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そして、もう一人の方がやって来た。

14.そして、も一人の方がやって来た


 さつきの母親は、足腰が弱っているとはいえ、日常の生活には支障がないようだった。

さつきには、兄弟が他に二人(兄と姉)いるとうことだったが、それぞれ独立して所帯を持っている。

今は、彼女が一人でここに住んでいる。

ここに入居した当時、森本家は6人家族だったため、出来るだけ広い部屋をということで入居したこの部屋は隣り合った2世帯を併せて1世帯に改修したタイプの部屋だった。

 香織は玄関を入ってすぐの台所に面した和室の6畳間に通された。

木製のしっかりした座卓が置かれ、座布団がきちんと並べられていた。

香織は、向こう側の手前に腰を下ろした。

さつきの母親は、台所に立ってお茶を入れている。

「お昼は、もう食べてこられましたか?」

お茶をいれながら、香織に聞いた。

「はい。来る途中で済ませてきました。」

香織は、手で顔を仰ぎながら答えた。

エアコンは付いているが、冷房はかけられておらず、窓という窓が全て開け放たれていた。

風が通り抜ければ、まあまあ涼しいが、風が止まったらじりじりと汗がにじんでくる。

「年寄りは機械の風が、どうも苦手でね。」

そう言って、エアコンのスイッチを入れ、窓を閉め始めた。

「成田に着いたときにでも電話して下されば、涼しくしておいたんですけど、ごめんなさいね。」

「いいえ、暑いのは苦手ではありませんから、大丈夫ですよ。」

そう言いながらも、額からにじんでくる汗を放ってはおけず、ハンカチで拭きとる香織を見て、さつきの母親は、風量を最大にした。

「さて、何からお話ししようかしら…」

香織は、百合子から聞いた自分が知る限りのことを話して聞かせた。

さつきの母親は、ひと通りの話を、時には頷きながら、ときには驚いた表情をして、聞き続けた。


 香織の話が終わると、さつきの母親は二杯目のお茶を入れてきた。

それと、成田名物の“ぬれせん”をお茶請けに持ってきた。

「わぁ!“ぬれせん“ですね。これ、好きなんですよ。」

香織は、遠慮せずに、1枚取った。

「うちの者は、あまり食べなかったんだけど、あの子だけは好きでねえ…だから、あの子が家を出てからも、切らさないように、いつも置いてあったんだけどねぇ…」

香織は、“ぬれせん“を引きちぎりながら、話しをした。

「さつきさんは、お母さんっ子だったんですね。」

「年の離れた末っ子でしたから。それに、早くに父親を亡くしていものでねぇ。」

香織は頷いて、お茶を一口すすった。

「赤ちゃんのことは、お母様も容認されていたんですよね。」

さつきの母親は、曽原駆無言のまま、外の景色を眺めていた。

香織は、彼女が口を開くのを静かに待った。

「容認と言うより、あの子の思うとおりにさせたやりたかったの。父親が生きていた頃は、どうしても、生まれたばかりのあの子より、兄と姉の方に色々手を掛けなければならなかったから、本当に、あの子には親の愛情を掛けてやれなかったの。結婚も兄の仕事関係の相手とのお見合いで、望んでしたものではなかったのよ。あの子はそんなこと一言も口にしなかったけれど、私は可哀想で可哀想で…だから、あの子は自分の子供がどうしても欲しかったの。それが、二度もあんなことになって…あの子が幸村さんを見初めたのには訳があるのよ。あの子、一度だけ、男の人を好きになったことがあるの。その時に好きになった人は、誰にでも優しくて、思ったことを正直に話してくれる人だったと聞いたことがあるわ。私が初めて幸村さんにあったときは、幸村さんが新だあの子の父親にそっくりだったので驚いたけれど、あの子は、父親の顔を知らなかったから、単に幸村さんの人柄を好きになったんだと思うの。それは、幸村さんの人柄が、たぶんあの子が好きになった人と似ていたからだと思うわ。それに、私が言うのもなんだけど、幸村さんもあのこのことを愛してくれていた…」

香織は頷いた。

「悔しいけれど、それは実際にそうだったと思います。だけど、それが幸村なんだと幸村の妻も言っていました。」

「奥さんは本当に、お気の毒なことになってしまいましたねぇ…」

「でも、彼女もさつきさんと同じ気持ちだと思います。彼女は幸村と結婚して9年、知り合ってからだと14年一緒にいることが出来ました。そして、何より、彼女には女の子が一人授かりました。それだけ幸せに過ごしてこられたのも幸村のおかげ。だから、幸村が愛した人になら、幸せを少しくらい分けてあげたとしても、なんの文句もない。そう言っています。」

