと思った。
但し、百合子のことは、みゆきに話すわけには行かなかった。
「さっき、メールで幸村さんに彼女が来たことを伝えたから、時期に来ると思うわ。そしたら、説明するわ。」
ちょうどその時、店のドアが開いた。
雅俊は、汗びっしょりだったが、ハンカチも何も持っていなかったので、手で汗を拭って、シャツで拭いた。
そして、店のドアを開けた。
「浅井さん…」
夕子は、雅俊の方を振り向くと、満面の笑みを浮かべた。
カウンターの奥で、ママの陽子とみゆきが、うろたえているように見えた。
そして、おそるおそる香織を見た。
眉間にしわを寄せて、険しい表情をしている。
「いらっしゃい。お待ちしておりましたわ。」
そう言うと、香織は雅俊に微笑んで、夕子が座っている隣の席にコースターを敷いて、タンブラーを置いた。
雅俊が席に着くと、みゆきがおしぼりを差し出した。
「ありがとう。」
雅俊は、みゆきに礼を言って、顔中の汗を拭った。
陽子は、外の看板の明かりを消して、“Open”の札をひっくり返すと、“Close”の文字を表にしてドアに掛けた。
「さあ、今日はもう誰にもじゃなされる心配はないから、安心しておやりなさい。」
陽子の言葉に雅俊はギョッとした。
「安心しておやりなさいって…」
香織は雅俊に水割りを作って渡すと、グラスを合わせ、乾杯した。
「さて、何から聞こうかしら?」
香織は不適な笑みを浮かべて、雅俊を睨み付けた。
雅俊はチラッと夕子の方を見た。
夕子は、ニコニコ笑って、まるで、人ごとのように楽しんでいるようだ。
そんな夕子を見ていると、本当に百合子にそっくりだと香織は思った。
幸村が夢中になるのも分かるような気がする。
しかし、幸村には少し、お灸を据えておく必要がある。
「まず、幸村さんは、この人のことをどういう風に思っているのかしら?」
「どうって…愛おしく思っているさ。決して、半端な気持ちで付き合っているわけではないさ。」
「その間、ユリさんに対してはどういう風に思っていたの?」
「どうもこうもないさ。百合子はたった一人の俺の妻だ。これだけは変わらないし、変えるつもりもない。」
「ユリさんのために、この人と別れるつもりはあるの?」
雅俊はまた、夕子の方を見た。
夕子は、新宿で食事をしたときと違って、落ち着いている。
不安な表情はもはや、みじんもない。
全てを雅俊の一言に委ねている…そんな表情にも見える。
「浅井さんはボクにとって必要な人なんだ。別れるとか別れないとか、そういうことで決めつけたり出来ることではないんだ。あえて、選べと言うのなら、別れるつもりはない。」
香織は、幸村がそう答えることは分かっていた。
なぜなら、それが幸村だから。
幸村が夢中になった女性はみんな、香織から見て、幸村に対する恋愛には優等生だと言っていい。
女性としても香織に比べたら、何枚も上だと思った。
この人達を相手にしてかなうわけがないと思った。
そんな人達が、幸村をこんなに愛している。
そして、誰もがバランスを保とうとしている。
幸村に愛されていることで幸村が愛する全ての女性をも愛している。
香織は、今日、夕子と話しをすることが出来て良かったと思った。
何となくではあるが、今まで感じていた違和感の正体が分かってきたような気がした。
それは、香織自信が雅俊を愛していること、そして、百合子や夕子達と同じように、雅俊が愛した女性が愛おしく思えて仕方なかった。
百合子に幸村を頼むと言われてからは、自分を押し殺してしまった気がする。
百合子のためにと思い始めてからは、自分が既に幸村のことを愛していたにも係わらず、そのことに気が付く機会を作ろうとしなかった。
百合子が、香織に自分の間までと言ったことの本当の意味がやっと分かった。
幸村は決して、あたりかまわず恋をしているわけではないのだ。
幸村の恋愛の基本は百合子と香織なのだ。
百合子と香織はともに独立した二本の柱なのである。
もちろん幸村自身、意識しているわけではない。
百合子はそんな幸村に必要な、心の奥に秘められた二本の柱に気が付いていた。
百合子は、銀座時代から、幸村の気持ちは分かっていた。
しかし、自分一人では幸村を満たしてやることはできない。
そんな気がしていた。
そんな時に現れたのが香織だった。
百合子は香織に会った瞬間、この子だと直感した。
この子の存在が、将来、きっと幸村の支えになる。
そう確信したからこそ、幸村のプロポーズを受け入れる決心がついたのだ。
香織の存在が幸村の中でまだ小さかったとき、さつきが現れた。
さつきの存在は幸村の中で、急激に成長していった。
そして、さつきが死んでからもそれは幸村の心の中に残り続けている。
しかし、さつきの柱には実態がない。
いわば、魂だけの状態なのだ。
さつきの魂は百合子が選んだ香織を受け入れる準備を始めた。
さつきの魂は百合子の柱が壊れそうになっていることに気づいていた。
香織にはまだ準備が充分整っていない。
だからこそ、まだ、百合子を自分のそばに迎え入れるわけにはいかなかった。
魂だけのさつきが出来ることには、限界がある。
香織の準備が整うまで、百合子には生きていてもらわなければならない。
そして、出来るだけ早く香織の準備を完了しなくてはならない。
夕子の意識の中にさつきが入って行ったのは彼女が上司に連れられてさつきの葬儀に来た時だった。
さつきの魂は、夕子に百合子と同じものを感じ取った。
魂だけのさつきは、自分を大きく意識している人間にしか入っていけない。
夕子もまた、百合子と同じく幸村の中の二本の柱に気が付いていた。
そして、さつきの存在の大きさを自覚していた。
百合子がいなくなってしまうと、夕子の存在は微妙なバランスを保っていく上で、重要な意味を持つ。
百合子はさつきを通じて、夕子と香織を引き合わせ、お互いの役目を理解させることに成功したのだ。
これで、香織の準備はほぼ完了した。
香織も夕子も幸村の答えに満足した。
「それが幸村さんなのね。」
香織が夕子見て微笑んだ。
「そう。それが幸村さんなの。」
夕子も微笑んで、香織を見た。
今度は雅俊の方を見て香織がささやいた。
「ユリさんと…」
夕子もほぼ同時に口を開いた。
「さつきさんが…」
「…私たちを引き合わせたのよ。」
夕子は、雅俊の手を取って彼の眼を見た。
「今日はごめんなさい。驚かせてしまって…だけど、もう安心していいですよ。だから、これから何があっても驚かないで下さいね。」
その言葉を聞いて、雅俊は意味がわからないという表情をしていたが、香織は驚いた。
「夕子さん、あなた、もしかして…」
夕子は左手の人差し指を一本立てて、口の前に当て「内緒よ。」といように合図をして頷いた。
香織は、その瞬間、夕子の中にさつきの存在を感じた。
そして、香織はもう一つな覚悟をしなければならない日が近いことを悟った。