さつきの母親は、涙ぐみながら、うん、うん頷くばかりだった。


香織は、今日、さつきの母親に会いに来て良かったと思った。

百合子から聞いた、話し以上に、さつきのことを知ることが出来たし、それ以上に、幸村のことを理解することが出来た。

さつきの生い立ちは、百合子の生い立ちと共通する部分が多いのにも驚いた。

そして、愛する人に対する献身的な姿勢も似たところがある。

私と比べたら、本当に正反対だ。

香織は、益々、自分でいいのか迷ってきた。

たしかに、幸村とは“スウィートメモリー”に入ったときから、百合子を通じて、幼なじみのように過ごしてきた。

恋愛感情も全くなかったわけではない。

正直、もし、百合子がいなかったら…と、思ったこともあった。

自分が幸村の妻になること、楓の母親になること、それについてはなんの問題もない。

香織自信のことだから。

しかし、幸村の妻が、楓の母親が私でいいのかは香織には分からなかった。

百合子は、あんな風に言っているが、幸村が拒むかもしれない。

さらに、楓が拒めば、幸村も同意しないだろう。

しかし、進しかない。

香織は改めて、そう決意したのだった。


 その後は、しばらく別の話題でお茶を飲み、“ぬれせん“を引きちぎりながら食べた。

鳩時計が3時の時報をならした。

「それじゃあ、今日のところはそろそろ帰ります。なんだか、お母様とは他人のような気がしません。また、おじゃまさせてもらってもいいですか?」

さつきの母親は、「よいしょ。」と、立ち上がると、台所に行って、“ぬれせん“を一袋スーパーの袋に入れて、香織に手渡した。

「ありがとうね。私もなんだか娘が出来たみたいで嬉しいわ。」

ふたりは、抱き合って別れを惜しんだ。

最後に、香織が部屋を出ようとしたとき、さつきの母親は香織に意外な一言を告げた。

「香織さん、あなたは、本当にさつきによく似ているわね。あなたならきっと幸せになれるわ。いいえ、あなただからこそ幸せになって欲しいわ。さつきの分まで。」

思ってもいなかった言葉に、香織は驚きを隠せなかった。

しかし、その場では笑顔を保ちながら、「はい。」と返事をして部屋を出た。

だが、さつきの母親が最後に告げた言葉が事実なら、案外そうなる運命だったのかもしれない。

今までの心配が少し和らいだ。

そう言えば、百合子も、無理して他人になろうとする必要はないと言っていた。

その根拠は、以外とこういうことなのかもしれない。

香織はそう感じた。

あとは、もう一人の方をどうするか…


 新宿住友ビルのエレベーターホールで夕子は雅俊を待っていた。

約束した時間の6時半まではあと10分ほどある。

雅俊は、6時半を少し過ぎた頃にやってきた。

「やあ、お待たせ。」

そう言って、右手を挙げ、夕子に遅れたことを詫びた。

「大丈夫、許容範囲です。」

雅俊はエレベーターの△ボタンを押した。

エレベーターはすぐに二人を迎えに来た。

雅俊は、夕子の肩を抱いてエレベーターに乗り込む。

50階を示す“50”のボタンを押す。

あっという間に50階に到着する。

新宿住友ビルの50階にあるワインバーの夜景が見える窓際のテーブル席を雅俊は3日前の予約していた。

ブルゴーニュ産の赤ワイン“ジュヴィル シャンベルタン”をオーダーし、とりあえず、生ハムとイタリアンサラミの盛り合わせ、6種チーズの盛り合わせを頼んだ。

「素敵なお店ね!愛変わらず幸村さんはセンスがいいですね。」

「いつも、こういうところに来るわけじゃないさ。今日は特別さ。」

「特別?」

「ああ、君と一緒だからね。」

「まあ!幸村さんったら。」

ソムリエがワインを持ってきた。

幸村は、一応、テイスティングのまねごとをしてOKの合図をした。

ソムリエが立ち去ると、夕子に向ってウインクした。

「まあ、なんだ…たぶん、不味くはない。」

正直、ワインバーには来たものの、雅俊はワインについては、味も含めて全くわからなかった。

夕子はグラスの中のワインをくるりと廻し、香織を確かめる。

「いい香りだわ。」

雅俊は驚いて夕子を見ている。

今度は、ひとくち、口に含む。

「合格ね。充分おいしいワインだわ。なぜ、このワインにしたんですか?」

「値段が手ごろだったからね。それにブルゴーニュ産と書いてあったからフランスのものだろう?ワインと言ったらそれくらいしか思いつかなかったから…君はワインには詳しそうだね。」

「はい。父親が大好きでしたから。その影響で。」

「じゃあ、最初から君に任せればよかったかな?妙に格好つけてみたけど、かえって、格好悪かったかな?」

「いいえ、そういう正直で飾らないところが幸村さんの魅力ですもの。格好悪くなんかありませんよ。」

少しすると、ウエイターが生ハムとイタリアンサラミの盛り合わせ、6種チーズの盛り合わせを持ってきた。

追加で、イベリコ豚の炙り焼きと、和牛のカルパッチョをオーダーした。

雅俊は、二杯めのワインを飲み終えたところで切り出した。

「実は、どうもバレているらしい。」

「えっ?」

夕子は、何のことだか分らなかった。

「君と付き合っていることを、女房はずいぶん前から知っていたらしいんだ。」

「本当?」

夕子は、もしかしたら、別れ話を持ち出されるのではないかと、内心、不安がよぎった。

「ああ、女房は容認してくれているみたいだけど、どういう訳か、女房の親友にひどく責められてねぇ…」

夕子は黙って聞いていた。

「…俺にしてみれば、浮気をしているつもりはなかったから、これが浮気だというのなら、俺は、悪い亭主ってことになる。そもそも、浮気ってなんだ?どこで線を引けばいいんだ?線を引いて、それを超えさえしなければ許されるのか?」

雅俊は腕組みをして、「納得がいあないなあ。」と、いうような顔をして考えている。

夕子は、本当に不安で仕方がない、というような表情のまま、雅俊に伺いを立てるような口ぶりで話しだした。

「あの…もう、会わない方がいいですか?」

雅俊はハッとして、夕子を見た。

夕子はずいぶん深刻に受け止めているということが、その表情から、すぐに分かった。

雅俊は「ちがう!」という風に、顔の前で手を振った。

「ごめん、そんな大袈裟なもんじゃないんだ。二人とも俺のことはよく分かってるから、そのこと自体は問題ないと思う。ただ、最近、女房が具合悪いようだから余計な心配させるなと言いたいんだと思う。第一、彼女は実際、俺の女房でも何でもないんだから。」

「その彼女って?」

「ああ、結婚する前に女房が務めていたスナックの女の子なんだけど、彼女は今でもその店で働いていて、結婚した後も家族ぐるみで付き合っているんだ。まあ、いわば、俺のお目付け役ってところかな。」

「そうですか。じゃあ、今まで通りお付き合いできるんですか?私、別れ話でも切りだされたらどうしようって、すごく不安になっちゃいました。」

夕子は少し、安心した表情に戻って、ワインの入ったグラスを口元に運んだ。


 そんな事情もあって、この日は、食事だけで二人は別れた。

雅俊は、小田急線の改札口まで夕子を送った。

「今日はどうもごちそう様でした。」

夕子は深く頭を下げて礼を言った。

幸村は手を振って、JRの方へ歩いて行った。

それを見届けてから、夕子は引き返した。

幸村と会わないように気をつけながら、総武線に乗った。

“スウィートメモリー”のことは、以前、幸村から聞いて知っていた。

夕子が「行ってみたい。」と言ったら、「今はまずい。」と断られたことがあった。

錦糸町駅に着くと、電話ボックスの電話帳で、住所を調べた。

携帯電話のナビゲーターに住所をインプットして、店の場所をつきとめた。

幸村は、今日はまっすぐ帰ると言っていた。

そういうことでウソをつく幸村ではない。

夕子は思いきって店のドアを開けた。


 木曜日のこの日は、ママの陽子と香織、みゆきが店にいた。

店は珍しく、暇で客は一人もいなかった。

入り口のドアが開くと、女性が一人で入ってって来た。

「いらっしゃい。おひとりですか?」

「はい。」

その女性はそう返事をすると、カウンターの席を示し、「ここでいいですか?」と尋ねた。

陽子は頷いて「どこでもお好きな席にどうぞ。」とほほ笑んだ。

「初めてですよね。」

香織が尋ねた。

彼女はうなずいた。

「何にしますか?」

香織はそう言って、メニューを渡そうとした。

「幸村さんのボトルは入っていますか?」

香織は持っていたメニューを手から滑らした。

カウンターに落ちたメニューを拾って、彼女の顔を見た。

彼女はもう一度言った。

「幸村さんのボトルは入っていますか?」


 雅俊は9時過ぎには家に戻っていた。

上着を脱いで、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルトップを開けた時に携帯電話にメールが入った。

香織からだった。

〜もう一人の方がお店に来てるわよ!〜

雅俊は首をかしげた。

もう一人?ま、まさか!

百合子が、ビールのつまみに、雅俊の埼玉の実家から届いたというチーズの盛り合わせを持ってきた。

すぐに、ブルーチーズがあるのが見えた。

好物のブルーチーズには後ろ髪を引かれる思いだったが、百合子に詫びて上着を羽織った。

「香織からメールが来た。店が暇だから顔だしてくれった。ちょっと行って来る。」

雅俊は慌てて家を飛び出した。

「あらあら、あんなに慌てちゃって、よっぽど、まずいことでもあったのかしらねえ。」

百合子は、まるで、他人事のように、出ていく雅俊を見送った。


 “スウィートメモリー”ではカウンターを挟んで香織と夕子が対峙していた。

「幸村さんのお知り合いの方ですか?」

「はい。たぶん、浮気の相手です。」

香織は顔色ひとつ変えなかったが、陽子とみゆきは驚いて振り返った。



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